12月に入り、当地では初雪も観測され、朝晩の野外活動は億劫になる季節となった。働いていた頃は、それでも朝のジョギングを日課としていたが、こちとら現在は無職、日中気温の上がった時間帯に走ったり歩いたりすればよい。「日向の道を歩けば、人生はきっと輝く」の精神で行こう。
オンラインでのNAHAマラソンは、いよいよあと10日ばかりとなった。正式の記録開始日から5日ばかり乗り遅れたスタートになったが、走っても歩いても1日10kmを目安に活動してきたら、当初は走行距離累積タイプ部門約1000人中100番台前半だったものが、いつの間にか、60~70位くらいの速報値が出てきた。
このような結果に気を良くし、参加者の5%以内の50位以内と目標を定めることにした。昨日、一昨日とウォーキングだが、15キロ程度と活動距離を伸ばしたが、今日からはハーフ20k程度と伸ばしていき、フィナーレの日は歩きと走りを入れて42.195kを走ろう(歩こう)。
このオンライン大会は、距離だけで評価されて、時間は不問だが、今の体力ではNAHAマラソン完走制限6時間15分はとうてい見込めないので、キロ11分以内ペースで8時間以内完走(歩)という数字を自分に課してみよう。当地は16時30分には陽が落ちるから、スタートは8時か・・・。辛いな。
これくらいやれば5%以内に食い込めるだろう。NAHAマラソンさん、三日坊主のだらしないオイラをこんなにも「やる気」にさせてくれてありがとう。
2,3日前の荒れた天気による増水でせいか広瀬橋のハクチョウ家族の姿が見えないのが気になる。
きのうは船形山系の峰々がよく見えるほどのいい天気だった。トレランザックにG3Xを仕舞い、しばらく観察を続けよう。
後白髭山(左)と三峰山(右)、奥に船形山は見えていないか。
ゴイサギ一家もまだ休んでいた。こどものホシゴイ君は少しこわいオメメ。
オナガのカップルかな。
青葉城のふもとのテニス場付近でイノシシの子が無心に草を食べていました。
親がいないので、はぐれたのかもしれません。
深田日本百名山登頂の思い出 91 大峰山(おおみねさん・1915米)
和歌山勤務時代の1988から1989年の間に、スバルジャステイで長い林道をつたい、行者還りトンネル西口というスペースに駐車し、弥山(みせん・1895m)~最高峰八経ヶ岳(1915m)~釈迦ヶ岳(1799m)を往復している。記憶に乏しいが、今地図を見ると往路だけで7~8時間はかかりそうだから、弥山あたりにテン泊して往復してきたのだろう。釈迦ヶ岳の釈迦如来立像をいつまでも覚えているが、季節はいつだったか、オオヤマレンゲの記憶はない。
今でも日本で唯一女人禁制の山上ヶ岳(1719m)に登ったのは、別の機会だったか。当時の山と高原地図を開いたら、登山口となっている洞川(どろかわ)集落から山上川を少し遡った母公堂あたりにテント場のマークがあり鉛筆で囲っているので、そこにテントを張って山上ヶ岳と稲村ヶ岳(1726m)を周回してきたのだろう。山上ヶ岳下山中に登ってきた白装束のこどもたちに「よーまいり!」(よくお詣りしてきましたの意か)と大きな清らかな声であいさつされ、何と返事をすればいいか戸惑ったことを、今でも覚えている。
あの時から、30年以上の年月が経ち、こころに温めてきた「大峰奥駈道・おおみねおくがけみち」を踏破しようと、沖縄から帰った2019年5月の連休明けに、7泊8分の食料をつめ込んだザックを担いで吉野から歩き始めたが、縦走3日目、山上ヶ岳を下った小笹の宿のテン場から先の阿弥陀が森付近で、オイラは倒木地帯に踏み込んで道を失い、恐れをなして引き返し洞川に下って、翌日天川登山口から弥山に向かった。奥駈道の一部をワープして、弥山からせめて北部だけでも歩こうと試みたが、あいにく悪天予報が続いたので、弥山を登っただけでむなしく帰途に就いた。
クサリ場もある峻厳な奥駈道にはなにかの神力で跳ね返された思いだが、荷の軽量化をはかり、北部と南部を分割した計画で、何としても本宮の熊野大社までは辿り着きたいと思っている。体力もつけないといけない。はねつけられても、大峰山にはなにか特別の魅力がある。それは、原生の森に覆われた山岳の森羅万象と長い時間引き継がれれてきた人びとの祈りが融合している特別の場所だからかもしれない。
50年間トボトボと山を歩き続けてきた者の「集大成」として、またこの地に向かいたい。
山上ヶ岳から大峰山北部の山を望む(2019)