かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

月面X捉えた!・・・でも2023はXな年なのか

2022-12-31 13:46:50 | 日記

昨夜の20時30分前後の1時間、ベランダに出たり入ったりして、雲の切れるのを待った。20時05分頃と55分頃にほんの僅か雲が切れて上弦の月が輝いたので夢中で数枚撮ったら、そのうちの四、五枚に、「月面X」が浮かんでいた。一番鮮明なものが下記の写真。

ヤッター!、月の女神さまは微笑んでくれた。

でもXはエックス、不明、予測不能ということ。あるいは、2023年は「不明」で「予測不能」ってことか、といつもながらマイナスイメージでことのありようをとらえてしまう体質。

「ウクライナに一刻も早い平和を!」

「イラン、ミャンマー、アフガンをはじめ世界中の人権蹂躙の国に人々に回復を!」

「大災害が起きませんように!」

「ミサイルが飛び交う地球になりませんように!」

「鬼はされ!」

今夜、もう一度、月の女神さまにお願いしてみて、2022年を締めよう。

 

 

  

 

  

 

 


  日本百名山 MY SONG            

                  54 槍ヶ岳(やりがたけ・3180米)

                  55 奥穂高岳(おくほだかだけ・3190米)

                  56 常念岳(じょうねんだけ・2857米)

                  57 笠ヶ岳(かさがたけ・2898米)

                  58 焼岳(やけだけ・2455米)

【深田久弥・日本百名山から】

(槍ヶ岳)

「私たちがどこかの山に行って、『あ、富士が見える!』と喜ぶのと同様に、『あ、槍が見える!』と叫び声を聞く。実際そのユニークな岩の穂は見紛うことはない。ひと眼で認め得るのである。どこから見てもそのそのするどい三角錐は変わることがない。それは悲しいまでにひとり天をさしている。」

「槍見える!」悲しいまでに天をさす文太郎の山墓標のごとく

 

(奥穂高岳)

穂高に登った最初の人は、明治二十六年(一八九三年)の夏、嘉門次を連れたウェストンであった。もっともそれより二週間前、陸軍省の視察員がやはり嘉門次を連れて登っている。しかしこれらのパイオニアの登頂したのは、今の前穂高であって、当時これが最高峰と思われていた。明治の末年頃から、日本山岳会の先輩たちが相ついで登り、それまで一括して穂高と呼ばれた岩峰群に、北穂高、奥穂高、涸沢岳、前穂高、西穂高、明神岳という風に、それぞれの名称が与えられるようになった。」

*深田さんの百名山には「穂高岳」と記されていて、奥穂高岳に限定していない。また、百名山には深田さんの穂高岳登頂の記載がないが、年譜を見ると、昭和26年9月22日~29日穂高岳から槍ヶ岳に縦走しているとのことである。前穂、奥穂、涸沢岳、北穂を踏んで、大キレットから槍に向かったのだろう。

三千の穂高の峰に茜さし白き世界も燃えいづるかな

 

(常念岳)

「評論家臼井吉見氏が書いていた。松本の氏の小学校の校長はいつも窓から外を指して『常念を見よ』と言ったが、その言葉だけが今も記憶に残っている、と」

「六十年も前にウェストンが言っている。『松本附近から仰ぐすべての峰の中で、常念岳の優雅な三角形ほど、見る者に印象を与えるものはない。』と。ウェストンもやはりその美しい金字塔に惹かれて登ったのだろう。彼がその頂上に立ったのは明治二十七年(一八九四年)の夏だった。」

「常念を見よ」と誰かが囁ける振り放けみれば風の音かな

 

(笠ヶ岳)

「北アルプスに行って笠ヶ岳を見落とした人はあるまいが、その頂上に立った人は案外少ないようである。それは普通の縦走路から外れているからであろう。私が行った時には、幹線の双六小屋は満員であったが、笠ヶ岳の支脈へ入るとほとんど人影がなかった。双六からは気持ちのいい静かな道で、深い谷を距てた向こう側には、槍から穂高に続く三千メートルの山なみが、大自然の壁を作っていた。これだけの大規模な壁は日本には例があるまい。」

 

双六を立ちて槍穂と別れるも槍穂の壁は笠まで立てり

 

(焼岳)

「焼岳は附近の群雄に比べたら、取るに足らぬ小兵かもしれぬ。だがこの小兵は他に見られぬ独自性を持っている。まず、日本アルプスを通じて唯一の活火山である。頂上から煙の上がっている山はほかにない。それから小兵の分際で、梓川の風景を一変した。その爆発で大正池を作りあげたのである.人はよく『国破れて山河あり』という文句を引いて自然の普遍を解くが、一挙にしてあの変貌をおこした焼岳の潜勢力は偉大である。」

アルプスにひとり煙吐く焼岳の風景見てよ いま・ここ・の景

 

 

【深田日本百名山登頂の思い出・再掲 】

槍ヶ岳は、大学の山岳同好会のグループと1975年の盆過ぎに初登頂している、たしかグループをオイラが参加した「雲ノ平・裏銀座コース班」のほか「読売新道・裏銀座コース班」、「表銀座コース班」などに分かれて、それぞれのグループが槍ヶ岳で合流するというもので、その夜は、槍のテント場でにぎやかな打ち上げを行った記憶がある。残念ながら同好会は、その秋に退会しているが、続けていたら、もっとたのしい学生生活が送られたと想像する。(タラレバの世界)

その後、1900年代の後半、職場のⅯ君と上高地~常念岳~大天井岳~槍ヶ岳~大キレット~北穂高岳~涸沢~奥穂高岳~前穂高岳~上高地と三泊四日の山小屋利用で歩いたが、その時に槍ヶ岳再登頂と常念・奥穂の初登頂を一度で行っている。当時の山小屋は予約不要ということで行き当たりばったりだったが、暗くなって着いた常念小屋は文句も言わず夕食を出してくれたことや大槍ヒュッテの豪華な食事には驚いたことをよく覚えているが、初めての涸沢だったのに涸沢ヒュッテの印象がないのはどうしてなんだろう。大キレット歩行による心身の疲れで爆睡したのかもしれない。

焼岳と笠ヶ岳は、2003年頃だと思うが、沖縄本島の宜野湾市に1年だけ暮らした時代に、当時愛用していたKHS製折り畳み自転車(オリーブ号と命名)で出かけた「百名山4座登頂サイクリング旅行」で、御嶽山、乗鞍岳とともに登っている。

焼岳は、新穂高の中尾温泉の舗装道路をオリーブを引きながら登り、オリーブを登山口に留めて日帰りでピストンしている。焼岳を下り先の新穂高温泉に当時開設していたキャンプ場に二泊して、地図で見たら往復15時間は要する笠新道コースを日帰りでピストンしている。雨の1日で、笠ヶ岳頂上をさみしく去ったこと、笠の小屋で体を温めようとカップ麺とワンカップをいただいたことを昨日のように覚えている。

今年計画していけなかった折立~太郎平~黒部五郎~双六~笠~新穂高の山旅はぜひとも遅からず実践したい。それだけ、笠には未練が残るし、小屋のワンカップは笠のテント場でしみじみといただきたい。酒飲み登山は、たとえ下りであっても厳に諫められるべきである。(寒かったので許して・・)

 

「槍見える」天狗原(てんぐっぱら)の大岩でキジを打った日還らざる時

 

(涸沢ヒュッテの朝)

涸沢に並んだ写真井上靖相手の女の名が出ず登る

 

暗がりの常念小屋に着きたれば小屋のスタッフ笑顔で案内す

 

雨降りの頂下りて笠の小屋ワンカップの味カップ麺の味

 

入口に自転車寝かせ焼岳を行き来した日は煙臭わず

 

 

2019年9月乗鞍への登り道で仰いだ笠ヶ岳の秀峰

 

 

 

 

 

