かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

NHK山カフェで紹介された「お月見登山」

2020-10-31 10:10:26 | 日記

土曜の朝に愛聴しているNHKラジオR1「石丸謙二郎の山カフェ」の本日のテーマ「山と月」に向けて投稿した3枚の写真がフォトギャラリーに登載された。

① 今年9月の岩手山

② 今年8月の立山

③ 昨年9月の御嶽山

いずれも、満月前後の「お月見登山」に出かけたものだ。

併せて、紙パックのお酒を担いでの「お月見登山」に関するお便りが8時台の放送で山本志保アナによって読まれ、石丸謙二郎さんが「お月見登山か、やってないなあ、いいなあ」と反応してくれた。

引きこもり登山者が、公共全国放送に共感されて、なんかうれしくなった。(「NHKらじるらじる」で明日から聴取可できるので、また聴いてみよう)

来年の山での満月は、どこにしようか。パール富士とはいかんが、南アルプスのどこかの山上で、富士とお月様のコラボといこうか。

 

     

          投稿の1枚 (御嶽山二ノ池から雲海にのぼるお月様)

 

 

 

 

山カフェフォトギャラリー

 

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バランスが悪くなった下山中に考えたこと

2020-10-30 09:36:22 | 日記

火曜日に登ってきた北面白山、下りは中面白山から長左衛門平を経ての面白山高原への3時間ほどの下りだったが、長左衛門までの急登の下り坂がリズムよく下れていないなと実感した。右手に手にしたストックのせいで何とかバランスを維持しているも、なんとなくぎごちない動き。足腰の衰えが原因だろうか、ストックに頼りすぎる姿勢のせいだろうか、ここ数年でこんなにも弱ってきたのかと、愕然ともしたし、まだまだおとろえる歳ではない何とかせねばという気持ちになった。

 

長左衛門から駅までの比較的なだらかな道に入って、何だか知らないけれど、50代前半から一昨年までチャレンジした「トレラン」の思い出にふけった。

富士登山競争(2勝5敗1分)

ハセツネ(2勝)

志賀高原(2大会2勝)

野沢温泉(2勝)

おんたけ(1敗)

安達太良山(1敗)

UTMF(富士山)(1勝2敗)

多摩川源流(1勝)

信越五岳(1敗)

泉ヶ岳(3勝)

伊豆(2敗)

STY(富士山)(1敗)

秩父(途中中止)

やんばる(3勝)

石垣島(2勝)

奄美大島(1勝)

 

参加した大会を思い出せるだけ思い出してみて、完走できたものもできなかったものも、スタートからの道のりを頭の中でなぞりながら、にやけながら面白山の山路を下った。

チャレンジ開始が、もっと早ければもっと日本全国の(あるいはモンブランまで出かけて)トレランにエントリーし、あちこちの美しい山道をたどってみたかったが、50代後半からは、関門制限が多くなり、60代になって衰えを自覚したので、「無駄遣い回避」と「危険回避」のためやめた。

しかし、よくもまあ、下りの小走りで木の根や小石につまづいて転倒したぐらいで、ケガをしないでやってこられたのかと、わが幸運をたたえたが、いまのこんなだらしない体力だったら、大けがどころかあの世に出かけていたことだろう。

 

また、朝ランはじめようよ。体が重い。

 

      

 

 

       

                さよなら 2020の秋の面白山

 

 

 

            

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

                        

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聞こえない音を聴き、見えない色が浮かび、感じない風に触れる ~ 東山魁夷唐招提寺御影堂障壁画展

2020-10-29 14:50:19 | 日記

徒歩30分圏内にある宮城県美術館で 開催されている東山魁夷さんの障壁画展を観覧。今度の日曜日で閉幕とのこともある平日、午後3時過ぎということで、密にならずゆとりを持った観覧ができた。

この障壁画には、4,5年前に愛知県の豊田美術館で開催されていたときに、一度お目にかかっているが、その時は一部の障壁画を欠いており、空間的にもやや広がりに乏しかった記憶があり(観客が多かったせいか)、今回の展示は障壁画はほぼ完全に展示されていたし、空間にも十分余裕があって、障壁画の偉大さを十分に味わうことができた。

奈良の唐招提寺境内の鑑真和上像が安置されている御影堂内に、魁夷さんが昭和50年から55年の間に収めた70面近い襖絵が、震災復興祈念ということで、この東北の地にわざわざやってきて、一堂に会しているだけでもありがたいのだが、普段は和上の命日前後の数日のみ開放される御影堂でもあるに加えて、そのお堂が2022年まで大修理のため入れないということでもあり、それらを考えるとさらにありがたい貴重な展示である。

障壁画は、大きく分けてふたつのグループ。

ひとつは、彩色による日本の風景グループ。「濤声」(とうせい・なみごえ)という海岸に押し寄せる波の絵と「山雲(さんうん・やまぐも)という霧に霞む深山幽谷とひとすじの滝の絵。「濤声」は、襖絵としては明るすぎるほどの緑青の青、反対に「山雲」は、墨画と間違うほどに色彩を抑えた暗い深緑の緑。

