昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

 第三章“石ころと流れ星”(短期集中再掲載)    1.住み込みからの始まり。

2012年10月05日 | 日記

住み込みからの始まり。

「ヘルメットの色、変わったやろ?」。深夜にやってきた桑原君は、後ろ手に隠し持っていたヘルメットを畳の上に置いた。ずっと白だったヘルメットが、黒に変わっていた。誇らしげだった。

「なんてセクト?」。そう尋ねて僕は、自分の口から“セクト”という言葉が自然に出たことに驚いていた。

1970年4月中旬。僕は大学生になり、そして中華料理屋店の住込み従業員になっていた。

 

入学式がヘルメットの集団に粉砕され、そのままストライキに突入。ストライキの目的を知りたくて演説に耳を傾けてみたが、マイクを通した声は聞き取れず、中国語のような簡略文字と難解な言葉がちりばめられたチラシから読み取れることも少なかった。

「いつまで続くんやろ?」。隣にいた身ぎれいな男の脇腹をつつくと、「さあ、いつまでかなあ。無期限って言ってたからなあ」と答えた。“東京の奴だ”と思った。3人のグループだった。

「自由解散みたいだから、行くか。今後のことは、各自学生課の掲示板を見てくれ、って叫んでたしな」「すぐ排除されたけどさ」。

3人とも、やけに大人で事情通に見えた。知り合いのいない僕は、なんとなく側にいようと決めた。

人懐っこい野良犬のように2~3歩後ろをさりげなく付いていく僕に、やがて3人が声を掛けてきた。

4人とも同じ学部だとわかった。「学食、避けようか。オルグされるぞ、きっと」「そうだな。サテンにするか」と移動を始めた3人に、僕はジーンズのポケットの中を慌ててまさぐった。コーヒー1杯くらいは何とかなりそうだった。

正門の立て看板脇に陣取っていた、ヘルメット・タオル、・ゲバ棒の一群を避けようともせず、「中核の字、なんでああなんだ」と通り過ぎていく3人を、遅れないように追っていく。振り向くと、入学した子供と記念撮影をしている2組の親子が見えた。その時になって初めて、3人が3人ともネクタイ姿だったことに気付いた。

3人の話では、日米安全保障条約が自動延長になるのが6月だから、ストライキ状態のまま夏休みに突入、秋には静かになるんじゃないか。その後は、国際反戦デーあたりかな、もう一度ストライキに突入するのは。ということだった。

説得力があった。きっとそうなるのだろうと思った。そして、そうなるのであれば、迷っていたことを実行に移そう、と思った。中華料理店の住込み従業員になることだった。

 

いつも通っていた定食屋の息子からふと耳にした話だった。興味深かった。

店のオーナーは別にいて、家賃プラスαの金額で設備の整った店を貸与。賃料さえ払えば、コックは自分で稼げるだけ稼いでよい、という仕組み。一人のコックが、茨木の近くで始めようとしているが、手伝ってくれる若い人はいないかと言っている、ということだった。

20歳をきっかけに新聞配達を辞めていた僕は、住込み/一日1000円、という条件と若いコックの自立への道を共に歩めることに魅力を感じていた。

茨木が京都と大阪のほぼ中間に位置していることも好都合だと思った。大学にだって通えるんじゃないかと思った。入試が終わるとすぐに下見に行き、通うのはさすがに無理だと分かったが、厨房に入ってみると「ここで働いてみたい!」と強く思った。決断できないまま一か月近くが経ち、意思決定の期限が迫っていた頃の“秋まで休み?!”という情報は、まさに“渡りに船”だった。

3人組と別れ下宿に戻った僕は、すぐに中華料理屋へと向かった。「ひょっとすると、半年で失礼することになるかも……」ということも了承してもらい、住み込みをすることに決定。4日後には、さっさと引っ越したのだった。

 

住み込みを初めてしばらく経った朝早く、桑原君はやってきた。店の前に毎朝配達されてくる鶏ガラの山を寸胴の中に入れ、白湯スープの準備が終わった頃だった。デモか座り込みの帰りだろうと思った。

