かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

イーハトーブ賢治散歩~八方山

2020-11-30 11:25:35 | 日記

大沢温泉から花巻駅行のバスに乗って「クレー射撃場前」というバス停で降りたのは午前9時半少し前。

ここから、3.5キロ先の高村光太郎記念館(高村山荘)までは、昨年も歩いた道。豊沢川に架けられた「高村橋」と名付けられた橋を渡っていく。

昭和20年から27年まで、光太郎さんは、現花巻市太田山口という山間地の掘立小屋同然の一軒家で独居生活を行っていたが、時折、このバス停あたりまで歩いてきて、当時花巻駅と西鉛温泉の間を走っていた花巻電鉄という路面電車に乗って、大沢温泉などへの湯あみや花巻市街への買い物などに行ったという。

早足40分くらいで、高村山荘まで行きつくが、そこから「経埋ムベキ山」の「八方山」(716.6mはっぽうやま)への登山口がよく分からなかった。山荘近くにあった「新奥の細道案内図」には、登山口が表示されていたので、その先を行くと道が途絶えて、あぜ道のようなところを迂回して、五万図をたよりに何とか「それらしい」場所に行きついたのは、11時近くになっていたか。途中1カ所「新奥の細道の道しるべ」で「八方山登山口⇒1.3k」があったが、その先が何カ所道別れしているのに、何の案内もなかった。

「それらしい」場所には、登山口の表示さえなかった。とにかく八方山方向に道が伸びているので、登り始めた。やっと道しるべに出会ったのが、登り始めて1時間30分くらいの、尻平川コースとの合流地点。

オイラが登ってきたのは、長根崎コースといって五万図には「東北自然歩道」と表記され、先ほどの「新奥の細道」のコースにもなっているいわば官製の道といってもいいコースなのだが、登山口からここまで何一つ標識がないのはどういうことなのか。「これが、日本の文化行政か」と寒くなった。 

合流地点から安心して急坂を登ると、平坦な場所に行きつき、観音堂跡の碑がブナ林の中にぽつんと立っている。ここから、三角点のある山頂は、5分ほど先にあったが、碑もあり、麓の眺めも少しあったので、賢治さんの経筒はここに眠っている。と確信して合掌す。

     

 

    

           山頂の若いブナくんとザックくんと記念撮影

   

標識がない道ではあったが、八方山長根崎コースは明瞭で、緩やかで、美しい小道であった。

 

    

                 山頂近くの大きなブナだ

     

             松の老木にキツツキのつついた跡が

      

         下山中に気づいた「新奥の細道」の倒れ朽ちた標識

 

 

 

 

 

元来た道を引き返し、再び高村山荘を遠めに見て歩いていたら、山荘の向こうに早池峰と薬師が雄々しい。高村さんも眺めていたに違いない。 

 

      

               太田山口から早池峰と薬師のお姿

  

 

記念館が建っているほかは、ほぼあの頃の風景のままなのだろうが、振り返る里山風景はあのころより殺伐としたものになっていないか。太田山口から登山口までの往復に誰一人歩くものに出会わず、もちろん子供の声など聞こえず、登山口近くには、夜には無人となるのだろうが、長大な豚舎が何棟も立ち、時折ブタたちの叫喚がこだまし、悪臭が漂い、カラスの群れが飛び交っていた。空き家も目立ち、眼にする人工物は、豚舎や道脇が草に荒れた舗装道路や送電線。

足早に、宿に帰る。

 

 

          

                   いま、登ってきた八方山を太田山口から撮影


わたくしは昔、復活祭のころ、イタリア、パドワの古い宿舎にとまって、ステンドグラスの窓をあけたら、梨の花が夜目にもほの白かったことを思い出す。「町ふるきパドワに入れば梨の花」。わたくしは卓上の鈴をならして数杯のうまいキャンチをたのしみ味わった。この山の中にもいつかは、あの古都に感じるような文化のなつかしさが生れるだろうか。この山はまず何をおいても二十世紀後半の文化中核をつかもうとすることから始まるだろう。その上でこの山はこの山なりの文化がゆっくり育つだろう。

高村光太郎「山の春」から(青空文庫からのコピペ)


