かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

クリスマスは終わっていないよ

2021-12-28 20:55:14 | 日記

朝のNHKFM「古楽の楽しみ」でバッハの「クリスマスオラトリオ」をやっているというので、録音して、午後にウォーキングをしながら聴かせていただく。

今朝は、六部からなる大曲の第二部からで、冒頭は、有名なパストラーレ(シンフォニア)。

Sir.J.エリオット・ガーディナー指揮のイングリッシュ・バロック・ソロイスツメンバーの古楽器演奏になるもので、何年に録音したんだろう、まるで羽が生えた天使になって羊飼いたちのいる牧場を浮遊しているような感覚。これまで聴いてきた、カール・リヒターの甘美なまでの静けさとは、また別世界の音楽を聴いているかのようだが、あまりの浮遊感にこの1年の鬱屈はどこかに消えていったようだ。

12月25日の「クリスマス」が過ぎると、わがニホンジンは、もうそんな日があったなんてすっかり忘れて、やれ紅白だ、正月だ、箱根駅伝だと忙しくお楽しみの矛先を変えるのを恒例としているのだが、ヨーロッパのヒトビトの教会のクリスマスのミサは正月を迎えても続いている。

バッハのこの「クリスマスオラトリオ」も、12月25日からはじまって、新年1月6日まで、6回ある降誕を祝う祝日や日曜日までに、それぞれ演奏するために6部構成としたのだという。

そして、クリスマスって、もともとはイエス様の生誕を祝うというものではなく、農民たちの冬の祭りだったとも聞く。北半球に生きる者、特に農民にとっては、葉が落ち草が枯れ、1年でいちばん日の短い冬至あたりを「受難」ではあっても、ここからスタートするという意味で「生誕」ととらえ、少しずつ光がさしはじめ陽気がもどって草の芽がはい出てくる春を「復活」と感じたことは容易に想像できるのであって、イエス様の誕生日を「冬至」あたりに設定したのは、多くの信者を集めようとした教会関係者のアイデアだったのだろう。(あくまで、個人的見解です)

バッハの「クリスマスオラトリオ」、六部構成のうち三部は、「イエス様の降誕と羊飼いたちとの出会い」、あとの三部は「イエス様の命名と東方の博士たちの来訪」となっているが、あとの三部は、あのマタイ受難曲のコラールが使われるなど、のちのちのイエス様の「受難」を想起させる不吉な影が差し始めくるようで、「生誕と受難の不可分」という聖書の教えを、バッハが忠実に音楽的に表現したのだろう。

音楽演奏では、日本は「第九」、イギリスは「メサイア」が年末の恒例だが、ドイツにあっては、年々「クリスマスオラトリオ」の演奏が主流となっているのだという。同じ北半球の住民として、もっと日本でも「クリスマスオラトリオ」が演奏されてもいいんではないか。大作だが、上の大作に負けず劣らず美しく荘厳だ。

ヒトとして生まれ、春夏秋冬を目の当たりにする者にとっては、「生と死」を「生誕と受難、そして復活」という西洋的発想で癒されても、「輪廻転生」や「永遠回帰」という東洋的発想に癒されてもいいのだと思う。

要は、古来ヒトビトは、宇宙の「生成~消滅~生成~消滅・・」という次第に明かされてきた物理的現象を直感したにすぎないのだろうから。今の科学者たちは、宇宙空間の、何もなかったような「ブラックマター」から星が発生したのだという。そこいらへんが、われらが「カミ」と呼んでいる実態なのだろうが、まだまだ謎は解明されるのだろう。

それはともかく、オイラは、2021年の冬、も少し、この美しい「クリスマスオラトリオ」を聴き続けていよう。鬱が晴れれば、それでいいのだ。

      

 この冬も、数羽にすぎないが、遠い北の大地から「ホシハジロ」が渡ってきた。前のシーズンと同じ個体あるいは縁者だと思うが、渡り鳥たちは、どうしてGPSも羅針盤も持たず、着の身着のままで高度何千メートルを飛んできて、凍えることもなく、正確に前の年のこの町を流れる川面にピンポイントで降りてくるのだろう。どの科学者も、その能力を解明していないことは事実だ。その意味で、渡り鳥たちを、尊敬してやまない。

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