「黒ってどこ?」。セクトはヘルメットで色分け。革マルは赤、中核は白、青は文学部のL闘くらいまでは認識できていたが、黒に記憶はなかった。

「黒ヘルって、知らへんの?」。桑原君は、置いた黒ヘルをポンと叩く。その指先から血が滴っているのに驚き、「怪我してるん違う!」と中腰になると、「かすり傷、かすり傷」と笑った。

黒ヘルは、桑原君の説明によると、“ノンセクト・ラディカル”。どのセクトとも与せず、過激な闘争を独自に展開しようというグループらしかった。

「“ノンセクト”を宣言する“セクト”?」と訊くと、「まあ、そうや」と苦しげに笑い、「手当たり次第に暴れるわけちゃうやろなあ」と皮肉ると、「そんなわけあれへんやろう!」と、また黒ヘルを叩いた。その瞬間指先からの血が畳に飛んだので、セーターの腕を無理やりめくり、オロナインとタオルで応急処置をした。半年前の再現のようだった。

 

半年前、1969年10月21日。僕は初めて座り込みに参加した。桑原君の熱心な誘いによるものだった。

「すべてを提供しろ、捧げろ、言うてるわけやあらへんねん。“ベトナム戦争反対”に賛成やったら、一緒に反対せえへんか?ってだけやないか」。

僕は、この一言に納得した。ベトナム戦争がなぜ始まったのか、なぜ拡大したのか、なぜ止められないのか……様々に考え語り合っていても、確かに戦争は止まらない。正しいと思うたった一つのことにみんなのエネルギーを集中する。すると、止める力の何万分の一かにはなれるんじゃないか……。そんな気分になっていた。多分に桑原君の熱気のせいだった。20歳になる直前だったせいでもあった。

僕は指示されたとおり、四条通の地下通路の一隅に固まっている100人ばかりの一団に、やや遅れて加わった。桑原君を見つけることはできなかった。

最前列に座ることになった僕は、勤め帰りの人たちやカップルが通り過ぎるたびに奇妙な感覚に捕らわれた。明るく近代的な地下通路に、少なくとも僕は似つかわしくないとも思った。

そして、「いつごろまで座ってる予定なんやろねえ」と隣の女の子に声を掛けた頃、事態は急変した。「来たぞ~~」という声に左の方を向くと、整列した機動隊が地上から階段を下りてくるのが目に入った。頭の芯に興奮が駆け上がってきた。

ここにいる約100人は、きっとこうなることを知っていて、その瞬間を待っていたんだと思った。と次の一瞬、機動隊が向かってきた。僕たちは、隣同士で組んでいる腕に力を込めた。隣の女の子は、「顔!顔!」と叫んで首を垂れ、両手で顔を覆った。

その姿に気を取られた瞬間、僕は腹に衝撃を受けた。あまりの痛さに、組んでいた腕を振りほどき、腹を押さえて蹲った。腹を蹴り上げられたようだ。“これが噂の機動隊の靴の威力か~~”と思った。小さく呻いていると、「学生は、家に帰って勉強せんかい!」という怒鳴り声が聞こえた。もう一度、蹴り上げられた。

両腕を抱え上げられ、“逮捕されるのかな~~”と首を持ち上げると、「やられたな~」という声と笑顔があった。桑原君だった。女の子と二人で、助けにきてくれたようだった。

「さ、行くで!」と僕を引きずりながら、「引っこ抜きが始まってるし、逃げた方がええ!」と急かす。その言葉、動きには熟練の匂いがした。身を屈め、物陰を狙って移動し、階段を上がる直前に振り返ると、腕を組んで座り込んでいる一群から、ちょうど一人が機動隊員に連れ出されるところだった。“引っこ抜き”だった。

四条小橋を越えて路地に入り、小さなうどん屋に三人で入った。女の子は桑原君の彼女だと知った。祇園にある小さなアパートに住んでいる、ということも知った。

桑原君の“階級闘争”に関する話を聞かされた。僕はうどんもほとんど喉を通らず、時々呻くばかりだったが、それが桑原君の話に勢いをつけていたようだった。

1時間後、彼女の部屋に落ち着き、お茶を飲もうとした時、桑原君の出血に気付いた。「名誉の負傷や。引っ張り出す時にやったんちゃうかなあ」と僕を見る目は、先輩が後輩を見る目だった。僕は、「二度と座り込みやデモには参加しない!」と心に決めていた。

 

「無政府主義って、どない思う?」。

応急手当てが終わると、桑原君が身を乗り出した。

「絵空事ちゃうか~~?」。僕はそう言いながら立ち上がる。二度使って干してあったティーバッグを3~4個持って台所に行き、行平鍋に水を入れる。「簡単に言いいよんなあ。アナーキズムいうのはなあ、一人ひとりの人間が……」と後ろから聞こえてきたが、水音で聞こえないふりをした。

「なあ、そういうことやと思うんやけどなあ、わしは」。行平鍋を電熱器の上に置いて戻ると、桑原君の話は続いていた。その目の奥には、何か深い迷いが居座っているようにも見えた。僕は、どう答えていいかわからず、「う~~ん。やっぱり、むつかしいと思うわ~~。実際には」と曖昧に言い、桑原君にタバコを勧めた。しばらくタバコの煙と沈黙が、辺りを支配した。

突然、目覚まし時計が鳴った。次の仕込みの時間だ。飯炊きと野菜切り。そして、切った野菜のクズを寸胴に投げ込む。するとまた、コックを起こすまでのわずかな時間がフリータイムになる。「すまんけど、ちょっと寝かしてもらってええかなあ」と欠伸混じりの桑原君に布団を勧め、僕は店の厨房に急いだ。

しかし、すぐに仕込みを始める気にはなれなかった。少し心が乱されていた。中華庖丁を研いでみよう、と思った。研ぎ方は教わっていたものの、「大切な商売道具や。他人に研がせたことないんや、わしはな」とコックに言われていた。「神経を集中して研いでるうちに、ふっとコツがわかってくるんや。大体3年はかかるわなあ」とも言われていた。だからこそ、研いでみたくて仕方なかった。

使うことを許されている一本を取り出し、研ぎ石をシンクの中に置いて研ぎ始めた。「刃先が丸くならんよう、気いつけんとあかんねん」というコックの言葉を反復しながら、中華包丁を前後に動かす。研ぎ石の上を刃が滑っていく。その大好きな音に、自然と乱れた心が落ち着いていく。

“緩い切っ先で物事に切り込んでいってはいけないんだ”と、ふと思った。直前に読んだポール・ニザンの“アデン・アラビ”の一節が浮かんできた。“僕は20歳だった。それが人生最良の時だとは、誰にも言わせない”。

僕は部屋に引き返した。布団に潜り込んでいる桑原君を揺り起した。「なに?どないしたん?」と、桑原君は半身を起こした。そして、次の瞬間後ろに少し跳んだ。「なんや?!」という裏返った擦れ声に、彼が指差した方を見ると、僕の左手に中華包丁が握られたままだった。「ごめん、ごめん。庖丁研いでてん」と左手を後ろに回し、僕は突然言おうと決めたことを言った。

「桑原君。自分を大事にせんとあかん!……と、思う」。

「………、それ言いに庖丁持って来たんか?」と桑原君は、不思議そうに笑った。

僕は妙に照れくさくなり、そそくさと厨房に戻った。包丁研ぎは後回しにすることにした。仕込みを終えてから、また研いでみようと思った。

仕込が終わってコックを起こし、暖簾を出して開店の準備を終え、11時前に部屋にそっと戻ってみると、布団は空っぽだった。メモが置いてあった。

「いつも、突然ですまん。ちょっと行きたい所があるので、行ってくる。君も、元気でな!」とあった。少し微笑ましかった。しかし、その直後、やけに心配になった。メモは折り畳んで仕舞っておくことにした。

桑原君は、それからしばらく、顔を現わすことはなかった。

 

店は順調だった。特に特徴のある店ではなくメニューも平凡なものだったが、立地がよかったのだろう。4人掛けのテーブル4つ、16席の小さな店は、12時直前から満員になり、1時間半で約2.5回転。午後は暇だったが、午後5時を過ぎる頃からぽつぽつと客が入り始め、10時の閉店までにさらに2回転くらいしていた。

コックは店の売上と経費を計算し、伝票に転記しながら、ほとんど毎日「材料費、水道光熱費なんかで、まあ3分の1。残り3分の2が家賃や人件費…お前や俺のこっちゃ、とゲンカショウキャク…言うてもわからんやろう、どう書くんやったかなあ、難しい字やったなあ……、ま、店作る時に使うた金を取り戻す分や、言うてみれば。それと、利益や!」などと教えてくれた。