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月面Xの夜

2022-12-30 19:43:02 | 日記

上弦の月の日の12月30日20時30分、前後1時間ほど「月面X」が見られる、と「2022年天体観察手帳」が誘ってくれているが、現在南西の月の方向は白い雲に覆われている。とりあえず、このブログを未完成のまま発信し、あと1時間以内に月を観察出来たら、書き換えてみたい。下の、「MYSONG」を描き続けて疲れたので、今日はおしまいにしたい。情けないのだが。

 


 日本百名山 MY SONG                

                  50 薬師岳(やくしだけ・2926米)

                  51 黒部五郎岳(くろべごろうだけ・2840米)

                  52 黒岳【水晶岳】(くろだけ・2978米)

                  53 鷲羽岳(わしばだけ・2924米)

【深田久弥・日本百名山から】

(薬師岳)

「薬師岳は、白馬や槍のような流行の山ではないが、その重量感のあるどっしりとした山容は、北アルプス中随一である。ただのっそりと大きいだけではない。厳とした気品もそなえている。」

 

山頂に散乱したる宝剣は文鎮となりペンの音聞く

 

 

 

  

(黒部五郎岳)

「中村(清太郎画伯)さんは、「わが黒部五郎岳」と呼ばれる。初心失わず、今なお老躯をひっさげて山小屋に籠り、愛する山の写生に専念される。貴い気持ちではないか。   私も黒部五郎岳は大好きな山である。これほど独自の個性を持った山も稀である。雲ノ平から眺めた姿が中でも立派で、中村さんの表現を借りれば、「特異な円錐がどっしりと高原を圧し、頂上のカールは大口を開けて、雪の白歯を光らせている。」

「中村清太郎さんは黒部五郎岳を不遇の天才にたとえられた。確かに、世にもてはやされている北アルプスの他の山々と比べ、その独自性において少しも遜色がないこの見事な山が、多くの人に見落とされている。しかし、それでいい、この強烈な個性が世に認められるまでには、まだ年月を必要としよう。黒部五郎岳がto the happy few の山であることは、ますます私には好ましい。」

 

双六の小屋番部屋より通ひては中村画伯今日も五郎を

 

 

            

 

(黒岳『水晶岳』)

「(黒岳を立派に眺める二つの場所のうち)もう一つは雲ノ平からで、ここでは黒岳はすぐ目の前に仰ぐ位置にあるので、どっしりとした重量感をもって迫ってくる。雲ノ平は山に包まれた美しい高原であるが、そこから眺めて一番まとまりのある堂々とした山は黒岳である。もしこれがなかったら、高原の値打ちの半分は、減じるだろう。北方に見える薬師岳の長い(長すぎる)頂稜の灰白色に対して、黒岳はその名の如く黒々と男性的な強さを持っている。黒岳の名はそこから来たのであろう。」

 

黒岳は雲ノ平のひむがしに西日受けてもなほ黒かりし

 

 

(鷲羽岳)

「黒部と言えば、その谷の深さと嶮しさと美しさとで有名だが、その黒部川が産声をあげるのが鷲羽岳である。この山の頂に立つと、黒部川の幼年時代の発育ぶりが手に取るようにわかる。源流は一跨ぎ出来るささやかな流れである。その水がやがて切り立った絶壁の間を、潭(たん)となり淵となり滝となって、猛々しく流れていくのである。」

鷲羽岳の朝日をあびた水滴の黒部の川へ旅立ちたるや

 

【深田日本百名山登頂の思い出・再掲】

2018年8月盆前、トランスジャパンアルプスレースの応援を兼ね、立山室堂~五色ヶ原~スゴ乗越~薬師岳~雲ノ平~水晶岳~三俣蓮華岳~双六岳~新穂高温泉を歩いたが、その行程で43年ぶりに薬師岳の祠のある山頂に立った。スゴ乗越あたりで数人の選手とめぐりあったが、大半は寝ているときに通過したものと思われ、応援とは名ばかりだった。それよりも、2018年は、約20kのザックの重さに60代半ばに差し掛かったオイラの体は軋みを生じていて、ヨレヨレの歩きであり、薬師までの長い長い登り勾配が終わって山頂に立った時には腰が抜けたように座り込んだ。

