私はよく、「なわ・ふみひと」さんのホームページのBOOKというページにある要約された書籍の文書をアンドロイドの読み上げソフトで読み上げて、通勤途上で聞いています。今回、私に勇気と元気をくれた箇所を紹介したいと思います。
以下、転載です。
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-top-foods.html
不食 人は食べなくても生きられる
山田 鷹夫・著 三五館 2004年11月刊
私は約20年前に、ふとしたことから昼食の習慣を断ちました。その当時、周りの人たちから「昼を食べないと午後から元気が出ないだろう」と言われましたが、それは全くありませんでした。むしろ食べないことによって胃に負担がかからない分、体調はよくなったように思っています。その経験から、この本の述べていることがよく理解できます。
1日1食ですませている健康そのものの人と出会ったこともあります。私の場合はまずそこから挑戦してみようと思っています。挑戦する気のない方も、読んでいただくと新しい時代の到来を予感させるメッセージが心に伝わると思います。 (なわ・ふみひと)
不食の聖女テレーゼの奇蹟 ―― 不食が可能である根拠④
●テレーゼは1898年に生まれた。20歳のとき不慮の災難に遭い、そのため失明し、全身不随になった。熱烈な祈りを捧げた結果、奇跡的に視力を回復し、その後手足も一瞬にして癒された。1923年以来、テレーゼは毎日、祭壇に供えた聖餅の小さな一片をのみ込む以外は、食べ物を完全に断ってしまった。
協会の許可の下に、テレーゼはこれまでに数回、綿密な科学的検査を受けた。ドイツ・プロテスタント新聞の主筆フリッツ・ゲーリック博士は「カトリックの詐術をあばいてみせる」と、テレーゼのもとに出掛けていったが、かえってすっかり感動して、彼女の伝記を書くようになっている。
こうした記事を知っていた『あるヨギの自叙伝』の著者であるヨガナンダ(インド政府は顔写真の記念切手を発行してその偉業を讃えている)は、彼女を訪ね、そのときの様子を書き残した。
テレーゼは、いとも優しい握手で私を迎えてくれた。われわれは互いに目を見交わしながら、神を愛する者どうしの心の通い合いを覚えてほほえんだ。(略)
「あなたは何も召し上がらないそうですね?」私はこの答えを彼女自身の口から聞きたかった。
「はい、毎朝6時に祭壇に供えた聖餅をいただくほかは何も食べません」
「その聖餅はどれくらいの大きさなのですか?」
「銅貨くらいの大きさで、紙のように薄いものです」彼女はこう答えると付け加えた。「私はそれを聖餐の意味でいただくのでございます。祭壇に供えたものでなければ、のみ込むことができないのです」
「もちろんあなたは、12年もの間、それで命をつないできたわけではありませんね?」
「はい、私は神様の光で生きているのでございます」
なんと明快な答えであろう! なんとアインシュタイン的言葉であろう!
「あなたは、生命のエネルギーが、エーテルや太陽や空気からからだの中に注ぎ込まれていることを知っておられるのですね?」
ほほえみが彼女の顔をほころばせた。「私がどうして生きているのかわかってくださって、ほんとうにうれしうございます」
「あなたの神にささげられたご生涯は、キリストがおっしゃった『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのコトバによって生きるのである』という真理を毎日実証するものですね」
この説明に、彼女は再び大きな喜びを表した。「ほんとうにそのとおりでございます。私が今日この世にこうして生きている理由の一つは、食べ物によらず見えない神の光によって生きられることを証明するためでございます」
(パラマハンサ・ヨガナンダ『あるヨギの自叙伝』森北出版)
神は人間に、なぜ不食を教えなかったのか!
