鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

光明禅寺と光明寺跡(指宿)考②

2023-10-29 13:45:05 | 鹿児島古代史の謎

①では指宿の光明禅寺(所在地南迫田。柳田公民館の奥)に関する故事、特に光明禅寺の前身である「光明寺」という寺院の開山が藤原鎌足の長子である「定恵(じょうゑ)」だったという指宿市史の記述に驚いたことから、実際に訪れてみた感想を記した。

指宿市史はかの薩摩藩幕末の地歴書『三国名勝図会』を引用している。

そこで『三国名勝図会』(熊本青潮社刊、全4巻)に当たって見ると、確かに第2巻の指宿郷の記述の中に「正平山光明寺」という項があり、「開山、定慧和尚、定慧は大織冠鎌足公の子なり。(中略)文武天皇元年三月朔日、当寺を建立し、十一面観音を安置す。」とある。

文武天皇は持統天皇の皇子・軽太子で、西暦697年に持統天皇の「生前譲位」により、天皇となった。

しかしこの光明寺の開基年の697年はそもそも定恵(定慧)が生存しておらず、定恵の開山は有り得ないと前回の①で指摘した。定恵の実家つまり鎌足から始まる藤原氏の「家伝」によれば、定恵は665年に唐から帰朝したその年に死んだことになっているのだ。

実家の「家伝」(系譜)の方を是とするのが順当な見方だろう。

ただこの地方に、いったい何でまた藤原鎌足の長子で唐に仏道を学びに行っていた定恵という人物が建立した寺があると記述されたのだろうか。

火の無いところに煙は立たない――という成句を採用すれば、この九州最南端の地方にそれらしき「火」がチロチロと燃えていたと考えるのもあながち荒唐無稽ということにはなるまい。

私は中臣鎌足に彼の死の直前に「藤原姓」と「大織冠」という臣下最高位の地位を授けた天智天皇その人の死の謎との関連を考えるのである。

天智天皇の死をめぐっては、明確な死の床の描写と年代(没年)と墓所が書かれていないことが以前から不審視されていた。

『水鏡』では天智天皇の死について山科での行方不明説が言われており、行方知れずなら確かに没年も墓所も書かれることはない。

その「行方知れず」後のことがもしかしたら書かれているのが『三国名勝図会』ではないかと、今回つぶさに調べてみた。

『三国名勝図会』は薩摩藩幕末における地歴書(地誌)であり、上梓を命令したのは薩摩藩第27代島津斎興(なりおき)で、それまでにあった地誌『薩藩名勝志』(白尾国柱著)では足りなかった寺院など仏教関係の項目を増加し、天保14年(1843年)に完成した。

薩摩藩の統治領域は鹿児島県の薩摩半島・大隅半島・宮崎県の南部および奄美の島嶼まで広範囲にわたるが、現在手元にある青潮社版では大冊の全4巻が充てられ、薩摩藩108の外城(とじょう)とも言われる諸郷それぞれの地誌や名所・旧跡・社寺・産物などが取り上げられている。

この4巻のほかに別冊1巻の索引が設けられているので、参照の便がすこぶる良いのが特徴である。

さてこの索引によると「天智天皇」という項目は何と65にわたる。鹿児島は古日向の地であり、天孫降臨の「日向三代」(二ニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズ)に割かれる項目が多いのは当然だが、皇孫の一代ではあるにしても天智天皇に割かれた項目の多さには改めて驚かされる。

これを見ただけでも天智天皇と南九州との関係を示す伝承のいかに多いかが推測される。

では青潮社版の『三国名勝図会』全4巻に見える天智天皇の記事の概略を述べて行こう。

 

 <第1巻>(序文から鹿児島城下~水引郷)

この巻では天智天皇の事績記述はなく、すべて天智天皇が祭られている神社が挙げられているだけで、一つ関連があるのは永吉郷の海上にある「久多島神社」の祭神が天智天皇の皇女だということである。

 <第2巻>

指宿郷の地誌があり、件の指宿郷の光明寺跡のことが記されている。

そして天智天皇自身の事績が初めてこの郷で記されるのだが、それは神社の項の最初に出て来る「開聞新宮九社大明神」のちの「指宿神社」の箇所である。

指宿神社が「開聞新宮」と呼ばれるのは、貞観16年(874年)に開聞岳が大噴火を起こし、開聞岳の麓にあった枚聞(開聞)神社が崩壊し、指宿に移転して新しく祭られたからである。