初登の1975年の夏は、薬師沢キャンプに大きな1個のスイカを運び上げ、夜は大学同好会の数人の男女でワイワイと分け合っていただき、翌日薬師沢からワイワイ・ハツラツとしながら軽装で薬師岳を往復したのであって、当時のことを思い浮かべ、2018年の薬師岳山頂にて弱り切ったひとりぼっちのオイラの頭には「落魄・らくはく」という二文字がよぎった。

 

深田さんのお気に入りの山、黒部五郎岳と黒岳(水晶岳)には1990年代後半に、職場の後輩Ⅿ君と折立~太郎平~黒部五郎岳~黒部川源流~水晶岳~高天原温泉~雲ノ平~薬師沢小屋~太郎平~折立の山旅で二座登った。黒部五郎岳と黒岳の間に鷲羽岳があって、百名山であるからⅯ君が登りたがっていたのに、オイラは1975年にすでに登っていたことから、黒部源流コースという近道を選んでしまったことに、「自分勝手なやつだ」と反省している。

太郎平小屋、黒部五郎小舎、水晶小屋、高天原山荘利用と豪華な旅で「雲ノ平」までは順調な山旅であったが、薬師沢に下る途中の急な下り坂、野生のブルーベリーであるクロマメノキの実がたくさん生えていて摘み取って食べ歩きしていたことが災いし、オイラは小さな木製のはしごで足を滑らせ、右足首にひびが入るという重傷を負った。Ⅿ君のストックを借りてビッコひきながら、その日は泊まる予定のない薬師沢に泊まった。幸い小屋に看護師さんが常駐していたのでテーピングをしていただき、少しは楽になったが、翌日は太郎平にもう一泊。折立までの下りが途方もなく長かった苦い思い出がある。

黒岳には2018年の上記山旅でも再登しているが、鷲羽にはまたも登らずじまいだった。どちらから見ても鷲羽のどっしりした図体を見ると、登りを躊躇させてしまうなにかしらの威厳のある山ではある。

黒部五郎岳のカール地形とお花畑には、深田さんならずとも魅了されるので、この山と笠ヶ岳を結ぶ稜線の山旅は、遅からず計画したい。

山頂の薬師堂の木目に触れ四十五年の時思いけり

 

ザックからスケッチブック取り出してクロベゴロウを描いた夏

 

水晶の二段ベットの天井で夕餉の匂い嗅ぐ家禽みたいに

 

降りしきる雲ノ平を旅立つも源流跨げず鷲羽のふもと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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さようなら「Dr.コトー診療所」・・・与那国島の風景

2022-12-29 20:33:55 | 日記

未明に目が覚めたので、枕もとでyahooニュースを覗いていたら、なんと天皇皇后両陛下と愛子さまが、離島医療チャリティーための上映会という名目ではあるが、一般映画館でこの度封切りされた「Dr.コトー診療所」をご覧になったとの情報。天皇家が大相撲や、コンサートなどをご覧になることは聞いたことがあるが、一般映画館の座席で映画をご覧になるという話は聞いたことがない。(天皇家の評価値アップ)

じつは、「Dr.コトー診療所」は、オイラが2001年から2005年まで沖縄、それも宮古島や石垣島という離島に勤務していた時代に放映されていたこと、とくにロケ地の与那国島は、石垣島で勤務地の「管内」だったこともあり、公私にわたって何度も足を踏み入れた島であって、あの比川浜の診療所にも幾度か訪ねていたこと、などから特別に思い入れのあるドラマなのであって、「16年ぶりにほぼ同じメンバーで映画化され、この作品をもってこのドラマは完結する」という触れ込みでもあったので、封切りになったら、コロナ感染の危険を冒してでも見に行こう、と決めていた。

が、冬休みにも入って街も劇場も混雑するのだろうから、年明けに行くか・・・と心が揺れ動いていた。

それが、本日未明の「天覧映画」との情報に接し、「そんなにありがたい映画だったのか・・・これは早く観ないと国賊あつかいに・・・」(冗談だが)、早く映画を観たくなってしまい、布団の中で、上映館情報、空席情報などを得たのち、本日昼から仙台TOHOで上映されている本作品のシニア割チケットを予約、決済まですましてしまった。「天覧映画」チケットを布団に寝っ転がってゲットするとは、世が世なら不敬の徒とそしりを免れないだろうが、このような経緯で、年内にこの作品に接することになった。