●『あるヨギの自叙伝』にこうある。
不食の聖女テレーゼ・ノイマンにヨガナンダが尋ねている。
「あなたは食べ物をとらずに生きる方法を人に教えることができますか?」
彼女はやや驚いたようすを見せながら言った。「いいえ、それはできません。神様がお望みになりませんから」。
さらにもう1人の断食50年の女ヨギ(ヨガの行者)についてこう書いている。彼女名前はギリバラという。
「ママ様、どうぞあなたご自身の口から聞かせてください。あなたは、実際何も食べずに生きていらっしゃるのですか?」
「そのとおりでございます」彼女はしばらく沈黙していた。次の言葉で、このとき彼女が頭の中で計算していたことがわかった。「私は、12歳4カ月の時から68歳の今に至るまで、つまり56年以上の間、食べ物も飲み物もいっさい口にしておりません」
「食べたいと感じたことはないのですか?」
「食べたいと感じたら、食べなければならなかったでしょう」彼女はいともあっさりと、この明白な真理を言ってのけた。――毎日三度の食事に追いかけられている世の人々が身につまされている真理を。
「でもあなたは、何かを食べていらっしゃるのですよ」私はやや異議を唱えるように言った。
「もちろんですとも」彼女はすぐに私の言った意味を理解してほほえんだ。(略)
「ママ様」私は尋ねた。「世のほかの人々にも、食べずに生きられる方法を教えてあげたらいかがですか?」
世界中の何百万という飢えた人々のためにいだいた私の野心的な希望は、即座に否定されてしまった。
「それはできません」彼女は首を振った。「私は先生から、この秘密を漏らすことを固く禁じられております。創造に関する神様のご計画にむやみに干渉することは、先生のお望みにならないことでございます。もし私が、食べずに生きる方法を人々に教えたら、お百姓たちはさぞ私を恨むことでしょうし、おいしい果物も、地面に落ちてむだに腐るばかりです。不幸や、飢えや、病気は、私たちに人生の真の意義を探求させるための、カルマのむちではないでしょうか」
「ママ様」私はおもむろに言った。「では、あなただけが何も食べずに生きてゆけるよう選ばれたのは、何のためでしょうか?」
「人間が霊であることを証明するためでございます」彼女の顔は英知で輝いていた。「人間は、霊的に向上するにつれて、しだいに、食べ物ではなく“永遠の光”によって生きられるようになるということを証明するためでございます」
●この二人の不食者の言葉を引用したのは、不食は可能であるという実在を読みとるためである。よく読み味わってほしい。
「老化と死」をめざしてひたすら食べる人間
●食べるという行為は成長のためという理由が大きい。
「いっぱい食べて大きくなれよ」と言うほのぼのとした親心というものがある。
だが、だれも食べれば成長するというその裏側のもう一つの真実にまで思いを至らせていない。
身体に不足している栄養を補給するためという名目も大きい。1日に何種類の食品をとらなければ健康は維持できないと言っている。成長するということは、それだけ死に近づくということだ。食えば食うほど死に近づくということだ。成長の終局は死である。
●一生のうちで食べられる分量は決まっているという話がある。それを食い尽くしたらもう死ぬしかないという。それは本当だ。許容量以上を身体がとったときに疲れが生じ、老いが進み、病気となり、ついには死に至る。一生で許容された分量を超えて食べ過ぎたからだ。
食べることを停止すれば、細胞の成長は停止する。ということはガンなどの病気細胞もその進行を停止するということだ。
大災害時にあなたを救う呪文
●それから、不食は不慮の災害に、不測の事態や非常時に強力な武器になる。
地震や津波、この夏は僕の住む新潟県でも大きな水害に見舞われている。死者が10人以上というニュースが流れている。これからかなりの災害が、温暖化や地震などとあいまって予測されている。繰り返されるリアルなテレビの映像は、あなたの潜在意識に恐怖、事故、死傷を刷り込む。悪のニュースも刷り込む。
