かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

山あいの湯治場

2021-09-30 08:06:44 | 日記

奥羽本線の峠(とうげ)駅に降りると、その日の湯治宿として予約していた滑川温泉(なめかわおんせん)福島屋さんの送迎車が待っていてくれた。別に、送迎の予約をしていたわけでもなく、小1時間ばかり歩いて肩慣らしするつもりであったが、せっかく待機していてくれて、乗客はどうやらオイラだけみたいなので乗せていただいた。運転していた方は、とてもいい方だった。こういう方がご主人だったりする。

20分程度で宿につき、チェックイン時刻前だというのに受付を済ませてくれて、ひさしぶりに午後の日差しを浴びながら、河畔の岩風呂でやや温めの湯の花の浮かんだ硫黄泉を夕刻の「女性専用時刻」開始間際までいただいた。深夜、昭和の香り芬々の小部屋で眠りから覚めて内湯をいただいてビールを飲んでまた眠り、ふたたび目覚めた時の少し白み始めた日の出前、檜造りの半露天家族風呂も川音を聴きながら独占した。これだけ豊かな一夜を過ごしながら、4000円程度で泊まれるみちのくの山あいにある湯治宿をオイラはこよなく愛し、これからも登山の定宿として利用したい。

お隣の五色温泉は、昨年廃業したらしい。滑川温泉は、いつまでも元気でいてほしい。

仕事を終えて、沖縄から東北に帰って

2019年に、大崎市の鳴子温泉「姥湯」、北上市の夏油温泉「元湯夏油」、花巻市の大沢温泉

2020年に、秋田の後生掛温泉、花巻市の鉛温泉「藤三旅館」、花巻市の大沢温泉

今年、米沢市の滑川温泉「福島屋」

と湯治部門のある老舗の宿を利用してきたが、テント・山小屋自炊派の山やにとっては、築百年以上はする木造家屋の鍵のない和室の六畳間は、いずれもミツボシ☆☆★の極上宿だ。

紅葉まっさかりのこれから、ゆきあかりの冬季、昭和へのタイムスリップを求め、これからも、みちのくの山あいに湯けむりを求めていこう。

     

    まだ色づきには早い福島屋さんに別れをつげ、吾妻山にむかった。


深田日本百名山登頂の思い出    20 吾妻山(あずまさん・2035米)

深田さんが「茫漠としてつかみどころのない山」と称した吾妻連峰の山に初めて登ったのは、一切経山(いっさいきょうざん・1949m)が初めてだったろう。90年代に仙台に住みつくようになったころ。最高峰の西吾妻山(2035m)に登ったのはいつだったかな。まじめに百名山を踏破しようとした2000年以降だろう。2005年以降はハセツネ(日本山岳耐久レース)にもチャレンジしていたので、軽装でのスピード歩きには自信を持っていた時期だ。当時は、1日2本程度は福島駅から浄土平にバスが走っていたので、浄土平を午前9時ごろにスタートして西吾妻までコースタイム9時間程度の行程を「8がけ」くらいで歩き、米沢の白布温泉までコースタイム3時間の下りを明るいうちにたどり、白布の白い湯に浸かって仙台に帰ったが、辛かったという意識はない。

その後、富士登山競争はじめ全国のトレランにチャレンジするようになってからは、高所訓練と早歩きの修行場所として主に奥羽線峠駅を基点に日帰りで、白布温泉方面や福島側の高湯温泉を下山口として何度かたどった。

そんな忙しない歩き方から卒業し(高齢でできなくなったのが本音)、こないだ初めてテントを担いで吾妻を歩いた。オイラの好きな高層湿原と小さな沼が点在する瑞々しいところで、逍遥するには最適な場所。コロナが明けたら、テントは重いし、テン場もないので避難小屋を転々として、春といい夏といい秋といい逍遥したい、家からほど近い茫漠とした山域である。

      

              東吾妻山から釜沼方面を望む

        

      

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吾妻小舎のオヤジさん

2021-09-29 11:16:32 | 日記

     

浄土平のテント受付を行っていた吾妻小舎(あずまごや)のオヤジさんは親切で面白い。小屋の泊り客はいないみたいで、年恰好の同じオイラに明日山登って帰ってきたら話にこいと誘ってくれた。

オイラも、今宵の酒を仕入れる必要があったから、二日目下山して訪ねる予定でテントで着替えしていたら、100メートルは離れている山小屋方向から突然「〇〇さ~ん」と大声をあげてテント場のオイラの名前を呼んだ。「おお~っ!」と返答したら、向こうからテント場を訪ねてきて、着替え中のオイラにあれこれよもやま話をしてくれた。