で、本夕映画館から帰って、このブログを書いているわけだが、ネタバレになるから作品内容のことは書かないが、2時間余りの作品、オイラの眼は熱くなり、潤み、ときどき何か瘧にでも罹ったように体が震え、隣のご婦人にオイラが嗚咽しているのを悟られまいかと心配し、震えを押さえるのに苦労もした。(少し大げさかな。)

泣かせてくれた原因は、まず与那国の風景。映画は2000年ころの与那国の古き良き風景をいまだ切り取ってくれていたので、もうそのなつかしさに泣けた。現実を知るものとしては、その後この島は日本列島の防衛最前線の島となってしまい、広大な自衛隊基地ができ、異様なレーダーが西寄りの山に立ちつくし、もうコトー先生がノンビリと自転車をこいで往診するような牧歌的な島ではなくなっている。さらに、今後はミサイルも配備されるという。台湾にもほど近く、「日本で一番危険な離島」と化していくことは疑いようもない。そんなことで、もう後には戻れない与那国島を、ヒトも風景も、こんなにも美しく描いてくれたことに、オイラは涙したのだ。

泣かせてくれた原因は、もちろん作品の内容。もう二度と続編は許されないほどに完璧に「完結編」となっていた。「大団円」という言葉を使うヒトもいるようだが、大きな円のような「命のリレー」がメッセージされていると思う。16年というブランクを感じさせなかった、かねてよりのメンバーの演技にはさすが役者だというほど凄みさえ感じた。もちろん、吉田紀子という脚本家、中江功という監督の手腕あってのことだが、とにかく「終わらせ方」がいい。観る側がなんとでも受け取れるようなエンディングに仕上げている。

泣かせてくれた原因は音楽。劇中の吉俣良さん、そしてエンドロールはドラマと同じくみゆきさんの「銀龍」。(これでなければ絶対にならない。)エンドロールが終わるまで誰も立ち上がることがない映画は初めて見たような気がする。皆が涙を拭いて、暮れの雑踏に、日常にと戻る準備をしていたのだろうか。

本当に終わってしまったので、いい作品だったと理解はできても、何となく悲しくてもう二度とこの映画を観ないのだろうし、しだいに要塞の島となっていく与那国島にも足を踏み入れることがないのだろう。

「Dr.コトー診療所」と「与那国島」に、オイラ的にはお別れの時が来たのだ。さようなら。ありがとう。

 

映画「Dr.コトー診療所」公式サイト (coto-movie.jp)

 


 日本百名山 MY SONG

                  48 剣岳(つるぎだけ・2999米)

                49 立山(たてやま・3015米)

【深田久弥・日本百名山から】

(剣岳)

「まことに剣岳は、そんな昔から、それを仰ぐ人々の心を高揚する山である。何よりその風采の豪毅にして颯爽たる点である。日本アルプスの高峰にはそれぞれの風格があるけれど、一つの先端を頂点として胸の透くようなスッキリした金字塔を作っているのは、この剣岳と甲斐駒ヶ岳ぐらいであろう。」

「おそらく剣岳の一番みごとな景観は、仙人池あたりから望んだものだろう。眼前に、岩と雪の交錯したダイナミックな光景が迫ってくる。(中略)その男性的な眺めに緊張した眼を下に移すと、そこにはメルヘン的な原がやわらかに拡がって、そこの池沼に岩と雪の剣岳が逆さに映っている。」

 

グラビアは仙人池の剣岳ぼろとなりても御著書捨てず

 

(立山)

「かずかずの古い由緒を持つ立山も、現在は一変して近代的な観光地になりつつある。(中略)お山まいりの立山は消え、登山の対象としての立山も消え、一途に繁華な進んでいるようにもみえる。」

