①では指宿の光明禅寺(所在地南迫田。柳田公民館の奥)に関する故事、特に光明禅寺の前身である「光明寺」という寺院の開山が藤原鎌足の長子である「定恵(じょうゑ)」だったという指宿市史の記述に驚いたことから、実際に訪れてみた感想を記した。
指宿市史はかの薩摩藩幕末の地歴書『三国名勝図会』を引用している。
そこで『三国名勝図会』(熊本青潮社刊、全4巻)に当たって見ると、確かに第2巻の指宿郷の記述の中に「正平山光明寺」という項があり、「開山、定慧和尚、定慧は大織冠鎌足公の子なり。(中略)文武天皇元年三月朔日、当寺を建立し、十一面観音を安置す。」とある。
文武天皇は持統天皇の皇子・軽太子で、西暦697年に持統天皇の「生前譲位」により、天皇となった。
しかしこの光明寺の開基年の697年はそもそも定恵(定慧)が生存しておらず、定恵の開山は有り得ないと前回の①で指摘した。定恵の実家つまり鎌足から始まる藤原氏の「家伝」によれば、定恵は665年に唐から帰朝したその年に死んだことになっているのだ。
実家の「家伝」(系譜)の方を是とするのが順当な見方だろう。
ただこの地方に、いったい何でまた藤原鎌足の長子で唐に仏道を学びに行っていた定恵という人物が建立した寺があると記述されたのだろうか。
火の無いところに煙は立たない――という成句を採用すれば、この九州最南端の地方にそれらしき「火」がチロチロと燃えていたと考えるのもあながち荒唐無稽ということにはなるまい。
私は中臣鎌足に彼の死の直前に「藤原姓」と「大織冠」という臣下最高位の地位を授けた天智天皇その人の死の謎との関連を考えるのである。
天智天皇の死をめぐっては、明確な死の床の描写と年代(没年)と墓所が書かれていないことが以前から不審視されていた。
『水鏡』では天智天皇の死について山科での行方不明説が言われており、行方知れずなら確かに没年も墓所も書かれることはない。
その「行方知れず」後のことがもしかしたら書かれているのが『三国名勝図会』ではないかと、今回つぶさに調べてみた。
『三国名勝図会』は薩摩藩幕末における地歴書(地誌)であり、上梓を命令したのは薩摩藩第27代島津斎興(なりおき)で、それまでにあった地誌『薩藩名勝志』(白尾国柱著)では足りなかった寺院など仏教関係の項目を増加し、天保14年(1843年)に完成した。
薩摩藩の統治領域は鹿児島県の薩摩半島・大隅半島・宮崎県の南部および奄美の島嶼まで広範囲にわたるが、現在手元にある青潮社版では大冊の全4巻が充てられ、薩摩藩108の外城(とじょう)とも言われる諸郷それぞれの地誌や名所・旧跡・社寺・産物などが取り上げられている。
この4巻のほかに別冊1巻の索引が設けられているので、参照の便がすこぶる良いのが特徴である。
さてこの索引によると「天智天皇」という項目は何と65にわたる。鹿児島は古日向の地であり、天孫降臨の「日向三代」(二ニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズ)に割かれる項目が多いのは当然だが、皇孫の一代ではあるにしても天智天皇に割かれた項目の多さには改めて驚かされる。
これを見ただけでも天智天皇と南九州との関係を示す伝承のいかに多いかが推測される。
では青潮社版の『三国名勝図会』全4巻に見える天智天皇の記事の概略を述べて行こう。
<第1巻>(序文から鹿児島城下~水引郷)
この巻では天智天皇の事績記述はなく、すべて天智天皇が祭られている神社が挙げられているだけで、一つ関連があるのは永吉郷の海上にある「久多島神社」の祭神が天智天皇の皇女だということである。
<第2巻>
指宿郷の地誌があり、件の指宿郷の光明寺跡のことが記されている。
そして天智天皇自身の事績が初めてこの郷で記されるのだが、それは神社の項の最初に出て来る「開聞新宮九社大明神」のちの「指宿神社」の箇所である。
指宿神社が「開聞新宮」と呼ばれるのは、貞観16年(874年)に開聞岳が大噴火を起こし、開聞岳の麓にあった枚聞(開聞)神社が崩壊し、指宿に移転して新しく祭られたからである。
ここには葛城宮という摂社があって「葛城皇子」こと天智天皇が祭られているのだが、これは枚聞(開聞)神社にすでに祭られていたものであり、その経緯は枚聞神社の項に詳しく載せられている。
指宿には天智天皇が漂着したという伝承の地が存在する。
それは「多羅大明神」という神社で、魚見岳という田良浜にそそり立つ山の下にあり、「天智帝御臨幸の時、御船の着きたるところ」という。(※天智天皇がどこから来たかといえば、志布志からなのだがこれについては志布志郷の載る第4巻で詳述する。)
また同じ田良浜に面する魚見岳の崖下に「風穴洞」という洞穴があり、田良浜に着船した天皇がその穴の中で神楽を奏したという。
次に頴娃郷の開聞こそが天智天皇の南九州巡幸の目的地であった。
開聞神社の縁起(設立由来)によると、この開聞の地はホホデミが向かったとされる「竜宮」であったといい、竜宮の主・豊玉姫を祭っている。(※他にホホデミ・天照大神・猿田彦・国常立など)
この地に生まれた大宮姫は「鹿から生まれた神女」(鹿葦津姫=カアシツヒメ)といわれ、宮中に上がったが、「鹿葦津姫」を「鹿足津姫」(鹿の足の姫)と誤解されて里帰りした。しかし天智天皇の哀惜は止まず、ついに会いにやって来ることになった。
都からの旅中のことは不明だが、大隅の志布志湾に上陸し、大隅半島を横断して鹿児島湾を渡り、指宿の田良浜に辿り着いたのは、指宿郷の地誌にある通り。
天皇はしばらく滞在ののち、再び志布志まで戻り、そこから都に帰ることになるのだが、志布志郷を立ち去る際の伝承は切々と胸に迫るものがある。(※第4巻で詳述する。)
<第3巻>
この巻の中の国分清水郷には、天智天皇の故事として有名な「青葉の笛」を産する台明寺が登場する。
台明寺は「竹林山衆集院台明寺」といい、古来「青葉竹」を産することで知られていた。この竹林をどこで知ったのか、天智天皇がまだ中大兄皇子として母の斉明天皇に従って、百済救援軍を指揮して筑前朝倉宮に逗留の頃、九州巡見の際にここを訪れ、青葉の笛の素材として献上させたという。
皇太子中大兄が九州を巡見したのは決して物見遊山ではなく、諸国から兵士や武器の調達を行っていたのだろう。その途次に竹の名産地として噂に高い当地を訪れたのである。
<第4巻>
この巻では薩摩藩が統治していた現在の宮崎県(日向国)南部の諸郷が記されているが、当時、現在の大隅半島の志布志市と大崎町は「日向国」に属していた。大崎郷と志布志郷は第4巻でも一番最後に登場する。
さてこの最後の志布志郷での天智天皇の伝承こそが白眉である。(以下③に続く)