「汗で気持ち悪いでしょ。うちにお風呂があればいいんだけど、ねえ。風呂付って家賃高いから…」
奈緒子がタオルを手渡しながら、溜息をつく。秋を迎えているとはいえ厳しい残暑の中、丸四日も風呂に入っていない。豪徳寺のアパートで身体を拭いた程度では、いくら体臭がない方だとはいえ、もう限界を迎えつつある。
「銭湯に行ってるの?」
「うん。……行く?」
言われて時計を見ると、午後4時半になろうとしている。
「帰ってきてから、晩ご飯にしようか。何か買って帰ろうね」
まるで約束されていたことかのようにさりげなく、奈緒子は言う。が、その目は、僕の意志と想いを見極めようとしているかのように鋭く、僕を見据えている。
「そうする?…………そうしよう!」
煙草に伸ばした躊躇の手を止め、僕は立ち上がった。あれこれ思いを巡らすのは止めよう!踏み出すんだ!年下の女の子の決意に、僕は何も応えていないではないか!
「よし!銭湯に行こう!」
明るい声を張り上げてみると、ふと心が軽くなった。
「うん、行こう、行こう!」
奈緒子の声も弾んでいる。そそくさと台所に向かう後姿を見ながら、僕は微笑む。人の喜ぶ後姿はいいもんだなあ、と思う。
考えているだけでは重くなっていく未来の時間は、こんな些細なことから切り開かれ、軽やかになっていくんだ、と思った。夏美さんと小杉さんの間にも、きっとそんな瞬間があったたんだろうなあ、と思った。軽やかに一緒にいることができれば、それから二人で時間を積み上げていくことだってできるはずだし……。
「行こ!」
土間から奈緒子の影が呼び掛ける。
「行こうか!」
まるで初めての旅に出かけるように、僕たちはそれぞれ洗面器を小脇に腕を組み銭湯に向かった。
時間を決めて銭湯の前で待ち合わせた。少し遅めに出ると、奈緒子が先に出て待っていた。横向きの肩には赤いタオルが掛けられていた。濡れた髪が夕日に光っていた。
「わ!顔が白くなった~~」
僕を見て笑う顔も艶やかに光っていた。顔に汗が噴き出し始めていたが、爽やかだった。
「何食べる?」
奈緒子が前を行きながら、斜めに振り向く。上気した顔が晴れやかだった。
「なんでもいいよ~~」
と近づくと、シャンプーの香りがした。僕と同じ香りだった。家族のようで照れくさく、奈緒子との距離を少し開いた。
「姉貴のシャンプー、私のと同じなんだけど、気にならなかった?匂い。男ものじゃないからね」
「大丈夫。好きだよ、この香り」
そう言って頭に手をやり、半年以上も伸びたままの髪に指を入れる。扇風機でやや冷たくなった頭皮に触れる。大学入学以降の数々の刺激に強ばっていた頭も、すっかり緩んだような気がする。重く粘りつくジーンズだけが、相変わらず京都のままだった。
おはぎ4個、コーラのホームサイズ2本、チキンラーメン4個を買って、僕たちは帰った。
「そうだ!明日の分も買っておかなくちゃ」
という奈緒子の言葉が、帰り道ずっと頭の中を回り続け、僕をドキドキさせた。しかし、それはまた、明日あるいは明後日で僕たち二人の小さな旅が終わることも示していて、少しもの悲しかった。誰にも、何も要求されない時間は長く続かないんだなあ、と思った。
「やっぱり熱いお茶よね。暑い時は熱いものがいいって言うしね」
と、奈緒子が淹れてくれたお茶を飲みながら、僕は久しぶりのおはぎを一気に食べた。奈緒子の母親が送ってくれたというラッキョウも大いに楽しんだ。
6時を回る頃に、奈緒子が悪戯っ子の顔で一升瓶を持って来た。コップ半分を一息に飲んだが、そこで止めた。
7時を回る頃、しかし、そのお酒が少しばかり効いてきた。舐めるように口にした奈緒子も頬を染めている。開け放った窓からは少しばかりの風と、行き交う西武新宿線の電車の音が入ってきていた。これまで感じたことのない心地よさが、僕をくるんでいた。
「あ~、気持ちいい~~~」
斜め後ろに手を付き窓外を見ていると、奈緒子の声がした。振り向くと、大の字になっている。ぼんやりと天井を見る目が幸せそうだった。たまらなく愛しいと思った。
つつっとにじりより、僕は奈緒子の頬にそっと唇をつけた。
……つづきをお楽しみに~~。 Kakky(柿本)
第一章“親父への旅”を最初から読んでみたい方は、コチラへ。http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/2ea266e04b4c9246727b796390e94b1f
第二章“とっちゃんの宵山” を最初から読んでみたい方は、コチラへ。http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/17da82818105f40507265de9990cfe8a
第三章“石ころと流れ星” を最初から読んでみたい方は、コチラへ。http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/14d4cdc5b7f8c92ae8b95894960f7a02
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