「立山は、私が頂上を一番踏んだ山の一つである。中でも頂上の雄山神社の社務所に泊めて貰って、早暁、日の出を拝した時の印象は忘れられない。四方に山山が雲海の上に目覚めるように浮かび上がってくるのを眺めながら、やはり立山は天下の名峰であることを疑わなかった。」

(深田さんへ)

立山のアルペンルートの人波もトンネルに消えライチョウ安らけし

 

深田日本百名山登頂の思い出・再掲

1年の浪人後、晴れて大学生となったのは、1975年だったか。五月病で大学に馴染めなかったころ、ある山岳同好会に入会したが、同好会とはいえ、高校山岳部出身の屈強な先輩が数人いて、夏休みに入ると早速北アルプス行の計画が複数組まれていて、オイラは、

① 7月の剱岳:立山駅~称名の滝~大日平(テン泊)~奥大日岳~劒沢(テン泊)~平蔵谷~劒岳~長次郎谷~劒沢(泊)~仙人池~阿曾原温泉小屋(テン泊)~黒部峡谷水平道路~欅平(トロッコ鉄道で下山)

②8月の槍ヶ岳:折立~太郎平~薬師峠(テン泊)~薬師往復(テン泊)~雲ノ平(テン泊)~高天原温泉往復(テン泊)~三俣蓮華小屋(テン泊)~槍ヶ岳(テン泊)~上高地

というコースに参加し、屈強な先輩たちに導かれるまま夏の北アルプスの魅力にたっぷり染まった。

なので、剱岳の最初の登山は、現在の一般コースとことなり、登りはたしか平蔵谷(へいぞうたん)の雪渓をアイゼンとピッケルで登り、下りは長次郎谷(ちょうじろうたん)の雪渓を半分グリセードでというバリエーションコースで登ったことになるが、さして恐怖を感じなかったのはお天気と先輩の適切なガイドによる。

その後、劔には八戸にいた1985年前後か、仙台に戻った1900年ころ、八戸の山岳会のwさんと劔・立山登山をした際、あのカニのタテバイ、ヨコバイのクサリ場で有名な一般ルートから再登頂している。

劔の2回登山いずれもお天気に恵まれたこともあり、安全に帰って来れて、怖い思いはしなかった。もう、劔は登る山ではなく眺めるだけの山になってしまったが、遅くない時期にもう一度仙人池からのアルペン的な剱岳に逢いたいと思っている。

 

立山には、上記のwさんと初めて登った後、2011年の震災後黒部ダム~一の越コースからと昨年2020年雷鳥沢にテン泊して真砂岳からと最高峰の大汝山・雄山神社に一人達している。そのほかに、2018年に室堂から浄土山・龍王岳経由で五色ヶ原方面に向かっており、立山三山はひととおり歩いたことになっているが、この山域は、毎年季節を変えて歩いてみたい。そんなにあちこちと魅力的なルートが盛りだくさなのであって、オイラにとってかけがえのない青春の思い出の山域だ。

 

室堂平からの劔

雷鳥沢から星空の立山

 

 

一九才奥大日より剣見てアルプスの響(おと)耳に響けり

 

初登の平蔵谷(へいぞうたん)と長次郎 雪渓(ザラメ)踏む音聞こえ来るかな

 

立山の雷鳥沢を宿りにし十九のころを探し彷徨ふ

 

 

 

 

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お帰りなさい、お月様

2022-12-28 18:21:20 | 日記

昨夜の三日月様を新しい仲間p950で撮影。3年ぶりだろうか、大きなお月様。手持ちでも何とか写せるが、ベランダなので、三脚で写してみる。p900にもあったお月様モードと動画。

「帰って来たお月様」という感じ。「お帰りなさい!」「ああ、いいなあ、ただボヤ~とお月様を見ているのって」

続けよう。

 

    

 

 

 

 


日本百名山 MY SONG

 

                45 白馬岳 (しろうまだけ・2932米)

                46 五竜岳(ごりゅうだけ・2814米)

                47 鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ・2889米)

【深田久弥・日本百名山から】

 (白馬岳)

「私はこの山を東西の横から眺めるよりも、南北の縦から望んだ姿が好きである。(中略)東側が鋭く切れ落ち、キッと頭を持ち上げたさまは、怒れる獅子といった感じをいつも私は受ける。颯爽たる姿である。」