ここには葛城宮という摂社があって「葛城皇子」こと天智天皇が祭られているのだが、これは枚聞(開聞)神社にすでに祭られていたものであり、その経緯は枚聞神社の項に詳しく載せられている。

指宿には天智天皇が漂着したという伝承の地が存在する。

それは「多羅大明神」という神社で、魚見岳という田良浜にそそり立つ山の下にあり、「天智帝御臨幸の時、御船の着きたるところ」という。(※天智天皇がどこから来たかといえば、志布志からなのだがこれについては志布志郷の載る第4巻で詳述する。)

また同じ田良浜に面する魚見岳の崖下に「風穴洞」という洞穴があり、田良浜に着船した天皇がその穴の中で神楽を奏したという。

次に頴娃郷の開聞こそが天智天皇の南九州巡幸の目的地であった。

開聞神社の縁起(設立由来)によると、この開聞の地はホホデミが向かったとされる「竜宮」であったといい、竜宮の主・豊玉姫を祭っている。(※他にホホデミ・天照大神・猿田彦・国常立など)

この地に生まれた大宮姫は「鹿から生まれた神女」(鹿葦津姫=カアシツヒメ)といわれ、宮中に上がったが、「鹿葦津姫」を「鹿足津姫」(鹿の足の姫)と誤解されて里帰りした。しかし天智天皇の哀惜は止まず、ついに会いにやって来ることになった。

都からの旅中のことは不明だが、大隅の志布志湾に上陸し、大隅半島を横断して鹿児島湾を渡り、指宿の田良浜に辿り着いたのは、指宿郷の地誌にある通り。

天皇はしばらく滞在ののち、再び志布志まで戻り、そこから都に帰ることになるのだが、志布志郷を立ち去る際の伝承は切々と胸に迫るものがある。(※第4巻で詳述する。)

 <第3巻>

この巻の中の国分清水郷には、天智天皇の故事として有名な「青葉の笛」を産する台明寺が登場する。

台明寺は「竹林山衆集院台明寺」といい、古来「青葉竹」を産することで知られていた。この竹林をどこで知ったのか、天智天皇がまだ中大兄皇子として母の斉明天皇に従って、百済救援軍を指揮して筑前朝倉宮に逗留の頃、九州巡見の際にここを訪れ、青葉の笛の素材として献上させたという。

皇太子中大兄が九州を巡見したのは決して物見遊山ではなく、諸国から兵士や武器の調達を行っていたのだろう。その途次に竹の名産地として噂に高い当地を訪れたのである。

 <第4巻>

この巻では薩摩藩が統治していた現在の宮崎県(日向国)南部の諸郷が記されているが、当時、現在の大隅半島の志布志市と大崎町は「日向国」に属していた。大崎郷と志布志郷は第4巻でも一番最後に登場する。

さてこの最後の志布志郷での天智天皇の伝承こそが白眉である。(以下③に続く)

 

 

 


光明禅寺と光明寺跡(指宿)考①

2023-10-25 18:01:36 | 鹿児島古代史の謎

指宿は家内の故郷で、墓参りに行くというので一緒に出掛けた。

鹿屋からは垂水フェリーで鹿児島市の鴨池港まで行き、そこからは薩摩半島をほぼ南下する国道226号線を走り、8時40分に出発して着いたのが11時だった。

途中、約50分はフェリーに乗っていたから、90分の運転時間である。よく晴れていて226号線の50キロほどのドライブは景色もよく快適だった。

家内の昔からの墓は当節では当たり前になって来た「墓じまい」を済ませており、某寺院の集合墓地に遺骨などを移し、そこにお参りする形になっている。

お墓のアパートと言うべきか、もしくはお墓の店子と言うべきか、家の中にある仏壇を簡略化した同じ形式の墓がひしめき合う形で並んでいる。

簡略化した仏壇の下は遺骨を入れておく観音開きの「タンス」になっている。

仏壇に線香を焚き、水と故人の好きな物をお供えして手を合わせる。ただし生ものと生花はご法度である。

墓掃除は要らないから、手を合わせる方としては便利この上ない。跡継ぎのいないか、いても都会に出て行って帰ってこないような子供しかいない場合の墓守の一つの形だろう。

寺による「永代供養」なので寺が存続する限りは墓参が可能であるが、子孫の存続と寺の存続とではどちらが末永いかが、このような形式を取る際の判断材料だ。家内の家では二人の娘が他家を選んだので、この形にした。

お寺を辞して車は指宿の元湯に向かったが、南指宿中学校に近い柳田というところにある「光明禅寺」を訪ねてみたくて車を柳田信号で右折させた。

光明禅寺本堂の内。野口良雄師に本堂内部を拝見ささせていただいた。

最初期の本尊は十一面観音だが、鎌倉期に阿弥陀如来が加わった。

左手上の逗子の中には明治2年の廃仏毀釈の法難にあった際に打ち捨てられそうになったのを辛くも隠しおおせ、今に至るまで木造寄木造りの素晴らしく優美な鎌倉造形を余すところなく伝えている阿弥陀仏の立像がある。

惜しげもなく見せていただいたのには大感激であった。

さて正平山光明禅寺は鹿児島県でも一つか二つかしかない曹洞宗の禅寺であるが、『指宿市史』によるとこの寺の前身は「光明寺」といい、光明禅寺への道をさらに山手に200mほど上がった場所にあったという。

当時の宗派は「法相宗」で、開山は何とあの藤原鎌足の長子である「定慧(じょうゑ)」(定恵)だというのだ。

定恵は鎌足の庶長子だったらしいが、それでも当時最高の権力者であった藤原鎌足(614~669年)の子であれば官位に付けば相当な出世を果たしたであろうに、なぜか仏門に入り、その上、唐へ留学僧として渡っている。

定恵は在唐12年の長きにわたって仏教を学び、白村江の戦い(663年)で倭国軍が大敗したのちの665年に、唐からの使者・劉徳高の船で故国に還って来た(孝徳天皇紀5年の伊吉博徳書による注)。

※劉徳高は白村江戦役後の唐からの使者としては2番目で、最初の使節団(占領軍を含む)が倭国側と交渉し、当時の敗戦責任者(戦犯天皇)である天智に代わって誰かを即位させるよう促した際に、候補に挙がったのが中国語に堪能な仏教僧・定恵だった――と私は考えている。

さてこの留学僧定恵がなぜ指宿に渡来し、「光明寺」という法相宗の寺院を建立したのか。あるいはできたのだろうか? 

しかも指宿市史が引用する『三国名勝図会』ではその建立年代を文武天皇元年(697年)と特定している。

ところが定恵は697年まで存命しておらず、「孝徳天皇紀3年」の注によれば『藤氏家伝』に定恵は唐から帰朝した同じ年(665年)の内に亡くなったとあるのだ。

665年に死んだ人が697年に寺院を建立するわけはない。だとすると指宿市史が引用する『三国名勝図会』の記述が誤っていたことになる。

そこで私は次のように考えるのだ。

上の※の所で述べたように、唐としては敗戦国倭国の当時の天皇(ただし称制)である天智の天皇位を認めなかった。天智(中大兄皇子)は唐の占領軍によって戦犯として捕らえられそうになったが、うまく逃げおおせた。それが水鏡に書かれている「天智天皇の山科における行方知れず」だと思われる。

逃げおおせた先が、かつて皇太子時代に九州朝倉に「対唐・新羅戦大本営」を置いた際に九州を巡見して足を伸ばして各地を見聞した経験から、人的なつながり、特に水運を掌握していた南九州だったのではないだろうか。

天智天皇と南九州との関係は『三国名勝図会』にはこれでもかというほど描かれている。特に有名なのが志布志市における数々の説話である。

そして薩摩半島でも特に指宿及び開聞岳には天智天皇の遺称地が色濃く残っている。

そのことと天皇が股肱の臣とし、臣下として最高位の「大織冠」を死の間際に授けた藤原鎌足の遺児である定恵との繋がりは、深かったと考えられるのである。

そのことが、このような九州の果ても果ての南隅に、光明寺なる寺院を建立させた理由だったと考えてみたい。(以下②に続く)


定住は九州から始まった!

2022-09-26 21:04:52 | 鹿児島古代史の謎
今年の何月の放送かは分からないのだが、NHKの『歴史探偵』という番組では「縄文時代の定住は1万年以上前から確認できる」という趣旨で放映していた。

それを今日、NHKオンデマンドで視聴したのだが、鹿児島県霧島市上野原遺跡の縄文時代早期の多様な出土品や定住跡については触れられずに終わっていた。

代わりに番組では同じ鹿児島県の種子島にある「三角山遺跡」を紹介していた。

三角山遺跡は上野原遺跡よりさらに古い13000年前の遺跡で、そこからは二基の定住跡が検出され、「隆帯文土器」という縄文時代草創期の指標土器が発掘された。

上野原遺跡が10500年前の定住跡を示しているのは前のブログで紹介したが、この三角山遺跡はそれより2500年も前のもので、そこに定住跡が検出されたのだから、定住はまず種子島で始まったことに異論はない。

ただし、二基の竪穴住居跡の大きさは直径が2mほどの円形で、上野原遺跡のが4mなのに比べると床面積では4分の1でしかない。しかも上野原遺跡では4m×4mの住居跡が全部で52基も発掘されているのだ。

もちろん定住の最初の姿は種子島の三角山遺跡の方にあるので、定住の始まりを告げるのは三角山遺跡だが、上野原遺跡の出土品の多種多様性は群を抜いている。しかし三角山より2500年も後なので、定住の最初期には該当しないと考えられ、取り上げることはなかったのだろう。

ところが南九州の縄文草創期から早期の文化が壊滅したのは、海底火山の噴火によるものだという説明がなされ、その噴火の様子を描いた絵(おそらく上野原縄文の森で放映されているミニシアターからの切り取り)が取り上げられていた。


「海底火山噴火」とタイトルにあるが、これは正式には「鬼界カルデラ噴火」で、薩摩半島から60キロほど南の海上にある薩摩硫黄島を外輪山とする有史以来最大という海中カルデラ噴火である。その瞬間を上野原の縄文早期人が呆然と眺めている映像がこれで、上野原人の定住地は火山灰や火山礫で完全に埋もれてしまった。7300年前のことである。
(※画像が上野原遺跡の定住地跡であることは、4m×4mの独特の竪穴式住居がいくつも立ち並んでいることで分かる。)

せっかくこの映像を紹介したのだから、上野原遺跡にも触れて良さそうなのだが、それはなかったのは返す返すも残念なことである。

思うに上野原遺跡の縄文早期10500年前の大集落はもとより、縄文早期出土土器の「円筒形・平底・薄手・貝殻文」というデザインが余りにも他の縄文土器とは似ても似つかない。また縄文早期の壺がツインで出土したりと、縄文早期時代の常識を覆すことばかりなので、考古学者の手に余るか手を焼くか、そんな塩梅なのだろう。(※オーパーツ的な扱いなのかもしれない。説明のしようがない遺物というわけだ。)

もっともこの放映の今回の眼目は、コクゾウムシであった。コクゾウムシが種子島出土の「隆帯文土器」の胎土に練り込まれていることが分かり、13000年の当時にコクゾウムシがいたというこれまた常識外れの発見があったという。

コクゾウムシは普通はコメを食べる害虫として、弥生時代にコメの生産が盛んになってからの出現と見做されていたから驚きであった。

だが1万年前の遺跡にみられるからと言って、当時コメが作られていたわけではなく、おそらくドングリのようなデンプンの多い堅果類を食害していたのだろうということであった。そのことは同時に人々の定住を示唆しており、九州の数々の遺跡で見られることから、定住は九州で始まったと考えられるという説である。

13000年前の三角山遺跡の土器にコクゾウムシの圧痕があったので、種子島ではその当時に既に人々は定住していたわけで、その点だけを考えれば上野原の定住集落跡についてはあえて言及しないでよいことになる。

何にしても、鬼界カルデラ噴出以前の南九州の先進性は他に類を見ないことは間違いない。

黒海艦隊旗艦の沈没

2022-04-21 23:13:06 | 鹿児島古代史の謎
クリミア半島のある黒海に展開していたロシア海軍の「黒海艦隊」の指揮艦「モスクワ号」が、ウクライナの攻撃によって航行不能になりついに海の藻屑となったという記事に接し、薩英戦争の時にイギリスの旗艦「ユリアラス号」が薩摩藩の砲撃によって大損害を受けたことを思い出した。

文久2年(1862年)8月21日に横浜の生麦村で起きた「生麦事件」により、幕府と薩摩藩に対して損害賠償を要求したイギリスは、幕府からは10万ポンドをせしめたが、薩摩藩は賠償金の支払いがないうえ、殺された英国商人の下手人の処刑をも拒否されたため、ついに軍艦7隻を薩摩藩に差し向け脅そうとしたのであった。

文久3年(1863年)の6月27日に英国艦隊は錦江湾に入り、28日には鹿児島城下の目前に7隻の艦隊を布陣し、賠償の要求を迫った。

7月2日に至ってもなお薩摩藩が要求に応じないため、業を煮やしたイギリス側は、錦江湾奥に錨を下ろしていた薩摩藩有の汽船3隻を拿捕しようとした。

しかし事ここに至ってさすがの薩摩藩も砲撃を開始したのである。

慌てた英国艦隊は逃れようとしたが、旗艦ユリアラス号には砲弾が命中し、艦長および副艦長までもが砲弾の犠牲となってしまった。

しかし数時間後には英国艦隊からアームストロング砲による反撃が開始され、薩摩藩の砲台のほとんどがやられ、あまつさえ城下にも砲弾が飛んで大損害を被る羽目となった。

艦隊の指揮官が乗る旗艦がやられた意味は大きく、英国艦隊7隻は薩摩藩との交渉もせずに錦江湾を後にしたのであった。

薩摩藩側も英国艦隊のアームストロング砲の威力を目の当たりにして「攘夷」を完全に捨て、以後、軍備の近代化にまい進し始め、幕末では幕府をしのぐような近代的な防衛力を充実させるようになった。

(※奇しくもこの年と翌元治元年=1864年に起きた長州の馬関戦争によって敗れた長州藩が、近代的軍備の必要性に目覚めたのと軌を一にしており、この目覚めた二藩が土佐の坂本龍馬のあっせんで同盟関係を結んだことで、三年後に幕府を滅亡に追い込んだのであった。)

さてプーチン(ロシア)は、黒海艦隊の旗艦喪失を自爆のように報道しているが全くのフェイクで、事実、翌日にはその「仕返し」のため、撤退したはずのキエフ(キーウ)近郊を爆撃している。

このような「目には目を」的な仕返しをするようになったら憎しみの連鎖は続く。これによってプーチンの最期は近くなった。最終章の幕は切って落とされたとしか言いようがない。




吾平山上陵の魅力と発信

2022-04-13 14:21:11 | 鹿児島古代史の謎
以下の論考は2021年9月に吾平コミュニティ協議会の求めに応じて書いたものである。

机の上に積み重なった本や書類の下から見つけたので、廃棄しないうちにここに書き残すことにした。

『吾平山上陵の魅力と発信』

(1)古事記・日本書紀の神話から見た日向三代の特質および御陵

吾平山上陵は可愛山陵(えのさんりょう=ニニギノミコト)・高屋山上陵(ホオリノミコト・ホホデミノミコト=山幸)と並んで「神代三山陵」としてよく知られているが、吾平山上陵に眠っているとされるのはウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメノミコトである。

しかし古事記では、ホホデミの最期を「580歳を高千穂宮にいまして、御陵は高千穂の山の西にあり」とやや具体的に書いてはいるが、二ニギとウガヤフキアエズに関しては寿命も御陵も書かれていない。

また日本書紀の方は、二ニギについて「久しくあってニニギノミコトは崩御し、筑紫の日向の可愛之山陵の葬った」とあり、またホホデミについて「久しくあってホホデミノミコトは崩御し、日向の高屋山上陵に葬った」と、御陵については具体的である。

