松が淵はどうなるのか
長沼からの報告は、彼の生真面目さを表す綿密なものだった。まず長沼は、松が淵の昔をよく知る長老たちにヒヤリングをしていた。
「僕が聞いた限りでは、松が淵の歴史はそんなに古くはなさそうですね。松が淵と呼ばれるようになったのは、戦後のようです。田上さんが生まれた頃かも知れませんよ。
もっと前、明治の初めの頃は、松が淵の所から大川は分かれていて、今の下沢地区の方にも流れていたんだって言う人もいるんですよ。……本流はそちらだったと言う人もいたんですけど……本当のところはわかりませんねえ、今となっては」
「その話、僕も聞いたことがあるような気がします。今、思い出しました。大川は本当はこっちを流れてたんだって」
「市役所に行って古地図を探してもらったんですが、江戸時代の様子ははっきりわかりませんでしたねえ。明治中頃の地図には下沢地区は新田と書かれていたので、明治初期に大川の本流を今の方にして、新田開発したんじゃないかと僕は睨んでるんですけど」
「松が淵は……」
「これは僕の推論なんですが、あそこ岩山でしょう?その岩盤を利用して大川を受け止め、そこからかつての支流の方に全部流してしまえばいいと……。今の大川下流域の水田地帯や海近くの砂地の灌漑に利用しようと……。新田もできて一挙両得だと……。そんな感じだったんじゃないかなあ、と思ってるんですよ」
「ということは、松が淵は自然のダム?」
「というより、自然のダム湖なんでしょうね。ダムだと放水して水量調節や溜まった土砂の放出ができるけど、松が淵はそれができないんで」
「時々溢れ出すってことですね。……じゃ!」
「そうなんですよ。田上さんが心配してるように、もし松が淵の底が浅くなってるんだったら、また溢れる危険性があるってことで……」
「どうすれば……」
「で、市役所で相談してきました。松が淵の“しゅんせつ”をした方がいいんじゃないかって」
義郎は身を乗り出す。テーブルを膝が動かし、珈琲カップを揺らす。“白鳥”の客の視線が集まる。その中に“魚屋の兄ちゃん”高木がいたことに、初めて義郎は気付く。彼もまた、実家の魚屋が水害に遭った跡地に新居を建てていた。漏れ聞こえてくる長沼の話は他人事ではないはずだ。
「高木さん、いますね。あの人にも教えてあげたい話ですよね。下沢地区の人ですし…」
義郎が声を潜めると、長沼はコーヒーを口に運び、小声で答える。
「気が付いてましたよ、僕は。……でも、あの人は北澤興業の人ですから、いいんです。“工事をすることになったら、ウチで”というくらいにしか考えないでしょう。聞き耳を立てているのも、親分にご注進できるネタかもしれないって思ってるだけですよ」
その冷ややかな言い方に、高木が倉田興業を辞める時の振る舞いが想像できたが、義郎にその時のことを尋ねてみるゆとりはない。
「松が淵の“しゅんせつ”について、市役所はどういう風に……」
「笑われてしまいました。そんなに緊急なことかって。“しゅんせつ”には大変な費用がかかるの知ってるかって。……確かに、“しゅんせつ”船は近くにはないし、あそこまで入れるのは難しいし……でも、ポンプでやるという手もあるんですけどねえ。ただ、“しゅんせつ”した泥や石は廃棄物扱いなんで、埋め立てニーズでもあれば別ですが、処分に困るでしょ。そんなこんなで、面倒なんですよ、きっと、市役所としては。だから、
緊急でなければ、って」
「川底も深い所は見えにくいぐらいなのに、松が淵だから…。緊急だって気が付いた時は遅いと思うんだけどなあ……」
義郎は深い嘆息を漏らす。我が家が堤防を越えた濁流に飲み込まれていく映像が頭に浮かぶ。緊急事態は、きっと突然やって来るのだ。
「それで、ですね」
長沼がさらに声を落とす。ほとんど額と額が触れ合わんばかりだ。
「すぐできる代案はあるって言うんですよ、担当が」
「“しゅんせつ”の代わりにですか?」
「そうなんです。今まだ続いている堤防の修復工事をもっと大がかりにすればいいんじゃないか、って言うんですよ」
「“しゅんせつ”はしないで?」
「今の予算を水増しする方が簡単だからだと思うんですが、堤防を計画より高くしたらどうかって言うんですよ」
長沼がさらに声を落とす。店内の高木を気にしていることはわかるが、聞き取りにくい。
「あくまでも“しゅんせつ”はしないで?!」
義郎は、ただただ松が淵が浅くなっていることが気になってならない。声が大きくなってしまう。
「そうなんです。これからも話し合いは続けようと思ってますけどね」
長沼は身体を起こす。高木を気にしながら話し続ける緊張感から解き放たれ、義郎に笑顔を見せる。しかし、義郎の不安は収まらない。長沼から聞いたことが次々と断片的に頭に蘇り、その度に疑問や怒りが浮かび上がってくる。
「そうですね。……そうですか。……ありがとうございました」
そう言って、長沼の努力に頭を下げた時、ふと達男の言葉を思い出した。
それは、彼が選挙活動を始める直前、義郎に語った言葉だった。
「義郎、大川は上流から下流まで全体を見て再開発しなくちゃいけないんだ。下流ということは河口まで含めて、ということだぞ。ということは、今のちっちゃな漁港のことや、計画中の工業団地のことまで含めて、ということだ。みんな関連してるんだから、な!」
達男は正しいことを言っていたんだと思った。
そして、「なんでも役所頼みじゃいけない。多少のことは自分たちでやろうと思わなくちゃいけないんだ。俺の先祖様は、みんなが飲んでくれた酒で儲けさせてもらったんだからって、治水工事にお金出してたんだから。俺も、そんなことに使えるようになるくらい稼がなくちゃ、な!義郎」
と言っていたことも思い出し、希望が湧いてきた。
自分が長沼と頑張っている間に、達男と公平はお金を稼いでくれればいいんだ。そしてそれはきっと、今できていないことや今は見えていない問題を解決する一助となっていくんだ。
義郎は、長沼を正面からもう一度しっかりと見つめ、改めてお礼を言った。
「ありがとうございました、いろいろとやっていただいて。これからも、頑張りましょう」
義郎の明るくなった声に安堵したのか、長沼は晴れ晴れとした笑顔を見せた。
「こちらこそ!松が淵のことは今後も引き続き気にしてますからね」
義郎の中から松が淵を巡る不安が半分は消えていた。
次回は、9月29日(日)予定 柿本洋一
*第一章:親父への旅http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/84e40eba50c5c6bd4d7e26c8e00c71f7
*第二章;とっちゃんの宵山 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/f5931a90785ef7c8de01d9563c634981
*第三章:石ころと流れ星http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/0949e5f2fad360a047e1d718d65d2795
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます