昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

とっちゃんの宵山 ⑪

2016年09月20日 | 日記

そんな僕たちの心配をよそに、とっちゃんはふらりとその夜、僕の下宿にやってきた。

部屋の壁に立てかけたコタツの脚に紐を張り、雨に濡れたシャツとジーンズを掛けた時だった。

「グリグリ~~~~」

大きな声が道路から聞こえてきた。僕は飛び上がった。窓を開けると、自転車にまたがったとっちゃんだった。

「グリグリ、ここやったんや~~」

雨に目をしばたたかせながら見上げる顔がにんまりと笑う。僕は階段を駆け下りる。早く自分の部屋に隔離しなくてはならない。

「なんでわかったんや?」

ゴム草履で飛び出す。雨の中でとっちゃんは、タバコを咥えようとする。

「濡れる、濡れる。早う入り!」

僕の自転車の横に自転車を止めさせ、背中を押す。

「ようわかった思わへんか~~?」

声が下宿の玄関に響く。背中を押す手に力が篭る。突き飛ばすように部屋に押し込む。

「狭い部屋やの~~~」

よろけて布団の上にペタリと座り込むと、とっちゃんは、部屋をねめまわすように首を巡らす。部屋の中が重い湿気で満たされていく。

「紅茶飲むか?」

気を取り直し、開いたままだった日記をココナッツサブレに被せ、電気ポットを持ち上げる。

「紅茶飲む?」

と聞くと、

「ええわ」

あっさりと断わられる。

とっちゃんを降ろした布団を畳み、灰皿を真ん中に、向かい合わせに座る。

とっちゃんが手にしていたタバコに火を点けようとするが、雨に濡れていてなかなか点かない。

「どしたん?」

僕のタバコを一本差し出し尋ねる。

「銭湯行った帰りにな、ちょっと行ってみよう思うてな」

「帰り言うても‥‥」

「そうや。方向反対なんやけどな」

「しかも雨やないか。せっかく銭湯入ったのに……」

「まだ頭乾いてへんかったからちょうどええ思うてな」

「ちょうどねえ」

やや理解し難いが、銭湯帰りにふと思い立って来たらしい。

「僕の部屋‥‥」

「よう知っとったなあ思うてるんやろう?」

とっちゃんは、人差し指と中指の間深く挟んだタバコを、音高く引き抜く。タバコの火が鼻先に届きそうだ。

「なんで知ってんの?」

僕は、尻を少し後ろにずらす。とっちゃんは前屈みになる。顔が迫ってくる。今朝の不機嫌はもうない。

「グリグリの後付いてったんや」

「え!?いつ?」

と聞いた直後、想像が付いた。5月5日、販売所から出てきたとっちゃんを見かけた時に違いない。下宿へ帰る僕を、とっちゃんはそっと僕の後を追ったのだろう。新聞配達を通じて土地勘が磨かれているとっちゃんのことだ。僕の下宿の所在地は、その時すっかり刷り込まれたに違いない。

「で、何でまた今日急に‥‥」

とっちゃんが僕の元へ突然やってくることにした理由は、まったく想像が付かない。

「それや、それやがな」

とっちゃんの目が光る。タバコを灰皿に揉み消し、両膝に両肘を乗せ下から見上げる。

「おっさんが言うてたんやけどな」

とっちゃんの声が小さく低い。

僕はその瞬間、とっちゃんの秘密を知る。おっさんは、とっちゃんが通う銭湯の知り合いに違いない。今聞いたばかりの話を抱えてやってきたのだ。忘れる前に話しておきたい、これはグリグリにすべき話だ、ということなのか。

「わしら、サクシュされてるんやで。サクシュされるいうのんは、ええことちゃうんやで。ず~~っとしんどい思いせんならんのやで。どう思う?」

サクシュは搾取に違いない。とっちゃんは一体おっさんに何を聞かされ、吹き込まれたというのだろう。

「しんどい思いしてへんけどなあ」

「やっぱりな。そういうもんらしいで、サクシュいうもんは。わからんようになってるらしいで。グリグリ、知らへんかったんやもんな。よかったやろう、わしが来て」

とっちゃんは、ゆっくりと次のタバコに火を点ける。いかにも満足げだ。

「グリグリも、まだまだやなあ」

天井に煙を吹き上げたかと思うと、また僕を見上げる体勢に戻った。その顔は明らかに自信に満ちている。

それからは矢継ぎ早だった。ほとんど口ごもることもなかった。

「キバ抜かれんようにせんとあかんねやで。わかってるか、グリグリ~?」

「ジリツせんとあかんねんで。グリグリも」

「欲張ったらあかんのやで。欲いうもんはなあ、な~んもいいことないんやで」

「なんでもええ。好きなもの見つけんとあかんねや、わしら。そやなかったら、なんも始まらへんからな」

「集めて捨てられるやろ?ゴミいうもんは。捨てられるの嫌やったら、ゴミにならんこっちゃ」

「グリグリ、酒はあかんで。大丈夫や思うてるうちに、やられるさかいな」

パラパラとしてつながりのないように思える言葉の一つひとつから、おっさんの人生観と今が透けて見える。

そんなおっさんの言葉を頭に詰め込んで、わざわざやってきたとっちゃんは、僕のことを教え導かねばならない存在だとでも思っているのだろうか。それとも、とっちゃん自身の心にあまりにも強く響いたからだろうか。

時々飛んでくる唾液に耐え切れず、僕は立ち上がる。

「水汲んでくる」

そう言って立ち上がり、電気ポットを手に取る。急に忌々しさが込み上げてくる。襖を勢いよく閉め、階段をゆっくりと下りる。

炊事場では、おばあさんが夕飯の米を研いでいる。土間を挟んだ居間では、宮大工だったというおじいさんが寝転び、テレビを見ている。

通り庭の奥にある洗濯場で、水道の蛇口をひねる。電気ポットから水が溢れ出る。その様をわずかの間見つめる。とっちゃんを一人部屋に置いておいたことが突然悔やまれる。急いでおばあさんの後ろをすり抜け二階に上がる。階段の、とっちゃんの濡れた足跡が気になった。

「グリグリ、机あるんやなあ」

襖を開けると、とっちゃんが首を伸ばし机の上を覗いている。動きが、いかにも怪しい。

「とっちゃん、机ないの?」

「そんなもん、あるわけないやないか」

「勉強せえへんからやろう?」

「机あったらするがな」

後ろに隠していたらしいものが目に入る。僕の日記だ。嫌な予感は当たった。しかし、不在の時間は短い。読まれたとしてもごくわずかだろう。

「おばはん怒るし、帰るわ~~」

電気ポットの電源を入れると、とっちゃんは突然立ち上がる。

「紅茶は?」

「ええわ」

と、あっけなく帰っていく。

窓からとっちゃんの自転車が路地を曲がって行くのを見届け、僕は急いで日記を開く。とっちゃんが読んだと思われる箇所に、タバコの灰が挟まっている。数日前啓子への手紙を下書きした部分だ。穢されたような気がする。窓から日記を出し、何度もはたいた。

紅茶を淹れ、久しぶりに机に着く。とっちゃんが読んだと思われる箇所を読み始める。が、空虚で独りよがりな言葉の羅列に、読み続けることができない。顔が赤くなっていくのを感じる。とっちゃんに恥部を覗かれた気分だ。

紅茶を一口含んで、しかし、僕はふと気付いた。実は僕は、啓子に対し恥部を晒し、押し付け、一人悦に入っていたんじゃないか。まるで自慰行為をするように……。

日記を閉じ、布団の上に戻る。とっちゃんが残したぬくもりを避け、胡坐を掻く。改めて日記を開く。冒頭の“自立なくして自律なし!”という言葉の部分を引きちぎる。“自律なくして自立なし!”と書き直す。そして、“恋もなし!”と書き加えた。

 

その夜、僕は100円定食に卵を追加した。

「新聞配達始めたんやてねえ」

食堂のお姉さんが声を掛けてくれる。何度か梅干をサービスしてくれたお姉さんだ。

「これからは雨ばっかりやし、大変やねえ」

追加した卵とサービスの梅干の、小鉢二つが前に置かれる。

「いつもすいません」

頭を下げ、彼女の目の前で梅干を頬張る。いつもより酸っぱい。顔をしかめ、もごもごと種を口先に押し出していると、お姉さんがお茶を持ってきてくれる。

「梅干変えたんやけど、酸っぱかった?」

「いえ、大丈夫です」

掌にやっと種を出しお姉さんの笑顔に答えると、お姉さんは少し真顔になった。

「疲れた時が頑張り時やからね」

隣のテーブルの急須を移してくれる。

「大丈夫です」

酸っぱい口のまま答える。

「そう?そやったらええけど。えらい顔して入ってきたからねえ」

「そうですか?」

「そう。そやから、酸っぱい思いさせたろう思うてね」

「え?!」

「“特酸っぱ”の梅干やったんよ。目え覚めたやろう」

お姉さんは笑って店の奥に消えていく。エプロンの結び目が、いつものように縦になっていた。

下宿に戻り、布団を裏返す。日記を引き寄せ、啓子への手紙の下書きを千切り捨てる。僕にはまだ恋文を書く資格はない。

         Kakky(志波郁)        


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