 

もうひとつは、墨画による中国の風景グループ。「揚州薫風」(ようしゅうくんぷう)という鑑真和上の故郷の絵と「桂林月宵」(けいりんげっしょう・けいりんつきよい)、「黄山暁雲」(こうざんぎょううん)という中国を代表する景勝地の絵。すべてモノクロの世界である。

会場に入ってまず眼前に広がる「濤声」。はじめ、ライトアップのせいで大きなスクリーンに映し出された映像かと見間違ったが、近ずくと間違いなく本物の襖絵である。大きい、広い、宇宙の果てから押し寄せてくるような白波のうねり波頭、波間から現れる黒い巌、波が数条の波紋となって砂浜に押し寄せる様子、もちろん静止画像ではあるが、見る者に波音となって聞こえ、それが繰り返し繰り返し押し寄せては引いていくリフレインとなって止むことはない。そんな絵だ。

第二順路「揚州薫風」この襖は鑑真和上像の厨子を囲んだ松の間に飾られているという。大きな白い湖面あるいは揚子江の川面。向こう岸にに中国風のお屋敷あるいは寺院、そして湖面の周りには幾本もの柳の木が生えていて、風に揺られている。湖面には、一隻のお舟も見えるが、広大な風景の中に人影はなく、ただただ薫風という風が吹いている、静止画像ではあるがたしかにさわやかな風が吹いていて、葉擦れの音までも聞こえてくる。その風も、永遠に止むことはないだろう。そして、モノクロだったはずの柳の葉が柔らかな草色となってきらきらと揺れ、遠くの寺院の壁が藍色に染まる。水面は光を帯びてやや水色を帯びてきた。そんな絵だ。

第三順路「山雲」。生まれては消える雲に針葉樹の森が見え隠れし、対岸の谷には白い大きな滝がひとすじ落ちる。ごうとした音が止むことはない。山鳩だろうか、一羽の鳥が森に消えていこうとしている。しかし、聞こえるのは、ただただ滝の音。そんな絵だ。

順路は、「桂林月宵」、「黄山暁雲」と続く。古生代からの途方もない時間に隆起し、浸食し、風化して現れた岩山を宵の光と暁の光が陰影をかたどる。全く音は聞こえないが、暁の光がさして、宵の影となり、闇となり、日が昇り、日が沈み、月がのぼり、月に照らされるという明滅が永遠に止むことはない。そんな絵だ。魁夷さんの墨画が大好きになった。

障壁画の展示は、豊田の会場ではお目に架かれなかった「揚州薫風」のアップされた柳の大木の絵を目の当たりにして終わるが、そのあとに魁夷さんが障壁を完成するまでの道程での様々な習作やオリジナル作品の展示となるが、ここでも墨画の完成度が素晴らしい。

会場を後にしても、耳奥に響き続ける波の音、風の音、滝の音。

魁夷さんは耳が不自由となった晩年の鑑真和上に聴かせたいと思って、この障壁画に渾身の力をそそいだのだろう。無理かもしれないが、欲すれば、2022以降、御影堂開陳の日に唐招提寺にお参りし、鑑真和上様の聴こえている本場の音や感じている風の肌触りを実体験したいものだ。

オイラにとって、いい風景画の条件は、聞こえない心地の良い音が聞こえ、見えない美しい色が浮かび、いい匂いがし、肌に触れる心地よい風が吹く場に臨場させる絵だ。そして、閑さ(静かではない)が永遠に続いていくというやすらぎを与える絵。魁夷さんの多くの作品が、この条件に適っている。

 

     

午後5時の閉館案内とともに会場を後にする。この建物を取り壊して移転するなどあってはならない。まだまだ元気だ。外には秋の光がやがて翳ろうとしていた。

 

 

 

            

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

                      

 

 

 

 

 

                        

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ドップリ岩手の冬の旅

2020-10-28 10:41:01 | 日記

立山ライブは、モノクロの世界かと見まごうばかりに白と灰色の世界。河童橋ライブは、穂高の稜線が真っ白。昨日は、1000m級で見られる紅葉世界の見納めかと、山形の北面白山にのぼってきたが、もうすでに稜線上は、赤茶けた世界と化しており、月山や朝日連峰も白、「今年も終わりか」と少しふさいだ気持ちになった。ほんとに、季節の変化は速い、わが人生も・・・・。

山での紅葉が終わり、雪の便りを聞く頃になると、何だかまた湯が恋しくなる。山間の静かな露天の湯に身をゆだねたくなってくる。

わが人生の何が失敗したかというと、毎日、朝な夕な、気軽に天然のお湯に身をゆだねることができる場所に晩年生活の拠点を設けなかったこと。遠刈田、別所、飯坂、上山、野沢温泉・・そのような山のふもとの温泉街の公共浴場に入ると、地元のお年寄りが屈託のない姿で湯舟に浸かりながら談笑してしている光景を目の当たりにして、帰りの汽車やバス時刻を気にしながら忙しなく湯舟につかる境遇のわが身が切なくもなっている。