(話はいいからビールを飲みたいので)「オヤジさんビールとワンカップあるか」と尋ねたら、「あるけど、1万円札じゃおつりがないから売れねえ」とプイと引き上げていった。あいにく、オイラは小銭を要していなかったのだ。

あきらめて、ラーメン食べて寝ようかなと思っていたら、また小屋方向から大声を振り上げて「○○さーん、酒いいよ~」と呼びかけてきた。

小屋まで行くと、ほかのテント客の受付を済ませ釣銭を用意できたらしい。(少しだけだと悪いので)缶ビール1缶、ワンカップ3缶しめて2000円分を支払って喜んでいたら、ナス漬けをつまみにとくれた。

缶ビールとワンカップ二つを飲んでいい気持ちで横になっていると、オヤジがまたやってきて缶ビール1缶をプレゼントしてくれた。テン場で、またよもやま話に花を咲かせていたたら、まじめな顔でことしいっぱいで吾妻小屋の管理をやめるのだという。「一度この小屋にも泊まってみたかったが、来年来たら誰か管理しているのか」と尋ねたら、「○○さん、あなたがやってくれ」などと冗談めいた答えをした。このオヤジさんのいうこと、ほんとかウソかは分からんが、憎めない性格でもあるし、「高湯まで迎えに行くから来週泊まりに来い」とまで言ってくれたので、「安達太良の縦走したいな」と思い付き、「翌日野地温泉まで送ってくれるのなら泊まりに来てもいい」といったら了解してくれた。

天気がおおきく崩れないようだったら、もう一度紅葉真っ盛りの東吾妻一帯と安達太良縦走にでかけてみようか。飯豊小屋の管理人もしていたというオヤジさんと東北の山の話で吾妻の夜を過ごすのもいいのだろう。

    

 オヤジにいただいたナス漬けで缶ビールとワンカップをいただく。その後、オヤジが持ってきてくれた缶ビールもまた飲み干す。


深田日本百名山登頂の思い出    19 飯豊山(いいでさん・2128米)

幾多の峰々で構成される飯豊連峰に、たしかに飯豊山という山名は存在する。飯豊本山とも呼ばれている主峰であるが、この山の標高は2105mである。深田百名山に表記されている2128米とは、飯豊本山より西に聳える大日岳の標高である。姿かたちも風格もオイラは大日岳の方が立派に思えるのだが、深田さんは、信仰登山の対象は飯豊本山であるという歴史を重視してこの飯豊本山を百名山とした。だったら、著書の標高表記も2105米とするべきであったが、不思議である。

深田さんは飯豊山の項の冒頭で「飯豊山というよりは飯豊連峰と呼んだ方が適当なのかもしれない。」と書かれているので、朝日岳という山が存在しない朝日連峰や蔵王山という山が存在しない蔵王連峰とちがって2128米と表記することに違和感があったので、このように書いたのだろう。

飯豊本山、たしかにどっしりとした風格があり、本山とするに異論はないが、オイラの心の中では「飯豊いいで・いいとよ)と何だか分からない神さまの山よりも、大日如来を祀った大日岳のほうが「オシ」だ。主要稜線から離れ、すっくとそびえる孤高の山を愛す。

その飯豊山だが、深田さんの日本百名山中、わが人生において初めて登った山。昭和47年の夏、当時在籍していた高校のワンゲル部の夏合宿で「連れられて行った」山だ。このワンゲル部は、朝日連峰と飯豊連峰の縦走を毎年交互におこなっていたが、オイラは、高1の秋から高2まで、この部に在籍していたので、朝日連峰合宿を体験していない。しかし、たった1度の体験でも、世の中には森林限界を超えるいわゆる雲上の世界というものが存在し、夏でも残雪を豊富にたたえ、高層湿原にお花畑が広大にひろがる浄土的風景を目の当たりにしたたことが、つまらない存在であってもオイラの人生を決定づけたことは間違いなく、飯豊は、大げさだがオイラにとって生みの親的存在なのだ。

だが、朝日連峰でも言ったように、飯豊の主稜線を踏んだのは夏合宿をいれて4回程度しかなく、5回目とした一昨年は、稜線を踏む前に左ふくらぎ肉離れのため敗退している。

浄土で生みの親に再び面対するためには、テントザックで倍のコースタイムを歩いている現状の体力では心もとない。あらためて体力増強と減量に努めなければならない。夏のある日、再び孤高の大日岳の山頂に立って日本海に沈む夕日を眺めていたい。

   

        船形山からの飯豊連峰(2019.5)

   

            安達太良山からの飯豊連峰(2019.6)

         

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吾妻山の秋の色2

2021-09-28 15:26:34 | 日記

 

      