そしてウガヤフキアエズについては「久しくあってウガヤフキアエズノミコトは西洲の宮で崩御し、日向の吾平山上陵に葬った」と書く。

古事記は「皇孫の日向三代」と言いながら、二代目のホホデミの御陵しか記していないので、神代三山陵を取り上げる際には日本書紀の方を参照するほかない。

ただ、古事記にだけ書かれているホホデミノミコトの寿命が580年であったという点について、これは当然一人の寿命では有り得ず、私はホホデミ時代が何代も続いていた、つまりホホデミ王朝の存在を考えている。

さらに「参照すべき」と言った日本書紀の上記下線の部分「久しくあって」という共通の表現を見た時、二ニギもウガヤフキアエズもホホデミと同じように「数百歳、〇〇宮にましまして、御陵は・・・」と補うべきだと考えている。つまり二ニギ王朝、ウガヤ王朝の存在を想定するのである。

その各王朝の継続年代については、ホホデミ王朝の580年しか確実なことは言えないのだが、少なくとも南九州(古日向)において、500年とか1000年とかの単位で存在したと考えたい。

ウガヤ王朝最後の王(第〇代ウガヤ王)が崩御された時に営まれたのが、現在残されている吾平山上陵(旧鵜戸山陵=明治7年に内務省が治定した)であると考えるのである。

(2)神代三山陵の中で、吾平山上陵の特徴とは

「鵜戸」とは「洞窟」のことで、神代三山陵のうち可愛山陵も高屋山上陵も「山上陵」であるのに対し、極めて異質な御陵である。

この洞窟陵がどうして御陵となったかについてはよく疑問とされるところで、私は次のように考えている。

一般的に言って、貴人が亡くなると「お隠れになった」という場合がある。

「お隠れになる」とはこの世から隠れる、つまり「あの世」に行ってしまうことだが、「お隠れになる」という表現は実は「今は隠れただけ。また戻って来る」というニュアンスを含んでいる。その典型が「天岩窟(あめのいわや)隠れ神話」だろう。

アマテラス大神が弟のスサノヲノミコトの乱暴狼藉に耐えかねて「岩窟」に籠ってしまい、世の中が真っ暗闇になるという話である。

この時に、岩窟の外に集まった神々のうちアメノウズメノミコトが、面白おかしくストリップまがいの所作をして踊り、それを見た神々は喝采し大声で笑った。そのどよめきが聞こえて来たので隠れていたアマテラス大神は「どうしたことか」と岩窟の戸をそっと開けて外を覗いた。

そこを見逃さず、タヂカラヲノミコトが岩戸に手を入れ、明けはなってアマテラス大神を中から引っ張り出し、世の中に明るさが戻った。そしてさんざん悪行を働いたスサノヲは追放された。

以上が「天岩窟隠れ神話」だが、これと同じような危機的な状況が南九州(古日向)に発生し、ウガヤ王朝最後の第○○代ウガヤ王は通常の山陵、つまり円墳のように地上に盛り上げた形の御陵を営めなくなり、このような洞窟陵になったのではないか?

(※ただ「山上陵」という表記については、幕末の国学者・後醍院真柱が書いているように、洞窟陵だが村里から離れた山中深い場所にあるので、「山上陵」と称して差し支えないだろう。)

ウガヤ王の吾平の御陵が洞窟陵になった「危機的な状況」が具体的に何であったのかは推測でしかないが、おそらく南九州特有の火山の大噴火もしくは巨大な南海トラフ型地震の類ではないだろうか。

あるいは今まさに世界を覆っている新型ウイルスによる疫病の流行によるものかもしれない。洞窟御陵の前面に清流を巡らすというこの上ない構成は、ウイルスによる伝染を遮断することを狙ったようにも見える。

(追記※…そしてこの危機的状況が南九州からの移住的東征(東遷)を促したと考えている。その主体は南九州に存在した「投馬(つま)国」であり、その引率者の名は「タギシミミ」だったというのが、私論である。)

(3)吾平山上陵の自然環境

吾平山上陵がある吾平町の姶良川上流のうつくしさ、自然環境の素晴らしさは、他の山陵を寄せ付けない。

吾平山上陵のたたずまいは、洞窟部分を「神殿」になぞらえれば、よく言われるように「小伊勢」と呼ぶにふさわしい。姶良川の清流は伊勢神宮の脇を流れる五十鈴川に匹敵するかそれ以上である。