大蓮華(おおれんげ)

代馬(しろうま)

白馬(しろうま)

白馬(はくば)てふ

呼び名変われど 永遠(とわ)に光れり

 

(五竜岳)

「北安曇野から後立山連峰を眺めると、高さは特別ではないが、山容雄渾、岩稜峻厲(シュンレイ)、根張りのどっしりした山が眼につく。それこそ大地から生えたようにガッチリしていて、びくとも動かないといった感じである。」

 

唐松(からまつ)の真南にたつ五竜岳地の深くまで巌(いわ)根張るらし

 

      

           五竜岳 L.F 

 

(鹿島槍ヶ岳)

「 昼の雲

  舟のさまして動かざる

  鹿島槍てふ

  藍の山かな

これは三好達治君の歌である。  」

「鹿島槍は私の大好きな山である。高いところに立って北アルプス連嶺が見えてくると、まず私の眼の探すのは、双耳峰を持ったこの山である。北槍と南槍の両峰がキッとせり上がっていて、その二つをつなぐ。やや傾いだ吊尾根、その品のいい美しさは見飽きることがない。」

 

    やや傾ぐ吊尾根繫ぐ鹿島槍二つの耳の見て飽かざるや

 

     

          NHKBSP「グレートトラバース3」から鹿島岳

 

 

 

深田日本百名山登頂の思い出から

思い出をたどる旅も、ついに北アルプスにやってきた。ヤマケイ1月号のルートマップが三山まとめてあるので、このログも地図に倣おう。

人気の白馬岳に登ったのは、40代になってから。1998年~2000年の間に、職場の後輩Ⅿ君を誘って北アルプスには3度、北海道には1度、マイカーやレンタカー旅をしたが、いずれも山小屋利用でのラクチン登山だった。

北アルプスには、年に1回計画していったのだと思うが、白馬発登山は、雨飾山とのセットで、蓮華温泉を登山口とし、1日目に白馬大池小屋泊、2日目に白馬山頂を往復し、蓮華に下った。

二度目は単独で、猿倉~白馬鑓温泉~天狗小屋~白馬三山~栂海新道経由で日本海というテント山行を試みたが、登山靴の底がはがれるというアクシデントのため、天狗小屋から猿倉に下山していて、白馬山頂には到達できなかった。百名山を終わったあとの2010年ころだったか。

三度目の白馬で初めて大雪渓を登り、「こんなに素晴らしいルートだったか、人気なのも納得」と感動している。沖縄の仲間2人を誘ったが、都合で1名がキャンセルとなり、H君だけとなったが、彼も大いに喜んでいた。2019年の7月のこと。H君と別れた後、オイラは再び栂池から白馬大池に登ったが、白馬山頂には行かず、雪倉~朝日岳とたどり、念願だった栂海新道を下って日本海の波うち際に辿り着いている。

 

 

   

       奥大日岳山頂から中央奥に見えた秀麗な白馬の山容

        (深田さんが好きな南側からの山容)

 

 

五竜には、1998年~2000年の間に、上記のⅯ君と八方尾根から登っている。唐松岳~五竜岳~鹿島槍ヶ岳~爺が岳~針ノ木岳と、後立(ゴタテ)と呼んでいる後立山連峰を縦走し、針ノ木大雪渓を下っている。これだけの長いルートなので、どこかの山小屋に1泊、2泊したかと思うが、その印象がないのはどういうことなんだろう。地図を見て回想すると、多分、五竜山荘と種池小屋あたりだったのだろう。

鹿島槍には、その双耳峰の容姿に憧れ、1970年代の学生時代に爺ヶ岳コースから向かったが、テン泊した冷池山荘で、熱を出してしまい登頂を断念し、赤岩尾根から大谷原へ下っている。当時は、酒はもちろんだが、タバコもやっていたので、のどの弱いオイラはよく熱を出していた。

そして、上記のⅯ君とのゴタテ縦走で念願の双耳(北峰・南峰)に立つことができた。20年以上後のことだったか。

 