滑川温泉の登山口から、この写真を撮っている霧の平というポイントまでは、山と高原地図のコースタイムでは「1時間」と表示されていたが、2時間を要した。どんなにいいザックを手に入れても、15kオーバーのザックを背負った場合、登りのタイムは「標準の倍はかかる」と納得した。

この霧の平から、この写真の中央左のピーク、家形山の物見台までコースタイムは2時間10分とあるので、「4時間はかかる」と観念しながら登ったら、その通りになった。それでも、ジョギングを始めたせいかばててはいなかった。

 

    

家形山の山頂に着いたのは午後3時すぎ。さっきまでのガスが晴れて午後の日差しに五色沼の青さが深みを増して、沼のほとりの樹々は色づきを増していた。家形山をくだり、正面の一切経山の山頂に立ったのは午後5時前、浄土平のテント場に着いた時には、とっぷり暮れていた。7時に宿を出てから11時間を要したことになり、今後の山行計画は「登りは倍」という意識でたてねばならないと言い聞かせた。

      

 昭和のころまで山スキーの人気スポットだったのだろうが、かつての標識がこんなだから廃れようが分かる。

 

         

 二日目、初めて上った東吾妻山はずっとガスっていたが、鎌沼まで下りてくるとやさしい姿を現してくれた。頂上付近はハイマツがびっしりと育っていて、湿原もあり好きになった。また晴れた日に登ってみよう。

   

   

   

  鎌沼は、ミネカエデの黄色とナナカマドの赤が冴えて、多くのハイカーが歓声をあげていた。

  来年は、コースタイムの倍の計画を立てて、西吾妻山方面に縦走してみよう。初夏がいいかな、秋がいいかな、どちらもよさそう。

 


深田日本百名山登頂の思い出   18 蔵王山(1841米)

 

下記の地図の緑のマーキングのとおり、ふるさとの山で百名山の中では一番多くあちこちのルートを歩いているが、学生時代は深田イズムにはまっていて頂上近くまで山岳道路やロープウェイが伸びている山を「大衆登山の山」として忌避していたので、昭和52年(1977年)に一度最高峰熊野岳やお釜のある刈田岳に登っただけ。

あちこちのルートを歩き始めたのは、宮城にもどった90年代以降。記録がないので何度登ったか分からないが、90年以降はもっぱらソロ登山を流儀としていたので、蔵王を誰かと歩いた、登ったという記憶がない。

現在は噴火の兆候か登山道の荒廃が進んだせいかルート図から消えているが、峩々温泉や賽の河原から、かもしか温泉跡を経由し、ロバの耳という岩稜をよじ登り、お釜の火口壁を周回し、展望所からこちらを見ている観光客に何かしら優越意識を抱きながら刈田岳までいくというコースを歩いたのが「若かりしころ」のいい思い出であるが、もうそんな勇気は微塵もない。

その後、花の写真に夢中になっていた90年代後半は、南の不忘山や屏風岳の芝草平などの足繁く通ったが、2000年以降、具体的には沖縄から帰った2006以降はマイカーを持たなくなったので、バスも走らなくなった南方面への足は途絶えている。

そして現在は、「蔵王古道」という信仰の道をたどって宮城側の遠刈田(とうがった)温泉からや山形側の宝沢(ほうさわ)集落から山頂に向かって、宮城側なら蔵王温泉に下り、山形側なら遠刈田に下って、それぞれの湯をいただくという企画で蔵王山と向き合っている。蔵王権現様を心に抱きながら、体力が尽きるまでの年中行事としていきたい。

また、あたりのオオシラビソはほとんど枯れていたが、山形蔵王の樹氷には一度も出会えていないので、年が明けたらロープウェイで地蔵岳まで行って、スノーシューでスキー場脇を下ってくることにしたい。

 

    

 

   

    

           船形山頂から5月末の蔵王連峰を望む。

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吾妻山の秋の色 1

2021-09-27 14:26:13 | 日記

湯治宿の滑川温泉に登り口にして、吾妻連峰の東端にある浄土平のテント場に二泊してきた。静かで快適なテント場だったが、この日曜日をもって閉鎖となるとのこと。秋色まっさかりにしてもったいない話だ。車が入れるのに人気がないのは、コロナのせいばかりではないのだろう。1週間前の予約制、午後3時からの受付、午前9時までのチェックアウトなど、家族や仲間連れがゆっくりと寛げないルール、料金も1泊1600円と、同じ環境省管理の日光湯元よりも高い設定。今年の期間設定や時間ルールは管理を任された山小屋のオヤジの意向もあるのだろうが、来年以降は改善してもらいたい。シルバーウィークの週末ながら、二日間とも23区画中、オイラを含めて3張程度とさみしい限りであった。これまで利用したテント場でも「秀」と評価できる施設でありもったいない。

