大沢温泉から花巻駅行のバスに乗って「クレー射撃場前」というバス停で降りたのは午前9時半少し前。
ここから、3.5キロ先の高村光太郎記念館(高村山荘)までは、昨年も歩いた道。豊沢川に架けられた「高村橋」と名付けられた橋を渡っていく。
昭和20年から27年まで、光太郎さんは、現花巻市太田山口という山間地の掘立小屋同然の一軒家で独居生活を行っていたが、時折、このバス停あたりまで歩いてきて、当時花巻駅と西鉛温泉の間を走っていた花巻電鉄という路面電車に乗って、大沢温泉などへの湯あみや花巻市街への買い物などに行ったという。
早足40分くらいで、高村山荘まで行きつくが、そこから「経埋ムベキ山」の「八方山」(716.6mはっぽうやま)への登山口がよく分からなかった。山荘近くにあった「新奥の細道案内図」には、登山口が表示されていたので、その先を行くと道が途絶えて、あぜ道のようなところを迂回して、五万図をたよりに何とか「それらしい」場所に行きついたのは、11時近くになっていたか。途中1カ所「新奥の細道の道しるべ」で「八方山登山口⇒1.3k」があったが、その先が何カ所道別れしているのに、何の案内もなかった。
「それらしい」場所には、登山口の表示さえなかった。とにかく八方山方向に道が伸びているので、登り始めた。やっと道しるべに出会ったのが、登り始めて1時間30分くらいの、尻平川コースとの合流地点。
オイラが登ってきたのは、長根崎コースといって五万図には「東北自然歩道」と表記され、先ほどの「新奥の細道」のコースにもなっているいわば官製の道といってもいいコースなのだが、登山口からここまで何一つ標識がないのはどういうことなのか。「これが、日本の文化行政か」と寒くなった。
合流地点から安心して急坂を登ると、平坦な場所に行きつき、観音堂跡の碑がブナ林の中にぽつんと立っている。ここから、三角点のある山頂は、5分ほど先にあったが、碑もあり、麓の眺めも少しあったので、賢治さんの経筒はここに眠っている。と確信して合掌す。
山頂の若いブナくんとザックくんと記念撮影
標識がない道ではあったが、八方山長根崎コースは明瞭で、緩やかで、美しい小道であった。
山頂近くの大きなブナだ
松の老木にキツツキのつついた跡が
下山中に気づいた「新奥の細道」の倒れ朽ちた標識
元来た道を引き返し、再び高村山荘を遠めに見て歩いていたら、山荘の向こうに早池峰と薬師が雄々しい。高村さんも眺めていたに違いない。
太田山口から早池峰と薬師のお姿
記念館が建っているほかは、ほぼあの頃の風景のままなのだろうが、振り返る里山風景はあのころより殺伐としたものになっていないか。太田山口から登山口までの往復に誰一人歩くものに出会わず、もちろん子供の声など聞こえず、登山口近くには、夜には無人となるのだろうが、長大な豚舎が何棟も立ち、時折ブタたちの叫喚がこだまし、悪臭が漂い、カラスの群れが飛び交っていた。空き家も目立ち、眼にする人工物は、豚舎や道脇が草に荒れた舗装道路や送電線。
足早に、宿に帰る。
いま、登ってきた八方山を太田山口から撮影
わたくしは昔、復活祭のころ、イタリア、パドワの古い宿舎にとまって、ステンドグラスの窓をあけたら、梨の花が夜目にもほの白かったことを思い出す。「町ふるきパドワに入れば梨の花」。わたくしは卓上の鈴をならして数杯のうまいキャンチをたのしみ味わった。この山の中にもいつかは、あの古都に感じるような文化のなつかしさが生れるだろうか。この山はまず何をおいても二十世紀後半の文化中核をつかもうとすることから始まるだろう。その上でこの山はこの山なりの文化がゆっくり育つだろう。
高村光太郎「山の春」から(青空文庫からのコピペ)
宿で、スマホで青空文庫を呼び込み、ひさびさ高村さんの山荘暮らし三部作と名付けたい「山の秋」、「山の雪」、「山の春」を読む。何度読んでも、浄土のような清浄風景、ほのかなウイットやユーモアがあって、草花や小動物などの生き物や里のヒトビトへの敬愛に満ちた愛くるしい文章だ。
その「山の春」の結びに、光太郎さんは上のように書いている。この山荘の周囲が、さらに豊かで美しい里山となって、20世紀後半には、イタリアの古都で感じたような文化の懐かしさを感じるような場所(賢治さんの言うイーハトーブ)になるのだろうという甘美な期待的観測で終わっている。果たして、いまの日本の山村文化は、光太郎さんの夢見た世界となっているだろうか。
(21世紀初頭の今の風景を、光太郎さんに見せたくはないな。)