そんな思いに、一筋の光明を差し出したのが、昨年から目を向けた「みちのくの湯治場」。宮城の鳴子や岩手の大沢、鉛、夏油、秋田の後生掛や乳頭など素泊まり5000円以内の料金設定で迎えてくれる素朴な山あいの温泉宿がまだまだいっぱいある。

今年も、11月から冬場は毎月どこかの湯治場に4,5日程度訪れようとネット検索していたら、今年は例のGOTOをやっていて、一泊3000円以下でも泊まれそうな宿があることが分かり、さっそく賢治さんゆかりの宿に予約を入れておいたが、さらに、岩手県には「おでんせ岩手県キャンペーン」といって、岩手を除く東北5県と新潟県在住者に限って一泊3000円のクーポンが、抽選の場合があるが一応募期間で5枚までもらえることが、ひょんなことから分かったので早速応募してみた。GOTOとの併用も可能ということで、素泊まり湯治場ならチャラになることも想定されるが、「最低差額1000円以上のところに限られます」とのことなので、他の湯治場も調べてみたい。

コロナ、コロナ、くるな、くるな、といっていた岩手県の豹変ぶりに驚きである(全国の収束はいまだなのだが)が、今年はこの特典を、為政者のばらまきではなく、どなたかの思し召しと勝手に合理化し、岩手、それも賢治さんの花巻かいわいに出かけよう。朝な夕な湯に入り、賢治さん関連の御本をオコタで読み更けて、まだ雪が浅ければ、「経埋ムベキ山」もたずねてみよう。

おでんせ岩手県キャンペーン

 

        

 

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木の実の色づく頃

2020-10-23 14:24:28 | 日記

すっかり秋めいてきたので、久しぶりに、野草園や広瀬川の河畔を歩いた。  

マユミの果肉が弾けて赤い実が現れ始めている。ピンク色のやわらかな皮に包まれた赤い実。すぐれた菓匠によって創作された和菓子のようなマユミの実。これを、小さなキツツキの仲間コゲラがやってきて、夢中に啄んでいた。普段は、木の幹なんかを突っついて虫ばっかり食べているコゲラを夢中にさせる木の実はとってもおいしくて栄養があるのだろう。

 

 

                             

 

     

ほかにおいしそうな木の実を探してみた。

 

 

もう、終わりかけているがクサギの藍色の実。真っ赤な皮が星のようにひらいていて、「二色効果」といって小鳥たちの注目させる働きがあるのだという。クサギの実は、染料にも使われていたといい、禅僧が臭いといわれる葉を何度か煮だして保存食として食べていた。葉も、実もみんなの役に立っている木に「臭木」と名付けるのはちょっと失礼か。

 

     

 

線香花火の火花の先に赤い実をつけているのは、な~んだ。

 

 

     

答えは、独活の大木のウド。春先の若芽は、オイラは山菜の「帝王」だと思っているが、実は花もおいしいのだという。今度てんぷらなどで食べてみたいが、きっと花の先についた赤い実もおいしいんだろう。写真では、もう大半が無くなっていたが、きっと小鳥たちがいち早く食べ去ったのだろう。

 

 

あ、おいしそう真っ赤なゼリー状のこの実は?

     

ガマズミやヤブデマリの仲間のカンボクの実。だが、相当まずいと見えて、ヒヨドリなんか一口、二口食べて飛び去るのだという。多分苦いのだろう(今度なめてみようか)が、まずいから年を越してもぶら下がっているが、いつの間にか無くなっているというから、干し柿みたいに熟成すると美味しいのかも。

 

 

 

     

葉っぱの特徴から、シロダモの木とみた。広瀬川の河原、どこかから実が流れ着いて育ったのだろう。赤やオレンジの実がいっぱいついているが、これもあまり人気がないのか。大きさもあり悪食(失礼)のヒヨドリさんぐらいにしか食されないのか。

 

 

     

こちらは、春からチェックしておいたツルウメモドキの実。もうすぐ果皮が割れて赤い実が飛び出し野鳥ばかりではなくサルやテンなどの哺乳類にも人気なのだという。そのころに、また観察してみよう。

    

わあ、いっぱいなっているね。これも広瀬川らのトウネズミモチの実。これも、まずいのをいとわないヒヨドリさんぐらいしか食さないのだというが、他の実が不作の時は、他の野鳥も仕方なく食べるのだという。まずいが、栄養価はあるのだろう。

野鳥たちには、そういった安全弁的植物が飢えをいやしてくれるようだが、どんぐり類の凶作でお腹を空かしたクマには、そうした実がないというのだろうか。今年は、異常にもまして異常と見えて、縄張りを追い出された若い未経験のクマたちがヒトの生活圏に現れて毎日のように痛い目に合っているな。(ヒトもクマも)

 

 

 

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