僕はざっと暗算し、毎月オーナーにいくら払っているか知らないが、コックの手元にはおそらく10万円は残るはずだと見積もった。“ええやんか~~!”と思った。コックの決断は正しく、独立への道も見通しはいいと思った。僕がそこに立ち会い、少しはお手伝いできることがうれしかった。僕は、毎日が楽しかった。

週一回の休業日には、大学に行った。オリエンテーションを受け、何が何だかよくわからないまま、東京3人組の助言通りに書類を書いて提出した。大学生になったことで何かが変わったような気はしなかった。

文学部の構内では、時々武闘訓練を目撃した。素人芝居を見ているようだった。タオルを口に当てたヘルメット姿の一団に、思わず桑原君の姿を探した。空虚で、少し悲しかった。

陽だまりに座っていると、よく声を掛けられた。「一緒に、歌いませんか?」という女子学生の笑顔には驚いた。「こんにちは~~。君は、戦後体制をどう思う?」といきなり切り出すきちんとした身なりの男子学生には、思わず笑った。「君は、どこに属してるんや?」と顔を覗き込んできた髭の長髪には、「ここはどこかの組のシマなん?」と言ってしまい、威嚇された。

どこかのんびりとしたストライキだった。教授陣に学生に同調する人たちがいるから成立しているだけだ、という東京3人組の見立てが正しいような気がした。

夜、部屋に戻ると、中華料理屋の店員に戻った。そちらの方が現実のように思えた。居心地がよかった。

 

5月中旬の夜、コックに「頼みがある」とビールをご馳走になった。「出前、始めるから、それもやってくれへんか?」ということだった。“とっちゃん”を思い出した。スープを吸いきったラーメンが浮かんだ。

「僕、方向音痴なんですけど……」と言い掛けて止めた。僕がやるしかない話だからだ。しかし、なぜ突然?と思った。「店に来る客で手一杯やから、出前はする気あれへんねん」と言っていたコックの方針変更の要因はなんだろう、と思った。客数は若干減ってはいるものの、売上が大きく落ち込んでいるわけでもない。

しかし、「悪い兆候やで、今の客の入り方。前の店でも経験しとるしな。ようわかんねん。これは、ジリ貧の始まりやな」と、コックはむしろ自慢げにビールをあおる。

「今のうちに手を打っておきたいんや。自分はようやってくれるし、飲み込みも早そうやし。出前もやってもらえるやろう、思うてなあ。……頼むわ」。

もう“イエス”しかなかった。仕込、フロア、洗い場、出前……。テーブルの下で自分の役割を指折ってみて少し暗くなったが、「やりましょう!」と明るく承諾した。ビール4本目の勢いもあった。

しかし、それが、間違いへの第一歩だった。

 

仕事の充実感って、こういうものなんだろうなあ、と思った。両手に一杯の荷物を持ってなんとかバランスを取っていると、「なんだ~~。まだまだいけるやんけ~~」と気軽に、ぽんとまた乗せられる。それをまたなんとか持ちこたえて運んでいると、ふっと慣れてくる。すると、「なんや~~。もっと運べるんちゃうか~~?」と、また荷物を乗せられる……。そうして続く緊張感が、充実感になっているんだと、と思った。

12時半を過ぎると、毎日綱渡りのようだった。フロアで注文を取り、コックに通すと洗い場へ。一つしかないシンクに第一陣のお客さんのお皿や丼を溜まったままにしておくわけにはいかず、洗い物をしながら、来店する人に目を配り、声を掛けてお冷を運ぶ。お会計の人が立ち上がると、間髪入れずにレジへ。その度に、手についた泡を流し、流しの前に掛けてあるタオルで拭く……。一週間で慣れてしまった一連の行動だったが、そこに出前が加わった。電話が鳴ると、「おい!」とすかさずコックが顎を捻る。「電話、濡らしたらあかんで~!」と言われているので、手を拭き受話器を取る。注文をコックに伝え、住所と場所をメモ。洗い場に戻り、カウンターの裏に置いてある地図で場所を確認する。その間にも、お客さんは入ってくる。「なんぼや~~?」「勘定して~~?」の声は掛かってくる。出前をして帰ってくると、「お客さんやぞ~~」「お会計、待ってはるで~~」とコックに言われる……。

