かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

2018富士山山開きは、当たりか。

2018-06-28 18:07:03 | 日記
石垣島は、強烈な光線が肌を貫く。空港までのバスを待つだけの数分だって耐えきれず、交通標識のわずかな影に身を隠す。
梅雨明け後の石垣島は、ただいま太平洋高気圧の真っ只中にあるが、この高気圧、この週末は、本州に横たわる梅雨前線を見事に北へ押し上げ、関東甲信地方にハレをもたらす気配である。
日頃の行い、はたまた信心の篤さなのか、初体験の富士山山開きは、御来光の可能性大である。
山の天気なので、何度も期待の裏切りにもあってきたが、ハレの可能性も蓋然性も高いのであり、今夜のチームジャパンのように「そのとき」へのワクワク感がたまらない。
明日は、精進湖、明後日は、海抜3700の高みから、映像だけでも、この日記帳に貼り付けたい。
パノラマ台からの富士。あの麓の民宿をスタート!
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はやぶさ2[Ryugu」到着おめでとう!

2018-06-27 20:13:31 | 日記

 といいたいけど、根っからの文科系は悲しい。何で1300日以上もかけた遠い宇宙から、あんなちっぽけな機械器具が到着映像を鮮明に伝え、引力もなさそうな石の塊から22kは慣れたところで引っ付いていることができるるのかも、そればかりならまだしも、これから何回か石ころの上に離着陸を繰り返し、1年ぐらい掛けて活動し、はたまた、石ころの地中から石ころを拾って2020年頃に地球に帰ってくるという仕業がどうしてできるのか。地球には、すでに宇宙人が潜んでいる。

そんなこともよく理解できぬまま、生を終えるということは悲しいことではあるが、われわれ「人類」の起源があんな石の塊だったと思えば、こんな孤独はつらくはない。

http://www.hayabusa2.jaxa.jp/

 

明日は、満月かしら。夕景にお月様がさびしそうに浮かぶ。ワイトコニモキテクレヤ。

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「花の街」にジーン

2018-06-26 20:09:47 | 日記

あの「夏の思い出」の作詞家、江間章子さんの「花の街」が、日曜日のきらクラの冒頭音楽で流れた。大阪北部地震の被災者へのお見舞いとして流された。思わず、目頭が熱くなった。どうして、日本童謡は、こうもダメージを受けた国民感情にやさしいのだろうか。戦後すぐの歌?(1947年)

「七色の谷を越えて~♪」この際、ネットを通じて江間さんの歌詞をじっくりなぞった。

結果・・・・難解・・・不思議・・・・不可思議・・・お見舞いになっているのか。

一番の歌詞はいい。分かる。

七色の谷を越えた「風のリボン」が、やがて環になって街にかけていく・・・・詩である。童謡を超えたポエムがここにある。イメージは膨らむ。春のそよ風がが、傷ついたこころにやさしく触れる。

 

だが、二番 「美しい海を見たよ あふれていた花の街よ」から分からなくなってきた。何を言っているのか分からない。詩にもなっていない。・・・・突然あの記憶・・・海が見える桜満開の場所・・・といえば、オイラにとって宮城県石巻日和山公園から眺める牡鹿半島方面の太平洋・・・・(東日本大震災の記憶)

そして、三番 「泣いていたよ 街の角で・・・・・・・春の夕暮れ 一人さびしく泣いていたよ」と来た。なぜ、突然泣き始めるのか。おいおい、何があったんだよ。いよいよ悲しくなってきた。

悲しい歌だったのだ。お見舞曲としては余りにも悲しい。でも、どうしようもないほどいい。泣けてくる。悲しい時には変に元気付ける明るい歌よりは、悲しみに寄り添う悲しい歌のほうが共感できるのだ。みゆきさんの歌で経験済みだ。

二番、三番の歌詞はよく分からぬ心模様なのだが、悲しくもやさしい歌だったのだ。「花の街」 ありがとう。

 

 http://j-lyric.net/artist/a00126c/l001050.html

 

  本日19時52分ころのお月様。やや、絹のベールに包まれています。

 

 

 

 

 

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injinjiの靴下

2018-06-25 20:34:36 | 日記

何年前のどこのブースだったんだろう。トレラン大会の前日に五本指の靴下を購入した。「injinnji」の靴下。これが足入れはスムーズだわ、何回かの大会を終えても親指に穴が開かないほど丈夫だわ、とお気に入りのランニング用靴下となったんだが、地方ではどこのお店にも売っていないので通販で購入した。

どのようなメーカーかまったく知らんが、Maid in Chinaとあった。お気に入りの靴下として大事な時にはいていこう。まずは。週末の富士山から。

梅雨明けのやいま、11.5日の月が煌々と輝いている。月が去ったら、星写しの行動に出よう。でも、週末は富士山。

 

 

 

                 大事にしていきます。injinji。

 

 

 

               本日の夕景です

 

 

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愛国心と富士

2018-06-25 09:30:25 | 日記

東京国立近代美術館についで、今、京都国立近代美術館で「生誕150年横山大観展」開催されており、それにあわせて昨日の日曜日美術館で特集をやっていたのを少し見たが、皇紀2600年を祝った昭和15年当時の愛国心のうねりは、コロンビア戦勝利からセネガル戦引き分けという結果に酔う国民感情と重なってしまうが、今の愛国心なるものはサッカーゲームの結果に発揚されている一過性のバーチャルな国家間紛争にすぎない、あのときとは違うんだと自分に言い聞かせよう。平和な時代の愛国心なのだ。

昭和の15にタイムスリップすれば、オイラも日の丸を振りかざして「神国日本」に酔っていただろうが、あの時は仮想現実でもなんでもなく、大陸では日中戦争が泥沼化していたろうし、翌年には太平洋戦争が始まろうとしている。皇紀2600年は国民の心を一つにすべく考えられた「チーム日本」の御旗だったのだろうが、大観さんは、富士山を神国日本のシンボルとして何枚も何枚も100枚以上も描き、神国日本のこころの御旗として国民に贈った。そのどれもこれもが入魂の傑作であり、出征するおのこたちは、大観さんの富士を仰いでは胸にしまって、「かえりみはせじ(振り返らない)」と決意して海を渡ったのだろう。その言葉どおり、多くの兵士が帰ってこなかった。

偉大なる通俗たる富士にはまったくといっていいほど罪はないし、富士に日本の魂を見出し、何枚もの絵にした描いた芸術家の初志にも何の罪もなかったのだろうが、時代といううねりに飲み込まれたのだろうか、あの富士の傑作がカンフル剤として戦地に赴く若者に処方された事実は認めないとならんかも。たしかに、雲海の中からすっくと天に伸びるコニーデの姿は、大方の日本人を統合させ、高揚させ、昇天させていく妖しさを今もなお秘めているのだから。

毎年、毎年、コニーデの麓から登ろうとしているオイラもそのように統合された日本人に過ぎないのか。  バスの車窓から大方の乗客が富士を眺めているのに反対側の道端の月見草を見ている老婆と太宰さんみたいな心持にはなれないのだろうか。

(ちなみに、太宰治は戦時下でも戦後であっても時代のうねりに飲み込まれなかった稀有な「国民的作家」だと思っている。富士に出かける前に、「富嶽百景」読んでおこうっと)

 

京都国立近代美術館

http://taikan2018.exhn.jp/   

横山大観の富士

https://intojapanwaraku.com/art/20170712/16579

 

精進湖霧湧く

 

 

 

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