宿で、スマホで青空文庫を呼び込み、ひさびさ高村さんの山荘暮らし三部作と名付けたい「山の秋」、「山の雪」、「山の春」を読む。何度読んでも、浄土のような清浄風景、ほのかなウイットやユーモアがあって、草花や小動物などの生き物や里のヒトビトへの敬愛に満ちた愛くるしい文章だ。

その「山の春」の結びに、光太郎さんは上のように書いている。この山荘の周囲が、さらに豊かで美しい里山となって、20世紀後半には、イタリアの古都で感じたような文化の懐かしさを感じるような場所(賢治さんの言うイーハトーブ)になるのだろうという甘美な期待的観測で終わっている。果たして、いまの日本の山村文化は、光太郎さんの夢見た世界となっているだろうか。

(21世紀初頭の今の風景を、光太郎さんに見せたくはないな。)

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イーハトーブ賢治散歩~花巻温泉界隈・羽山・堂ヶ沢山

2020-11-29 16:35:19 | 日記

昨日の日記を訂正しよう。

花巻の湯治場は3泊したのだから1日分=2日目の行動を忘れていた。(認知症の前ぶれか)

2日目は、台温泉から徒歩で羽山神社を詣で、そのご神体をお祀りする羽山山頂に登り、再び釜淵の滝遊歩道を歩いて、晩年、賢治さんが花壇設計を行ったという.花巻温泉のバラ園で賢治碑・日時計などに立ち寄り、荒れ放題の堂ヶ沢山の林道から「経埋ムベキ山」堂ヶ沢山に登り、本来の登山道を見つけ花巻温泉に下山し、日帰り温泉「蓬莱湯」に入湯し、バスで花巻駅へ。

その足で、賢治さんが農学校教師時代、よく訪れたという蕎麦屋「やぶ屋」で、賢治さん好物だったという「天ぷらそば」をいただき、大沢温泉へ、という賢治尽くしの賢治散歩だった。

 


釜淵の滝原風景

 

昨日の日記では、遊歩道や展望デッキなど後世の設えもの以外は、作品「台川」当時のまま滝も川も流れているかのようだと書いてみたが、現在の釜淵の滝は、このような状況だが、

 

       

                          滝の正面       

        

                       滝上から眺める

 

が、昨日図書館から借りてきた岡村民夫著「イーハトーブ温泉学」(みすず書房2008年)掲載の写真を見て驚いた。

子供らの大きさから推定して、滝の幅が今の倍以上はありそうなのだ。同じ滝とは思えないスケールなのだが、滝面の窪みの形状など照らすと「同じ滝」にまちがいない。

この写真は、昭和初期に花巻温泉の絵ハガキとして出回った写真ということだが、作品「台川」は、大正11年・1922年秋の遠足をスケッチした作品とされているから、遠足当時の滝もこの写真に写っているスケールの滝と同じような風景だったろう。

 

      

 

オイラは、正面の展望デッキから、滝の右岸(向かって左側)に設けられた遊歩道を伝って滝上に出て、さらに遊歩道の先を歩いたが、十数メートル先につり橋があって、それを渡ると花巻温泉の一角ホテル佳松園にたどり着くのだが、つり橋から上流をながめて驚いた。

高い堰堤があって、そこから水が流れていた。地図で見たら堰堤より奥は小さなダムのような貯水池になっているようだ。

そうか、この人工物によって水量が制限されてしまい、滝に流れる水量が相当に減ったのだろう。今の風景と堰堤の古さから、かなり以前から水量が減り、長い年月の間に滝の両脇に苔が生え、草が生え、乾燥地と化してしまったのだろう。

それにしても、どうして堰堤をつくったのか、防災か、水資源か、巨大観光資本の安易な遊歩道確保のためか、「せっかくの風景を台無しにしている!」。

あのころのような滝のおおらかさがあれば、いまも老若男女が多く訪れ、夏の水浴びや観一大観光スポットとなっていたのではないか。

残念で仕方がないが、堰堤を今からでものぞいて、古き良き釜淵の滝をタイムスリップさせてほしい。やればできそうなのだが・・

 

 


羽山・堂ヶ沢山

台温泉入り口の羽山神社から、急な細道を登り、羽山の頂上に続く林道にでて、30分ほどで台羽山とも名指される羽山(約350m)に登る。

初冬の登山道、雑木林はほとんど葉を落とし、遠くの山並みが見える。「おお。早池峰と右隣は薬師だな」

並んだ姿は貴婦人のようだ。

      

 

        

      アカマツに囲まれた羽山山頂のこじんまりした頂上に、羽山の神様がおわしました。

 

      

     羽山の中腹には、「龍蔵権現」の碑が。奥にこれから登る堂ヶ沢山がどっしり構える。

 

 

 

      

 花巻温泉のバラ園から奥の林道から約50分、「経埋ムベキ山」堂ヶ沢山(364.5m)山頂に。ナラの木に複数の山名表示が、たいして展望はきかないが、初冬の低山の静かな山頂ってなかなかいいな。宗教モニュメントは一切なかったが、花巻温泉花壇の思い出の山として賢治さんは、ここにも経を埋めたかったのだろう。

 

 

      

 この山からも早池峰と薬師のツーショット見えました。ああ美しい。来年はどちらにもお邪魔しよう。

 

 


花巻温泉 南斜花壇跡で

 

賢治さんが、高校を依願退職したのが30才、1926年・大正15年(昭和元年)の4月、羅須地人協会を設立し、芸術と科学を統合した農業実践というあらたな地平を切り開こうとしたが、理想と現実のはざまでもがいた季節が到来したといえようか。教師時代までの健康も次第に蝕まれていくのもストレスと疲労による免疫力の低下が一因しているのか。

31歳、1927年昭和2年、当時台温泉近くの山間に大正時代の終わりに突如として開発された一大遊興地、花巻温泉のスキー場下部の南斜面(賢治さんがなまこ山と呼んでいる堂ヶ沢山のふもと)に、賢治さんは花壇の制作を依頼され、設計と造園に熱心に取り組んだ。その花壇は、戦後バラ園として整備され、当時の面影は、こないだ訪ねた賢治記念館のある胡四王山の南斜面に復元されている。

 

     +

そのバラ園に立ち寄ったら、「冗語」という透明なプラスチックに印字された賢治詩碑と日時計に出会った。オイラは、賢治の設計になる花壇の魅力をまだ知らないが、はっきり言って、賢治の「雨にも負けぬ魂」と資本家が全国の富裕層の紳士諸氏や家族を招くために遊園地や動物園を併設した温泉郷構想とは相いれぬものがあったのではないか。そのような、温泉地の花壇設計をなぜ請け負ったのかは今後の研究課題ともしたいが、富裕層の喜びそうなサービス精神にあふれた花壇というよりは、詩や音楽をつくるかのような自己表現の場としたかったのではないか。

「冗語」という詩には、花巻温泉の「人相の悪い客層」、「孔雀やヒグマなど異郷から見世物として連れてこられた動物たち」などが登場し、天気の変化にやや神経過敏な造園作業ぶりが描かれており、何やら賢治さんの屈折した心理が現れているような気がした。でも、さきほど「登頂を極めた」羽山や堂ヶ沢山(なまこ山)がでてくるのだから、こころのポケットにしまい込んでおこう。

 

バラ園の小高いところに「あのロッキード事件証人喚問で手が震えて署名ができなかった」小佐野賢治さんの胸像が立てられ花巻温泉街を眺めていた。現在の花巻温泉の経営母体は、小佐野さんがオーナーだった国際興業グループなんだとか。

あと百年後、約百年前に突然現れたこの温泉郷が「兵どもの夢の跡」となっていないかと、ちょっと心配。

     

      昭和2年に建てられて、平成14年に老朽化のため営業をやめた松雲閣別館。昭和天皇も御泊りとか。

 

戦前は、著名な文人墨客も多数花巻温泉を訪れたとのことで、昭和6年の高浜虚子、昭和8年の与謝野晶子夫妻らの碑があちこちに建てられていた。まだ、賢治存命の時だが、知らずに花巻を後にしたんだろう。

 

 

 

 


「ブッシュ(藪)に行こう」と花巻農学校時代の賢治先生。そのころ創業したばかりの「やぶ屋」に生徒や同僚を誘い、てんぷらそばと「アサヒビール」ではなく、「三ツ矢サイダー」を注文したのだという。

戦後、高村光太郎さんも太田山口の山荘から花巻の街に出かけたときは、この「やぶ屋」に立ち寄ったのだという。

大正12年の創業当時から、同じ揚げ方だという衣を厚くした「草履揚げ」を注文し、かみしめるようにありがたくいただいた。天ぷら系の暖かい蕎麦といえば、旅先では、いつも立ち食いのかき揚げそば500円相当を支出し、わずか10分程度で店を出るのを常としているが、老舗の蕎麦屋ののれんをくぐり、750円の天ぷらそばを注文し、ゆっくり座席に腰を掛け500円の中瓶ビールを少しづついただきながら、サクサクの衣を少し汁につけたり、プルリンと汁に溶けた衣を箸に絡まして舌に乗せながらゆっくりとした時を過ごすのもいい。

 

実習で疲れ切った賢治先生の体に三ツ矢サイダーでいただくこの天ぷらそば、沁みただろうな。おそらく、賢治先生も生徒も汁を最後まで飲み干して帰ったことだろう。(ちなみに、オイラは塩分・糖分・脂肪分の過剰摂取を慮って、心残りだが汁を半分残して帰った。ビール飲んでるから効果ねえか。)

 

     

 

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イーハトーブ賢治散歩~飯豊森、台川・釜淵の滝

2020-11-28 13:18:02 | 日記

この11月をもって、2020年のイーハトーブ賢治散歩を終えようと考えていた。

今週は、花巻の台温泉に1泊、大沢温泉に2泊をして、花巻界隈の「経埋ムベキ山」を少し登って、作品ゆかりの地を歩こうと思って、日帰り用具一式をつめ込んだザックとこの頃は定番のモンベルのハイカット登山靴をはいて出かけた。

結果、1日目、「経埋ムベキ山」の飯豊森(いいでもり・えんでもり・いいとよもり)、作品「台川」に出てくる台川と釜淵の滝

2日目、「経埋ムベキ山」の八方山(はっぽうやま)

だけ歩いて、3日目の帰りに予定指定していた一ノ関界隈の「経埋ムベキ山」の束稲山(たばしねやま)・駒形山(こまがたやま)は、湯治場での「湯疲れ」のため次回に回した。

11月で終わる予定だった、上記の予定、3日目分が心のこりなので、来週日帰りで登ってこようか。岩手はもう雪が降り出したみたいだが、一ノ関界隈はまだ登れそうだし、東北地方のクビチョウさん方からの「不要不急の県外移動自粛要請」は、もう少し先だろうと予測されるのだから。


1日目、予定では花巻駅のコインロッカーにザックを保管し、早足で「経埋ムベキ山」の飯豊森と物見崎を訪ね、昼は、賢治さんとは無縁なのだが、1973年に開業し2016年に廃業した花巻市唯一のデパートのデパ食をまるまる復活したのだという「マルカンビル大食堂」で昼食を摂り、バスで台温泉近くを流れる台川と釜淵の滝を訪ねてから宿にはいることにしていたが、南隣の北上市に位置する飯豊森までの往路が、恥ずかしながら5万図の地図上国道と高速道を見誤って遠回りで10k近く歩いたこともあり、1時間30分以上要してしまい、飯豊森を下ったら昼になってしまった。そのため、平日は午後3時まで営業という「マルカンビル大食堂」を賢治さんより優先させることにし、物見崎周回はキャンセルとした。

飯豊森から「マルカンビル大食堂」までは、これも恥ずかしながら5万図に頼らずグーグルマップの経路案内ルートに頼るという「山岳愛好家」に悖る行為に転じたのだが、何と1時間足らずで花巻市内に戻ることができた。紙よりも電子の勝ち。(ちなみに、里山の飯豊森も物見崎もグーグル登録はないので、こちらは紙が電子に勝つのだが、最短で歩くには読図能力が試される。)