(4)ウガヤフキアエズノミコトの事績

これについてはミコト自身がどうこうしたという記録はないのであるが、興味深いのがその生まれ方と育てられ方である。

ミコトは海神の娘であるトヨタマヒメから生まれたとされるのだが、母トヨタマヒメは海辺(渚)に生まれたばかりのミコトを置き去りにして海に帰ってしまう。

古事記ではトヨタマヒメの本性を「八尋ワニ」とし、日本書紀では「竜」とするが、「ワニ」は沖縄でいう「サバニ」(小舟)の「バニ」で船のこと。また「竜」はドラゴンボート、つまりこちらも船のことなのだ。要するにトヨタマヒメは海宮(海の向こう)から船に乗って渚に渡来し、船に乗って帰ったのだ。

また母は妹のタマヨリヒメ(トヨタマニ寄り添うヒメ)を地上に送ってミコトの養育をさせるのだが、未婚のタマヨリヒメは乳が出ないので困っていると、「飴屋敷」に住む老婆が乳に代わる「飴」を作ってくれ、また作り方を教えてくれて養育することができた。

この「飴」についてはキャンディーに近い固い飴と思われがちだが、実は液体状の飴も存在する。例えば麦の麦芽から作られる「麦芽糖」がある。米からは米麴を利用してつくる「もろみ」なども発行する直前に火を入れれば、アルコール発酵が抑えられて「健康飲料」になる。

アフリカのエチオピアに住むある部族では「パルショータ」という名のキビ製の「白酒」に近いものを作り、幼児から大人まで飲むのだが、栄養満点だそうである。

「飴屋敷」の老婆が作ってくれたのはこの「飲む飴」のことで、立派に乳代わりとなる。けっして宮崎県日南市の鵜戸神宮で頒布される固い「お乳飴」の類ではない。

さてウガヤノミコト自身の事績としては、養育者であった叔母に当たるタマヨリヒメと結婚して次の4人の皇子たちを産み育てたことだ。

その4人とは、彦イツセ・イナヒ・ミケイリノ・カムヤマトイワレヒコの4人だが、このうち彦イツセとカムヤマトイワレヒコの二人はカムヤマトイワレヒコの息子のタギシミミを伴って南九州から瀬戸内海を経て大和へ「東征」した。

※ただし、私見ではこの「東征」は上の(2)で指摘したように、当時南九州で突発した「危機的状況」に瀕したため、やむなく行われた「移住的な東遷」と考えている。

(5)魅力の発信が不可欠

以上が吾平山上陵を巡る「あるある」だが、これを踏まえて地域興しをするには「するする」(発信・行動)が最重要である。

私見だが、(2)からは「山陵祭」「岩戸明けまつり」というような祭事が考えられる。

「洞窟にお隠れになっているウガヤ王の復活」と「タマヨリヒメの優しさの発現」により、明るく平和な世が続くことを願う、という趣旨で行ったらどうか。(※「山陵太鼓」と下名の宮毘神社で行われていたアメノウズメの神舞を奉納する。)

かつて鵜戸神社がまだ吾平山上陵の川向かいに鎮座していた時代に、どんな祭りが奉納されていたかが参考になろう。

また、現在の鵜戸神社から祭神のウガヤ王とタマヨリヒメを乗せた山車を牽いて、故地である山陵まで行列をするという行事があってもよい。

(3)については、ドローンを使って姶良川中流から山陵に至り、さらに自然公園と姶良川源流部の滝を撮影し、それをSNSで発信することが考えられる。定期的に飛ばして吾平の自然環境と歴史の魅力を発信し続けることが肝要である。

(4)からは、液体状の「飴」を実際に作り、もろみ飲料「お乳飴」(仮称)として発売する。健康飲料として保育園・幼稚園・老健施設などに薦めたい。そのほかにも山陵ゆかりの土産品の開発が必要となる。

また、関西・関東吾平会などに呼びかけ、関西や関東からの吾平山上陵巡りツアーなるものを検討できよう。―南九州から「東征」して橿原に最初の王朝を築いた神武天皇のふるさと。神武天皇のお父さんお母さんの眠る御陵―というようなキャッチフレーズでツアー客を誘致できないだろうか。