潜在意識は不安に怯えているということがわかっているか? たとえ災害に見舞われることがないとしても、すでにあなたの潜在意識は災害に見舞われているのだ。それがテレビに隠された力だ。あなたは恐怖と不安を植えつけられている。そのことに気がついていないあなたがいる。微々たる力だが、くり返し植えつけられることによって、無意識のうちに形成された恐怖の力が、あなたを動かしている。
●潜在意識を脅かす災害効果を「不食」は癒す。不食はその恐怖を打ち消す力を持っている。簡単に言えば、「食べなければならない!」という脅しに、「食べなくても平気!」で解消をはかるのだ。
災害に遭遇したときにまず1番目にはケガがあって、次に食糧の問題がくる。だれでもが三度三度の食事がなければ生きていけないと思っているから、災害のショックに加えて、欠食の恐怖にも見舞われる。パニックは相当なものになる。もし地球規模の災害に襲われたならば、どこからも助けは来ない。そんなとき、1つの智恵があると生き延びるのが相当楽になる。それは天から響き来る真言。「人は食べなくても生きられる」という魔法の呪文だ。
災害はいつ襲い来るかわからない。非常食の備蓄も大事だろうが、このひと言を記憶しておくだけで大きな力になる。1週間、10日食べなくても平気なんだと思えば元気が出てくる。通常、食べないと駄目だと思いこんでいるから、その意識は身体にもその指令を送る。身体は駄目になる。だが、大丈夫だということを教え続ければ身体はその教えを忠実に履行する。
過剰な食の現代ではなかなか体験できないことだが、災害時には否応なしに実験ができるのだから、ある意味素晴らしい体験になる。この本を読んで、たった一つ伝えたいことは長い文章ではない。くり返し引用しているひと言だ。「人は食べなくても生きられる」。
これ一つだ。巨大災害時、サバイバル状況に万が一遭遇したときに、この言葉があなたを救う。日本人に、世界の人たちに伝えたいのはたったこのひと言である。僕がインターネットで、1日に20グラムの玄煎粉があれば生きられるという記事を見つけて、何気なく読んだその記事から、ある日不食が誕生した。
そのように、「人は食べなくても生きられる」という言葉が、あるときにあなたに目覚め、あなたを救う。あなたの生活を変え、あなたの人生を変える。今すぐに不食にとりかからなくてもいい。時が満ちていなければそれは育成・開花しない。それでいい。それでもこの意識はあなたという土壌にまかれた。あなたに僕がプレゼントした小さな種子がいつ発芽するか、それは神だけが知る。
秘密を解き明かそう
●さてここで、なぜ神は人間に不食の秘密を隠したのか調べてみよう。
(前出の)ヨギである聖女の答えから2つの理由があるとわかる。彼女の師が公開を望んでいないこと。それは神の計画に触れてはならないとしていることとして、まず1つは、百姓や自然界の楽しみを損なってはならないということ。もう1つは、不幸や飢えや病気は、人生にとって必要なものであるとしている点である。カルマのむちであると表現している。それぞれに納得できる理由である。
ではこの理由を超えて、この今だからこそ、この秘儀の公開が許されるという大胆な更新の理由は何かを答えよう。最初の1つは自然界と生産にかかわる理由である。
●現代は自然界は汚されている。純粋な自然ではなくなり、その恵みは滅びつつある。昔に川や山に生えていた植物は姿を消している。動物もそうで、かなりの種が滅びつつあることが実感としてわかる。
自然界の楽しみを人間は楽しまなくなった。今では子供も大人も、自然を楽しまなくなった。子供たちは自然の恵みを味わわなくなった。自然の恵みをいただくという感謝を忘れた。
これまでの楽しみとして、それは百姓の領分としてあった生産が過剰に膨れあがり、ゆがんでしまった。生産の元である食が狂った。生産をそのままにしておけば、ゆがみはさらにひどくなる。自然は汚されていく。百姓の生産と自然の恵みは変質してしまったのだ。これを放置していたならば、自然界を滅ぼし、百姓を殺してしまうことになる。今ではある意味、百姓でさえ死んでいる。だからこそ不食の公開は許されたのだと。