里山の鎮守の森のような飯豊森の標高は、わずか131.6mとある。舗装道路を登山靴で歩く長いアプローチだったが、登山口から山頂まではわずか15分程度。それでも、高い杉木立に囲まれた山頂には、古来より里人に大事に守られてきた清楚なお堂と出羽三山信仰と思われる碑のたぐいが鎮座し、得も言われぬ霊感があふれ、近くの高速道の音など立ち消えた静けさに満ちていた。

「ここに、賢治さんのお経が眠っている」。瞑目し、合掌し、「南無妙法蓮華経」と頭で唱える。

この日は、またまた恥ずかしながら赤い屋根のお堂を社(やしろ)と勘違いして、二礼二拍手一礼をして下ったが、麓の案内をみたら十一面観音様が祀られているとのこと。ご利益なし。

 

結局、朝から25000歩ほど歩いて午後1時過ぎに「マルカン大食堂」に入る。驚いた。午後の1時を回ったというのに大食堂に大勢のお客さん。花巻市民7割、観光のヒト3割というところか、花巻市街の閑散とした様子からは想像もできん賑わいでなのである。花巻市民の総意により復活したという食堂なんだな、と納得。

まるで、ヒトの賑わいだけではなく、食券売り子、ディスプレーのメニューの多さ、ウエイトレスの衣装、テーブルとイス、食器や照明などの装飾、トイレのチンカクシ、どれをとっても昭和40年代のデパ食にタイムスリップしたかのような錯覚に陥るスポット。

ここの名物は、大盛りのソフトクリーム、チキンカツののったナポリタン「ナポリカツ」、ピリ辛の五目あんかけラーメン「マルカンラーメン」でデパート時代から変わらぬ味の人気商品ということで、その日は「ナポリカツ」をいただく。

結果・・・・・。「ソウルフード」だという花巻市民には申し訳ないが△評価。カツは、やっぱご飯とカレーに合うし、パスタは柔いし、ケチャツプソースとパスタを炒めた直後のようなアツアツギトギト感がなく、期待していただけに、やや不満。(まったく関連しないのだが、沖縄県名護市にある宮里食そば屋のトースト付きスパゲッティ(ミートソース)500円の方がインパクトがあった。)

今度来たら「マルカンラーメン」を、と言い聞かせ、古いビルを後にする。

マルカンビル大食堂

宿のチック前に、台川の釜淵の滝を歩く。花巻温泉が隣接しているスポットなのに、100m置きにクマの文字通り警鐘が配置されていて、思いっきり鳴らしながら歩く。

遊歩道と展望デッキなどがこさえられていて、賢治さんが作品「台川」に描いた大正のころとは様子がちがうのだろうが、滝の様子と台川のおだやかな流れは、当時のものだろう。滝の周りに何人もの農学校生の姿と声が現れるような気がしてならない。

作品「台川」は、「イーハトーボ農学校の春」、「イギリス海岸」と並んで農学校教師時代の生徒たちとの交流を描いた三部作の一つといえるが、もっとも生徒たちの土着の匂いと野生的なエネルギーにあふれており、完成度は他の二作に及ばないのかもしれないが、愛着があり、いかに賢治先生が周囲の地質に造詣があったか分かる作品だ。もっと読み込み、もっと近くを歩いてみたい。

花巻温泉の奥の忘れられたようにひっそりとした湯治場の中でも、古い小さな湯治宿の、その夜の客はオイラだけだった。GOTOだけでは救えない地域と宿もあるのかも。飯が美味しかっただけに、行く末が気になる。

 

 

 

                        

                 ほんのこんもりとした飯豊森

 

 

                     

                   カリンの木に架かる虹

 

 

                    

    「千代かけて飯豊森(いいとよもり)の峯高く 里の守(まもり)ら神ぞまします」

     の碑に虹がかかる

 

                  

              この標高でも 山頂表示坂

 

      

         小さな愛らしい観音堂だった。長く守られてきたのだろう。

 

                  

△評価だが、まずビールでカツをいただいて、次にサラダをいただいて、パルメザンとタバスコをたっぷりふりかけてパスタをいただく。この順序をわきまえれば、評価は〇に転じた。

 

 

 

 