しかしそんな状態にさえ、一週間で慣れた。小さく要領を覚え、お客さんに甘えることも覚えた。パタパタと動いている姿に無駄がなくなると、お客さんはある程度待ってくれるものだとわかった。すると、連続している作業に余白ができるようになった。その余白をお客さんとのささやかな会話に使うようになった。自分の店、自分のお客さん、という意識もうっすら芽生えてきた。そして、さらに充実感は増していった。仕事に深さと味わいが生まれてきたようにさえ、感じ始めていた。

 

6月下旬。梅雨入りしたと思わせる雨が3日続いた夜。閉店後に、またコックにビールをご馳走になった。お客がほとんど手つかずで残した肉団子をつまみに、飲むことになった。僕はきっとねぎらってくれるんだろうなあ、と思った。5月の連休後2日連続でもらう約束だった休みもないままだったし、出前は売上にきっちりと貢献していたからだった。

「明日から、料理を教えたるわ。店を閉めた後、30分くらい、どや?夜中に連れがよう来てるみたいやけど、ええか?」。コックの話は、意外なものだった。

「炒飯、餃子、ラーメン、八宝菜くらいやったら、すぐ覚えられるやろう。そや!八宝菜作れるようになったら、中華丼もできるわ。そんだけできたら、店やってもええくらいやわなあ」。にんまりとしながら、タバコを勧めてくる。

何を求められているのか、どんな期待が込められているのか、僕にはわかりかねた。ただ、中華料理を覚えるということは、とても興味深かった。

「教えてください」。僕は、身を乗り出していた。「よっしゃ~~。ほな、明日からな」とコックは、一本だけ箱から頭を出していたタバコを箱ごとくれた。

翌日夜から、中華料理レッスンは始まった。しかしそれは、予想していたようなものではなかった。まず、コックが手順を説明しながら作る。それを凝視していた僕が、同じ手順で作ってみる。調味料の分量も目分量。出来上がると、コックが食べて一言。たくさん作ってももったいないからということで、それを2回繰り返す。といった具合。1週間もすると、「飲み込み、ええなあ」と終了してしまった。味付けへのこだわりは、ついぞ聞くこともなかった。

そして数日後、コックの僕に対する1週間の付け焼刃的特訓の意図がわかった。昼寝の時間が欲しかったのだった。

2時以降は滅多にないお客だが、店を閉めているわけではないからやってくることもある。多くてせいぜい5名くらいなのだが、それが面倒になったらしかった。

「お前で大丈夫や。作ったって~~」と、呼びに行った僕に背を向けたままコックが言った時、気付いた。「料理教えたるわ~」は、卑しい策略だったのだ。

 

「一人で店を切り盛りする自信はあるんや」「出来立ての店が忙しいのはええこっちゃ。そこで余分な金使うたらアホやもんなあ。忙しい時に、次のためのエネルギーを蓄えとく。そこで疲れてるようやったら、一国一城の主になる資格ないっちゅうこっちゃ」……。

すぐに軽く鼾をかき始めたコックの背中をしばし眺めながら、彼の言葉を思い出していた。顎を上げ気味に、自信の笑みを浮かべながら語っていたコックの勢いは、その背中には微塵も感じられなかった。

“やむを得ない!作ろう!”と決め、僕は店に急いだ。輪郭を失い、部屋いっぱいになったコックの背中が目の中に残った。

なんとか炒飯2人前をこなした。訝しがることもなく勘定を済ませたお客を送り、シンクの前に立つと、急に笑いが込み上げてきた。シンクの端を掴んで、声を押し殺して笑った。何事も実体って奴は、こんなにあやふやでいい加減なものなんだろうなあ、と思った。

ゴム草履を脱ぎ、一枚歯の高下駄に履き替えた。この際、それらしきスタイルでそれらしきサービスを提供しよう、と思った。

4時半過ぎ、欠伸を噛み殺しながらコックがやってきた。一枚歯の高下駄を履いている僕を見て「お!天狗さんや~~」と笑った。

                               Kakky(柿本)

次回は、明日10月6日(土)です。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。


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