●もう1つの理由。
「不幸や、飢えや、病気は、私たちに人生の真の意義を探求させる」
びっくりするのだが、僕と同様に、食があるからこそ「不幸や、飢えや、病気がある」ととらえていることだ。はっきりとは言っていないが、行間から読み取れる。
そうなのだ。これまでの人類は学びとして不幸や飢えや病気が必要だった。人生がすべて穏やかで順調であったならば、くり返し人生をやり直す意味はなくなる。時に悲惨な人生、嘆きと孤独の生があったから生命は深くなった。
ヨギは言わなかったが、さらに「死」もその中に含まれる。死も必要な学びの1つだった。
不幸や飢え、病気、死は学びとして必要だっただけである。絶対ではなかった。人間の学びのためにそれらはあった。それ以上の存在理由はない。
それらの存在を許したのは神の愛である。どれほどの悲惨も、飢餓死も、病気の理由も、死という絶望の人間のためにセットされたものだった。人間の栄光のためにのみ悲惨は存在を許された。人間の高貴さと栄光を体現するために、人生のいたるところに巧妙にセットされたものなのである。だがこの今、その呪いとも言える力は消える。
食が人間を超えるときが来て、いま人間は人間を超える。人間に課せられた制約を超越するために、不食は公開されたのだ。
人間卒業演習 ―― 人間のファイナル・トリップ
●日本を救えるのは不食の真実にある。これだけが、荒廃する日本の自然と、その裏面の日本人の心を救える。僕にはこの不食以外にこの日本を救う道は見えない。(中略)
すべての存在の学びのために、気づきが訪れるときまで、地球はベールに包まれつづけて歴史を刻みつづけた。いまその幻想が、白日の下にさらされる。
神に似せて作られた人間が、神と違って食べなければ存在できないという制限を生きるためには幻想が必要だった。食べなければ生きられないという幻想で学びをつづけるという道をそのときに選んだ。食べなければ生きられないと思いこめば、人間は神とは違う一段低い存在なのだと納得することができた。
幻想は昨日までは必要だった。人間の学びのために必要だった。だが時は満ちて、その幻想は使命を解かれる。それが21世紀というときで、それは今日だ。だから幻想は姿を消す。だれもがその正体を見るようになる。つまり、食べなければならないというのは虚妄だったと。神のように、食べなくても存在できるのが人間であったのだと。それが人間の真の力であると。1つの夢から覚める。
●人類は偉大な卒業のときを迎えている。
人類が大いなる進化を遂げる。進化とはさらなる自由の獲得である。
有限という拘束から、無限の広がりに拡大していくことがそれだ。昨日までこうだと思い込んでいたものから、さらに拡大された思い込みに心を開いていくこと。
いま、食べなければならないということが思い込みだと提案された。この提案に人間はどう対応するだろうか。受け入れる者、受け入れない者。受け入れる者は不食を体験し、その体験によって次の思い込みに進むだろう。受け入れない者は、このまま食に制限された人生を継続する。それぞれに望みのままにである。
今はしかし、変化の時代である。進化の時代であり、飛躍の時代である。飛翔の時代はそれぞれの意識を唯一の拠りどころとして飛ぶ。それはだれからも命令されないし、強制されることがない。誘われることもない。それぞれの意識の目覚めにのみ依っている。外部の力で変えるのではない。自分の意志で飛ぶ。
社会を変えようという努力はしない。変えるのはただ1つ、自分の意識だ。敵を想定したければ、たった1つの敵は自分だ。自分の思い込みだ。自分を包囲している制限と拘束こそが唯一の敵だ。
飛翔の時代は、革命の時代ほど喧噪に満ちてはいない。声高に叫ぶこともない。静かに風を受けて飛ぶ。ただ風があればいい。風に乗って舞う、それだけの行為だ。