       

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イーハトーブ賢治散歩~東北砕石工場

2020-11-22 16:09:50 | 日記

 

 

   まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

 

      

農民芸術概論綱要の一節を哲学者谷川徹三さん(詩人谷川俊太郎さんのお父さん)が揮毫した東山公園の石碑建立時の集合写真。中央の徹三さんをはさんで、向かって左が賢治さん弟の清六さん、右が歌人で関登久也さん。

 

 

 

 

    

         銀河の果てまで続いていきそうなレールと石灰石を運んだトロッコ

 

 

 

 

 

 

鉛温泉をあとにした日、雨降りの一日だったので、一関市の「賢治と石のミュージアム」を歩く。合併前の東山町のJR大船渡線陸前松川駅を降りてすぐ。賢治さんが亡くなる直前に技師として働いた東北砕石工場跡が併設されている。

「太陽と風の家」という展示室は「石っこ賢さん」の作品や山野での行動と宝石類の展示物とのつながりを、もっとわかりやすくおもしろく解説してくれれば、たのしいのになあ、と思ったが、ただ美しい宝石類が原石とともに展示されていただけで、ちっともったいないと思った。そんなこともあるのだろうか、2時間ばかり展示室や工場跡地をうろうろしてたが、入場者はオイラと青年の二人だけだった。

「石っこ賢さん」を理解する上で、物理、化学、地学の基本知識は必須なのだが、不肖オイラは小学生レベルの知識で「止まっている」ので、作品を読み進めるなか、いちいち固有名詞に鉛筆を入れて、ネット等で調べてメモをしながら、何となく理解しつつ賢治さんの森に分け入っている次第なのである。もっと知識を広げたら、展示物たちは賢治さんの作品のように、こちらに語りかけてくるのかもしれない。

「石っこ賢さん」を理解する上で、さらに岩手の地形と地質の理解が必須なのだが、大まかに分けると、北上川をはさんで西側は、新しい地層で火山の影響が顕著で火成岩系で温泉も多い。それに比して東側は、かつての海が隆起して何億年の間に降り積もった土石や火山灰が堆積した古い堆積岩系の地質だということは、何となく理解している。

展示室をでて、東北砕石工場跡を見学。何億年前に海だったことからサンゴや貝などが堆積して石灰岩となり、東山町の地下に眠っていたが、その石の採掘と製品化を鈴木東蔵さんというヒトが大正13年に始めた工場だ。

賢治さんは東蔵さんに乞われて、亡くなる2年前の昭和6年2月に技師となった。製品としての炭酸カルシウム(タンカル)は、火山の影響による酸性土壌の土地改良剤として畑や田んぼに撒くことで、冷害に強い作物を育てることができる。

発熱し、そのまま病臥につくまでの半年間、まさに製品の販売と品質改良に東奔西走したことが、おびただしい書簡や証言で明らかだし、昭和8年9月に亡くなるまでの間、東蔵さんと手紙やはがきのやり取りを続けた。いまでいうテレワーク。あの「雨ニモマケズ」の精神は、手帳の世界だけではなかったんだ。「イッテ~ヲスル」というボランティア精神こそ、晩年の賢治が行きついた精神だろう

 

1978年(昭和53年)に工場の操業は途絶えたのだという。展示物に理由の説明を見いだせなかったが、大企業や外国からの輸入に打ち勝てなかったのだろうか。

工場には、元気なころの賢治さん、東蔵さんと工場で働く仲間との集合写真やその写真をもとにつくられた実物大の人形が展示されていた。

東蔵さんや労働者らは、まさに此岸のヒトのお顔立ち。

賢治さんだけが、銀河の果てからやってきたヒトのようなお顔立ち。

と違いはあるが、皆が同士の顔だ。(偶然居合わせた魚屋さんの存在がおかしいが)

 

    

    

 

    

   

 

人っ子一人いない工場内の坑道には、奥の奥まで展示用に灯りがともされており、奥でまだだれかがツルハシを振っているようだった。賢治さんが工場にやってきたおり、上り下りしたという階段から誰かがキシミ音をたてて降りてくるようだった。

 

〇〇や つわものどもの 夢の跡か・・・

 〇〇や の〇〇には、何をいれようか トロッコ・錆レール・・・

 

  まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

 

賢治さんも、東蔵さんも、工員たちも、魚屋さんも、石灰になった無数の生き物たちも、宇宙の塵となっていまごろ、どこかを彷徨っているのだろう。    

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

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賢治散歩をしながら歩く岩手路

2020-11-21 15:33:54 | 日記

宮澤賢治さんと散歩を掛け合わせて、これから賢治散歩と呼称することにする。

ケンジサンポをしながら賢治さんゆかりの地を歩いていこう。ただし、今年岩手県に足を伸ばすのは、この11月27日の金曜日まで。いままさに、批判の矛先が向いているGOTOトラベルを「利用」して予約している湯治場を最後に、新型コロナ禍第三波が止むまで、しばし「県外移動の自粛」期間としたい。

今週は、賢治さんの母方の血縁のヒトが営んでいるという花巻市鉛温泉の老舗旅館の湯治部屋に二日間逗留しながら、賢治さんが実家の病床にあった昭和6年秋に綴ったとされる、いわゆる「雨ニモマケズ手帳」に記されている「経埋ムベキ山」32座(プラス候補4座)のうち5座を散歩し、病床につく前の昭和6年春から技師としてかかわった一関市(旧東和町)の東北砕石工場記念施設を訪ねてきた。

「経埋ムベキ山」については、以前、畑山博さんの著作になぞらえて、オイラも便乗して個人的な星座図も引いたことから気になっていて、この1,2年中にぜひ訪ねてみようと決めているが、この山にすべて登っている奥田博さんの著作「宮沢賢治の山旅」(東京新聞出版局)を読んでみると、いくつかは登山道のないヤブ山であり、この本が25年前に書かれたもので、たとえ林道や踏み跡が記されていても、その当時よりさらに行程が荒れたものとなっていると思われるので、国土地理院の地図に登山道のない山は、「麓や山頂近くを眺めるだけにして」無理して山頂を極めないことにして、散歩することにした。

1日目は、手帳の最初記されている① 旧天王(山というほどでもない丘) 、② 胡四王山 ③ 観音山

2日目は、鉛温泉の周囲に鎮座する④ 高倉山(候補)、⑤ 大森山

と5座の「経埋ムベキ山」を歩いた。③と⑤はふもとから眺めただけ。④は、スキー場頂上からは藪を漕げば20分もあれば山頂につきそうだったが、そのような意欲がなくやめた。⑤は、奥田さんの言っていた林道さえもヤブで埋もれていた気配があり、麓まで行ってやめた。③は、時間切れで登山口まで行けなかった。新花巻駅のすぐ裏手なので、またの機会に行ってみたいが、登山道がない模様。

①は、旧天王という言葉が全く見当たらない、高木岡神社の境内だった。近くまでいって犬を散歩していた青年に「旧天王という山はどこですか」と尋ねたら、認知症のジジイを見下ろすような言い方で「そんな山は100%この辺にはありえない」という冷たい返事であった。しぶしぶ、近くの小高い丘にある高木岡神社について奥田さんの本を開いたら、この神社のあるところが旧天王に間違いなかった。

どうやらこの高木という地区は、かつて久田野という地名だったようで、地元の人(あるいは賢治さんが)クデンノ(賢治さんの詩ではキーデンノーと表記)と呼んでいて、立派な旧天王という字があてられたものかもしれない。神社の縁起にも一切この漢字の表記はなかった。

ただし、神仏習合の時代、この神社は羽黒山信仰をしている修験者たちの宿泊所にもなっていたといい、境内に「法華経一字一石」の碑が埋もれていた。信仰厚いヒトたちが、法華経の6万を超える経文の漢字を一字づつ小石に写経し、これを土に埋める納経法があったのだという。

賢治さんが、手帳のトップにこの山を持ってきたわけが、すこし理解できたかもしれない。

 

       

 

 

     

神社の表参道にフクロウさんの彫り物が。賢治さんが見守っているようだ。

 

 