白馬(しろうま)の白馬雪渓(はくばせっけい)登る朝 

キヌガサソウの雪より白き

 

縦走路 唐松 五竜 鹿島槍 泊りし小屋の忘れたるかな

 

冷池(つめたいけ)

小屋に張りたるテント場の

微熱虚ろに 鹿島槍煙む

 

 

 

 

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比較明合成1年生

2022-12-27 15:30:52 | 日記

来る年のテーマ「山と星の日周運動」を真面目に学ぶため、晴れた夜は、冬寒にめげずベランダに出て、試行錯誤をはじめよう。

比較明合成、日本語ではピンとこない手法だが、要するに同じ構図、露出時間、絞り、ISO感度の写真を一定の時間何枚も撮影し、ソフトを使って何枚も重ね合わせれば、時間を追って運動する星の軌跡を鮮明にとらえることが出来るというテクニックである。

「アルプス星夜」の菊池哲男さんのように、長時間露光(例えば、20分露出、F3.2、ISO200)による1枚だけの撮影にこだわる写真家もいて、素晴らしい作品を作り上げているが、条件がよければオイラもそのようにしたいし手間いらずなのだろうが、比較明合成の技法を知っていて損はない。

昨夜は、夜間8時ごろの木星の軌跡をとろうと、Ⅾ750のインターバル撮影機能を、(20秒露出、F4、ISO1200)×(80枚、2秒間隔)に設定して試みたが、20分後にベランダに出たら、なぜか20枚程度で終わっていた。(原因不明・・・(´;ω;`))

よって、下記のとおり20枚だけ重ねたタイムラプスになり、おまけに雲まで出てきてしまい意図した軌跡にはならなかったが、失敗をくり返しながら、学んでいこう。ちなみに、ベランダは南向きなので軌跡は円にはならない。

 

     

             中央右手の木星は雲のため輝いてくれなかった。 

 


日本百名山 MY SONG 44 筑波山(つくばさん・877米)

 

深田久弥・日本百名山から】

「筑波山を日本百名山の一つに選んだことに不満な人があるかもしれない。高さ千メートルにも足りない。こんな通俗的な山を挙げるくらいなら、他にもっと適当な名山がいくらでもあるのではないかと。しかし私があえてこの山を推す理由の第一は、その歴史の古いことである。」

「関東周辺の山から遠くを眺めると、朝靄の上に鋭く立った峰がある。あんな所にあんな高い山はないはずだが、ー

 ーとしばらく戸惑った後、それが筑波山と悟るのであった。昼の東北線に乗るときは、いつも私は筑波山を見るのを楽しみにしている。頂上は二つに分かれている。その形が、一番美しく眺められるのは、間々田と小山の間である。」

「この二峰並立が筑波山のいい姿であって、昔から男神女神として崇められてきた。」

 

    筑波ねの男神女神ら寄り添ひて天にも昇る心地やすらむ

 

 

深田日本百名山登頂の思い出・再掲

深田百名山の中で標高1000mを下回るのは茨城県の筑波山と鹿児島県の開聞岳だけだが、どちらも姿がよく、遠くからよく見える山。

この筑波山にも、沖縄から帰ってきた2006年から7年の間に登ったのだろう。

仙台から常磐線上りの始発は5時30分、これに乗って各駅停車を乗り継げば土浦駅到着は11時すぎ。バスで登山口の筑波山神社前に到着するのは13時を回っていたはずだが、4時間もあれば男体山から女体山を周って降りてこられたはずだ。土浦に泊まった記憶がないので、18時過ぎの下りに乗って仙台に戻ったのだろうが、各駅停車ばかりだとその日のうちに帰れないから、いわき駅までは特急に乗ったのかもしれない。それだと、23時には戻れている。

忙しい登山ではあったが、都心も見渡せるほど眺めがよくて、コースは変化に富んでいて、ちょっと混んでいたが楽しい登山だったな。

 

        始発より終電までに登りける筑波の歓喜瞬きのごと

 

 

 

           

              霞ケ浦と筑波山(フリーサイト)

 

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