昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第三章:1970~73年 石ころと流れ星  57

2012年03月09日 | 日記

しかし、暑い。頬が火照り、額から流れる汗が眉を濡らしている。胸と背中に粘りつくシャツを剥ぎ取るように脱ぎ去りたい。熱いチキンラーメンのせいだけとは思えない。

「あ!ごめんなさ~い!」

ココナッツサブレと思しきものを左脇に、リンゴを左手にして台所から帰ってきた奈緒子が叫んだ。その首には赤いタオルが巻かれている。

「窓開けてなかった~。暑いわけよね」

言われて振り向くと、確かに窓は閉まっているようだ。全面ガラスで見通しがいいので気付きにくいのは確かだが……。

「わ!すごい汗じゃないですか。拭きます?」

窓を開け放ちに行った帰りに僕の背中を見て、奈緒子がシャツの背中をつまむ。思わず少し身をよけながら、僕は「すぐ乾くから大丈夫」と煙草に手を伸ばす。何かが急に頭の片隅に引っ掻かっていた。

マッチを擦りながら横目で奈緒子を追う。彼女は「ふ~~」と息を吐きながら僕の真向かいに座り、リンゴを右手に持ち替えて卓袱台の中央に置いた。

その動作に突然、頭の片隅の引っ掛かりが抜け落ちる。僕は、火が点いたばかりの煙草を灰皿に置いて、身を乗り出した。

「やっぱり!やっぱり一度、高校の時、話ししたことあるんや~。今、思い出した」

「やっと思い出してくれたんだ。“白鳥”で私がそう言った時は、すぐに否定されたんですよ~」

「いや、ごめん、ごめん!2年で女の子は変わるから……」

言い訳をしながら、奈緒子の三つの姿を思い出し、思い描く。

 

一つ目は、思い出したばかりの高校1年生の奈緒子。テニス部の新人だった。秋の校庭の片隅で、校舎にもたれかかりながら同級生の進学の悩みを聞いている時、視界の片隅にテニスボールが転がり込んできた。話を中断し拾い上げると、目の前にショートパンツ姿の奈緒子がいた。左脇にラケットを挟み、左手にボールを一個持っている。右手には、通学鞄とピンクの布袋。首には赤いタオルがぶら下がっている。

テニスボールを差し出しながら「持てる?」と笑うと「どうも~」と奈緒子が軽く頭を下げ、その拍子に、ラケットが左脇からするりと落ちた。「あ!」と、ラケットを拾い上げようとしゃがんだものの、左手にはボールがある。やむなく右手の荷物を降ろし、再挑戦しようとしいたが、今度はタオルが顔に覆いかぶさってきた。

右手を差し出したままその一連の行動を見ていた僕は、思わず吹き出しながら同級生の方を見た。彼も笑い顔ではあるが、その目は一点を見つめている。目線を追うと、しゃがんだ奈緒子のショートパンツから少し出ている白い太腿があった。日焼けした部分とのコントラストがやけに目に沁みる。

と、「俺、ちょっとトイレ行ってくる」と同級生が消えた。

なんとか元の体勢を持ち直した奈緒子の左手に、そっとテニスボールを乗せる。間近にした奈緒子の顔は浅黒く、細めの二重の目と歯が白く笑っていた。

「大丈夫かな?ずっとその状態で家まで帰る気?」とからかうように言うと、笑っていた口が少し尖がった。「自転車置き場まで、です。大丈夫です、慣れてますから」と言って足早に過ぎ去ろうとして、立ち止まった。振り向き「ありがとうございました」と頭を下げようとしたが、同じ失敗を繰り返すまいと、左脇に力を入れているのがよくわかった。それがまたおかしく、僕は声を上げて笑った。最初は、そんな少しの接点だったのだ。その時のことがなかなか思い出せなかったのは、僕の記憶の中に残った奈緒子が、目と歯と、そして白い太腿だけだったからだった。

二つ目は、喫茶店“白鳥”で、僕の前の席にするりと座った奈緒子だった。白の長袖ポロにチルデンのベストを着た姿は、いかにも大学生へと羽ばたいていく田舎の女子高校生を思わせた。いきなり名前を呼ばれて驚いたせいもあったが、顔の印象の変化に奈緒子だとわからなかったのも確かだった。

彼女は、僕が彼女の同級生と付き合っていると思い込んでいたらしく、僕が一人でコーヒーを啜り煙草を吸っている姿を訝しく思ったようだったが、そのうちにそれが単なる噂に過ぎなかったことを理解してくれたようだった。そして、不思議と楽しい時間を過ごすことになり、ついには京都駅で待ち合わせる約束まですることになったのだった。

そして三つ目は、その約束通り、京都駅で特急“松風”から降り立った時の奈緒子だった。“白鳥”で会ってからわずか2週間だというのに、僕にわかりやすいように同じ洋服に身を包んでいたというのに、その姿は颯爽として、一段と大人になったように見えた。

京都駅を出て四条河原町まで市電で行き、阪急百貨店の中を一巡りして喫茶店に入った。ほの暗い店内で改めて向き合うと、奈緒子の目鼻立ちがくっきりとしていることに、小さな驚きを覚えた。初めて見かけた時には浅黒かった顔がうっすらと白くなり、元々の顔立ちのよさを露わにしたのだろう。

気取られないようにしながら顔を眺めていると、奈緒子は、ずっと持ち歩いていた紙袋から「これ、着る?住み込みで働くって言ってたから、こんなものがいいかと思って」と、スポーツ店の袋を取り出した。それが、ベースボールシャツだった。

「野球少年みたい」と言いながら広げると、中から封筒がぽとりと落ちた。奈緒子からの手紙だった。封を開けようとすると、その手を上から押さえ、「後からゆっくり読んでね」と言った。その物言いと仕草に、後輩の女の子の匂いはなかった。

約1時間喫茶店で過ごした後、僕が京都駅まで送ろうとするのを制して、「その代わり、東京まで遊びに来てください。ね、今年中にね」と言い残し、奈緒子は市電に消えていった。

 

それ以来だ。わずか4回目だった。たった4回目で、僕たちは同じ部屋で、同じように汗を掻き、同じものを食べ、向かい合っているのだ。

「暑いわね~~。ぼ~っとしてない?それとも、眠い?」

奈緒子の声に、半覚醒状態だったかのように、僕はぴくりと顔を上げる。

「涼しくはないけど……。疲れてるわけでもないし……。眠いわけじゃないよ」

言葉遣いが彼女の言い方に寄り添うように、東京弁っぽくなっていることに気付く。なんとも、流されやすい男だと思う。これからの時間が、また急激に重くなってくる。

つづきをお楽しみに~~。    Kakky(柿本)

第一章“親父への旅”を最初から読んでみたい方は、コチラへ。

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第二章“とっちゃんの宵山” を最初から読んでみたい方は、コチラへ。

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第三章“石ころと流れ星” を最初から読んでみたい方は、コチラへ。

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