ふもとから登って、わずか30分足らずだが、北西に大きく展望が開け、花巻市街や賢治さんの教えた農場なども遠望できる②の山、胡四王山の山頂、この山賢治さんも生徒を連れたりして何度も登った山ということで、中腹には今の記念館やイーハトーブ館も立つ聖地のような山。

     

 

誰を祀っているのだろう、山頂に三つの祠。立派な山頂の胡四王山神社の縁起を読むと、かの坂上田村麻呂が東征の折、将兵の武運長久と無病息災を念じて薬師如来を奉納したのが始まりとか。古代の寺院や神社の建立目的は、まずは倒した相手の祟りを恐れての鎮魂のためだろう。平安初期に、この地方でいったい何人の蝦夷(エミシ)が打ち取られたのだろう。中央政府の意に沿わない理由で多くの家族の命が奪われたのではないか。

そして胡四王(こしおう)とは、その言葉の意味するところは調べてもよく分からないが、秋田や新潟の日本海側にこしおう神社(古四王)が多いとか。推測ではあるが、コシオウとは越の国の王の意ではないか。越国とは大化の改新以前からある今の山形あたりから北陸地方を支配していた朝鮮半島からの渡来人を祖にもつ国とか。大和と蝦夷にの間にあって、蝦夷と衝突がひっきりなしにあったとか。

時が過ぎて、神社の縁起によると平安初期の807年に坂上さんが当地の蝦夷を攻め滅ぼしたとあるが、その坂上さんも祖先は渡来人らしい。すでに大和朝廷に組み込まれていた越の国ではあるが、東征の将兵は越の国出身者で占められていて、同じ出自の大将に越の国の兵士はよく戦い、越の国のヒトたちが長年の仇敵を征伐した証と倒した相手への鎮魂をこめて越王の神社と命名したのかもしれないし、山のテッペンにあるので、あるいは東征後の返り討ちを恐れての砦の役割も果たしたのかもしれない。

以上は、ほとんどオイラの思い付きの仮説にすぎないが、曖昧模糊とした古代の歴史を、残された縁起や伝承からあれこれと思い巡らすのも文学、歴史散歩の面白さ。

さて、賢治さんは、どのような思いで埋経の地にこの神社のあるお山を選択したのか。何も語っていないようだが、その選択理由を考えるのも、これからの散歩の課題としよう。

      

                    観音山

①~③の三座は、北上川をはさんで羅須地人協会のあった場所から眺められるという。機会をみて、確認してみよう。200m前後の低山であるが、三座は賢治さんの身近な祈りの山だったのだろう。

 

 


 

 

 

     

この絵は、鉛温泉の湯治棟の男子便所と女子便所の間の壁に飾ってあった誰が書いたかしれない絵。

一目見て右側が、上記④の高倉山、⑤が大森山と分かる。鉛温泉を西の方向から眺めたものだろう。

 

    

高倉山は、こないだ登った南昌山と同じ格好をした賢治さんの好きそうな釣鐘状の山。この山も冷えたマグマが現れたという岩頚(ネック)なのだろうか。頂上までは登らなかったが、スキー場のテッペンを周遊して、2時間ほど楽しく歩いた。

 

 

 

    

 

豊沢川を挟んで、高倉山と対峙して入道のように聳える大森山。賢治さんは、20代前半に岩手農学校の委嘱により周囲の土性調査にひんぱんに訪れたというが、親類のこの温泉に何度も逗留して、この二座はまるで我が家の庭のように眺めていたのだろう。

 

高取山も大森山も、奥田さんによると何の信仰的モニュメントはないとのこと。信仰の山に囚われず、愛する青春の山も「経ウズムベキ山」に選んだんだろう。あの絵のような風景を思い浮かべながら。

 

宿の深い湯舟と高い天井を仰ぎながら、今日1日、賢治さんと同じ風景を見て感慨ひとしお。チェックアウトをすまし、宿のオジサンに「世界遺産のような古く立派なふろ場でした。宮沢賢治さんもこの風呂場に入ったんでしょうね。」

と尋ねてみたら、「80年前に火事でこの旅館全焼したんですよ。ただ、湯舟は残っていたので、位置はかわっていないんです。」と。

賢治没88年後の晩秋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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