高気圧に覆われた天気概況だったが、視界が開け青空を仰げたのは1日目の午後と2日目の午後だけで、あとは深いガスに包まれた静かな世界の中を歩いた。最終日は、1日目に登った一切経をへて高湯温泉に下る予定だったが、さらに深いガスに覆われていたので、スカイラインを2時間、ぬかるんだ山道を1時間下り続け高湯温泉に着いた。次のバスの時刻に3時間以上もあったので、日帰り温泉をはしごして体がふやけそうになるまで過ごした。今日になっても、体から硫黄臭がきえない。

吾妻山の秋色は始まったばかり、山小屋のオヤジに高湯まで迎えに行くから来週泊まり来るよう促された。客もあまり来ないので、今年で山小屋の管理をやめるのだというさみしそうなオヤジだったし、この山小屋にはなんだか懐かしさもあったので、安達太良縦走の登山口の野地温泉まで送ってもらうことを条件に約束した。

10月初めの週は、台風一過の秋晴れとなって吾妻や安達太良はより彩度をあげていてくれるだろうか。

   

  テント場の朝、ルリビタキの♀さんが忙しそうにナナカマドの枝を行き来していた。南に帰る準備に忙しいのかな。

    

      ツリバナの仲間だろう、赤い実がはじけていた。

     

 吾妻山のクロマメの木の実(日本のブルーベリー)はとても大きかった。いくつもつまんではタネを遠くに飛ばしたが、環境によろしくないのだろうか。酸味にかけるがやさしいブルーベリーの甘さがした。

      

           鎌沼に生えるナナカマド

       

           ドウダンの葉も真っ赤に色づいていた。

      

      

 1日目に目の当たりにした五色沼の更なる輝きを3日目に楽しみにしていたのに、ガスのためスルーしてしまったのが残念。


深田日本百名山登頂の思い出   17 朝日岳(1871米)

東北に長く住んでいながら、東北のアルプスともいえる朝日連峰と飯豊連峰を歩いたのは数少ない。学生時代だから百名山目次のメモに「51」とあるから昭和51年(1976年)に朝日鉱泉から小朝日~大朝日~以東岳~大鳥池と縦走したのが最初。あとは、90年代に古寺鉱泉から大朝日を日帰りと天狗小屋に泊まって障子ヶ岳で買ったばかりの富士67カメラを使ってみたこと、2000年代に長いマラソンを走る前日にマッターホルン祝瓶山(いわいがめやま)を日帰りしただけ。90年代は、山岳写真に凝っていて、ラムダのザックに重いカメラや三脚を積んで歩いていたっけ。(いい写真が1枚もない。)

なにゆえか鮮明に残っているのは、最初の縦走時、大朝日の雪渓近くにテントを張った時、雪渓にトマトジュースの缶やアズキ缶を埋めておいて、うーんと冷やしていただこうとしていたのに、埋めた場所を何度探しても見つからなかったこと。ビールでないのが可愛いが、いまもその時の無念さはきえていないのだからヒトの性というのはつまらない。それと、大鳥池からの下山中、なんだか首筋がむず痒いとおもって手のひらを当てた時、オイラの血をたらふく吸って手のひら大に膨れたヤマビルを捕まえ失神しそうになったこと。多分樹上から降ってきたやつだろう。

今は、稜線上のテント禁止となった朝日連峰、昨年秋、コロナの心配があるものの、そのせいで空いてそうな山小屋を経由してしばらくぶりに学生時代に歩いたコースをたどろうと朝日鉱泉に予約を入れようとしたが、季節運行のバスが終わっていた。今年の秋ころから、また小屋は混みだすのだろう。思い出登山の日はやってくるのだろうか。大朝日岳近くの草むらに、45年前のトマトジュースのカンカラがまだ錆びて埋もれているだろうか。

    

           2019船形山頂から眺めた残雪の朝日連峰

         

         

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ドイターザックデビューで秋山に

2021-09-23 11:22:01 | 日記
今年の秋山は、県内だけとはいかないが、できるだけ近場の紅葉ポイントに出掛けることにしよう。第一ステージは、福島の吾妻山系へ新たに購入したドイター50Lのデビューを兼ね、テントを背負って歩いてみよう。ストーブをエスビットと百均の固形燃料にしたこと、大部分の食料をアルファ化したことなどで三泊分の荷物でも15キロ以下となったが、カメラと水を加えると、やはり17キロ程度とはなるのか、バテなければいいが。どうだろうドイターター君の山での背負い心地。救世主となってくれるか。頼むぜ!
今宵は、秘湯の湯治場で、少しゆっくりしよう。



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