昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章“とっちゃんの宵山”(短期集中再掲載)  10.宵山の翌日。新たな行動へ。

2012年09月29日 | 日記

宵山の翌日。新たな行動へ。

言葉が途切れた一瞬に、“ぽっこり”の前から逃げるように立ち去り、ゆっくりと鴨川沿いに下宿へと向かった。喧騒が後ろに遠くなるに従い、“とっちゃんの宵山は終わってしまったんだなあ”という想いが強くなっていった。

大沢さんと桑原君には、“おっさん”たちの嘘を知らせなくてはならない、定かではない実体と、とっちゃんの受けた被害も伝えよう、と思った。桑原君に少なからず影響を与えている“長髪”のことも気になり始めていた。

しかし、とっちゃんは、きっと、そっとしておく方がいいだろう。とっちゃんが自ら整理すべき問題に違いない。適切なアドバイスなどできそうもない。とっちゃんの「会社員になる」「結婚したい」という想いの強さも決意のほどもわかっているわけではない。そんな状況下での不用意な言葉は、“おっさん”の嘘よりもとっちゃんを傷付けかねない。

さりげなく、いつものように販売所の朝を迎えればいい、と心を決め、葵橋の袂から振り向くと、遠く南の空は赤く宵山の賑わいに輝いていた。

 

翌朝、とっちゃんは思いの外元気だった。いつもの朝よりも饒舌にさえ思えた。自らを鼓舞しているに違いないと慮った僕の方がむしろ言葉少ないほどだった。

「何かええことあったんちゃうか~~」

“おっちゃん”のにんまりした顔に、返す言葉を探すのも面倒で黙って微笑んでいると、なんと、とっちゃんが助け舟を出してきた。

「きれいなネエチャン一杯おったから、まだちょっと、なあ、ガキガキ~~~」

僕は少しばかり驚き、とっちゃんを見た。すると、あろうことか、とっちゃんは僕にウィンクをしてみせた。何があったというのだ!立ち直りが早いのか、僕が心配するほど“おっさん”の言葉は染み通っていなかったのか。いずれにしろ、唖然とした僕は、ウィンクを無視した。そして、さっさと帰ることにした。大沢さんと桑原君への“宵山報告”は、後日すればいい。

不信に思われないよう「昨夜の熱気に疲れたみたいなんで、もう帰りますわ~」と、誰に向かってでもなく言葉を残し、僕は販売所を出た。

自転車のハンドルに両手を置き、いざ帰ろうとしたら、とっちゃんが勢いよく追いかけてきた。

「ガキガキ、ちょっと待ってくれ。相談や、相談あるんや」

とっちゃんは、前に回って自転車を押さえる。その力の強さに少しつんのめりそうになりながら、「なんやねん!」と言うと、「ま、聞いてえな」と目に哀願の色を浮かべる。それが彼の得意手だと知りながら、僕は帰るのを思いとどまった。

やむなく自転車を押し、北山橋の袂まで行き、話を聞くことにした。

話を聞いて、僕は驚いた。“とっちゃんの宵山”は、終わってはいなかったのだ。と言うより、すがるべき対象を変え、むしろこれからが本番といった風情になっていた。

その対象は、僕だった。

やっぱり、今のままではいけない。販売所を辞めたい。会社員になりたい。“おっさん”の話を頼りにしたのがいけなかった。自分で探したい。どうしたらいいか?ガキガキだったら教えてくれるはず。一緒に考えてくれないか……。

とっちゃんの話の趣旨はこういうことだったが、“一緒に”ということは、実質僕が考えることになり、僕が考えたことを実行する時には、それもまた僕が率先していかなければならないということだ。

とっちゃんの話を聞きながら、僕は“おっさん”の「弱い者の面倒を見るんだったら、とことんみなくちゃいけない」という言葉を思い出していた。“おっさん”は僕に語りながら、本当は“ぽっこり”に訴えていたんだ!と気付いた。そして、嘘の話に真実の色があったのは、そのせいだとわかった。

僕は、とことん付き合うしかない、と覚悟した。職業安定所に連れて行こう、と思った。

神武景気や岩戸景気と言われた長い好景気もさすがにやや失速気味とはいえ、日本のGNPは、西側世界第2位になっていた。そして、“東洋の奇跡”とか“万博特需に期待高まる”といった活字を朝刊の紙面で目にするにつけ、経済成長はまだまだ続いていくものと思われた。

きっと、好景気は続く。職種を問わなければ、とっちゃんが会社員になる道は見つからないとは限らない。いや、きっと見つけることができるだろう。職業安定所に行けば解決する。僕は、そう安易に考えていた。

「とっちゃん、明日、職安に行こう。明日、朝刊が終わったらすぐ行こう」

「ガキガキ、一緒に行ってくれるんやな」

とっちゃんは、念を押すように明るい顔で僕の顔を覗き込み、「もちろん!」という返事に顔いっぱいの笑顔を浮かべた。

僕の肩に重く乗りかかりつつあったとっちゃんが肩を降り、新たな道に進む日はすぐやってくる。できることなら、会社員になっても笑顔が続いてくれるとといいなあ、と思いつつ、「明日、な」と肩を叩き、僕は下宿へと帰った。

しかし、その日の夕刊配達が終わる頃には、僕の心は悲観に支配されていた。そんなに簡単にとっちゃんの就職先があるはずはない、と思えてきた。そしてまた、両肩にとっちゃんの重さを感じ始めていた。しかし、引き返すわけにはいかない。「とことん面倒を見なくちゃいけない」という“おっさん”の声が頭の中で響き渡った。

翌朝、朝刊を配り終わると、販売所の前にとっちゃんを連れ出し、「着替えといで!洛北高校前の電停で待ってるから、な。急いで来るんやで」ととっちゃんを家に帰した。“おっちゃん”に気取られないかと気にしつつも、背任行為をしているようで心苦しかった。

着替えて洛北高校前に行くと、もうとっちゃんは電停にいた。大きく振る手に期待と希望が込められていた。本屋の前で店内の時計を覗き見ると、午前9時半。お昼前には職安を出たい、出られるだろう、と思った。

左京区を管轄している職安は、大宮中立売の辺り。大宮今出川から少し歩いて行こう、と決めていた。前日に、電話ボックスの電話帳で住所を下調べ、本屋で地図を立ち読みして、場所の把握をしておいた。

市電に乗ると、とっちゃんの緊張は一気に高まった。空いた席にとっちゃんを座らせ、その前に吊革につかまって立ち、「話をしっかり聞けばいいんだから、ね。傍にいてええようやったら、いてあげるし、ね」と言うと、「ガキガキ、一緒にいてくれんと……」と消え入りそうな声で下から見上げたと思うとすぐ俯き、それからは断続的にため息を漏らすだけだった。

職安は、すぐに見つかった。とっちゃんは、入り口の前で固まってしまった。やむをえずそのまま待たせ、僕だけ中に入り、係員に事情説明をした。

「う~~~ん。就職言わはっても、ねえ。会社員になりたい、いうのがどんな会社やったらええのか。それにもよるしねえ。求人はいっぱいあるから、まあ、向こうで資料見はってから、これやいうのがあったら、また相談に来てください」

とっちゃんが中卒で、新聞配達しか経験がないと聞いた係員の態度は、素っ気ないものだった。

入り口を振り返ると、とっちゃんの覗き込む真剣な目つきにぶつかった。初めて見る世界に怯える小動物のようだ。招き入れる前に、資料にひと通り目を通して見ることにする。「もうちょっと待ってて」と声を掛け、求人資料の束を急いでめくってみた。

職安に足を踏み入れた時に感じた“大人社会の現実”は、想像以上に厳しかった。

とっちゃんにできそうなことを思い描きながら、求人資料をめくり続けていると、次第に“とっちゃんは新聞配達をしていた方がいいんじゃないか”という考えに傾いていった。

無表情に書き連ねられた応募条件からは、労働環境や雇用主の資質や性格はまったく読み取れない。そして次第に、それがおそらく、とっちゃんにとって最も大切なことだとさえ思えてきたからだった。

一旦めくる手を止め頬杖をついてみると、“おっちゃん”“おばちゃん”とカズさんの顔が浮かんだ。みんな人のいい笑顔だった。

とっちゃんと話してみようと、テーブルを離れ入り口の方へ向かった。すぐに、とっちゃんの中を窺う目線に出会った。その瞬間、「止めよう。今のままでええんちゃう?帰ろう!」という言葉を飲み込んだ。とっちゃんの目が、湧き上がってくる期待と欲望にぎらついているように感じたからだった。

必要のない欲望を“おっさん”や僕に駆り立てられてしまったのか、自然に生まれてきた欲望に捕われてしまったのか、とっちゃんはもう引き返すことができない所にまで踏み出している。僕には、そう見えた。

“とことん面倒を見る”というのは、こういうことか、と思った。中途半端に灯ったとっちゃんの心の火が燃え盛るか消え去るまで、付き合っていくべき義務が僕にはもう発生してしまっているのだ。

僕は、即座に妥協した。できるかもしれない仕事ではなく、できそうな仕事に目線を変えようと思った。求人情報の選択法を、精緻な生産の現場に関与しない、人との交渉に携わらない、といった消去法から、できそうなことに基準を置き変えると、“配達”という文字に目が留まるようになった。一気に楽なった。だが、2件に限定された。“会社員”というイメージからは、明らかに遠ざかっていた。

2枚の求人票を持ち、係員の元へ向かった。振り向くと、とっちゃんが、事態が展開した期待に笑顔で手を振っているのが見えた。少しだけ胸が痛んだ。

「この2つがいいかなあ、と思うんですけど……」

そっと差し出すと、無言で手にした係員の眉間の皺が、すぐに消えた。

「この2件やったら、ええんちゃうかなあ。すぐにでも、紹介できますよ~」と、申込書類を出そうとする。

「いや、ちょっと待ってください。本人に確認しますから……」

立ち上がり、入り口に向かいながら、とっちゃんへの説明の仕方を、僕はくるくると考えた。

一つは、蕎麦屋。仕事は、出前。“会社員”とはほど遠いが、新京極通りの中にあるというのが利点と言えば利点。若い女性たちとの接点には事欠かない。やがて蕎麦職人に、という道がないわけでもない。

もう一つが、人名事典の配達。こちらは、“会社員”への道があるようだが、そのためには営業ができるようにならなければならない。

できそうなことを選ぶか、“会社員になる”ことにこだわるか、それはとっちゃん次第だ。だが、人名事典の配達員を求めている会社には怪しい臭いがしなくもない。僕としては、新京極通りという立地の良さと職人という職業の魅力を武器に、蕎麦屋の出前を推してみよう。などと、考えた。

ドアを開けると、とっちゃんの輝く笑顔があった。「どや!決まったか!」と、僕がいい結果を持ち帰ってきたかのように肩を叩く。他人事風の風情に、さすがに怒りが小さく爆発。「あほか!僕がする就職やないわ!」と手を振り払うと、いつものように顔を覗き込んでくる。一つ深呼吸をして、先に人名事典、次いで蕎麦屋の順に2件の説明をする。説明が終わり、これからの段取りを話そうともう一つ深呼吸をしていると、「決めた!蕎麦屋ええやん!」というとっちゃんの明るい声。意外にも即決だ。僕は、少し拍子抜けの気分だった。

                            Kakky(柿本)

次回は、明日9月30日(日)です。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。


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