交錯する不安
松が淵に関する義郎の不安は日を追うにつれ希薄になっていった。そして、やがて以前のように、松が淵はただただ懐かしく温かく、かつて家の近くにあった小さな祠のように、そこにあるだけでどこか心強い存在となっていた。
「義郎ちゃん、私ね、最近何も不満がないんだけど、それが不安になる時もあるのよ」
1989年初夏。春に田舎に呼び戻した弟義和の結婚式の帰り、優子がふと漏らした。
「いいことが続いたからじゃない?幸助も大学に入れたし……」
幸助は、志望どおりではなかったものの、その春東京の大学に入学。先延ばしになり続けていた義郎と優子の新婚旅行を兼ねて二人は入学式に出席していたのだった。
わずか一泊の旅行だったが、駆け足での東京見物と義和も交えた会食を、義郎と優子は心から楽しんだ。気がかりだったのは、義和の置かれている状況だけだった。
先輩の誘いで転職し、うまくいっているはずだったのだが、会食の席で義和が口にするのは不安ばかりだった。
工学部を出て事務機器メーカーに就職。5年後には責任者として現場に立つようにまでなっていた。が、義和が32才の時、生産ラインの急激な拡充に反対したのをきっかけに会社との折り合いが悪くなった。折悪しく、長く付き合っていた彼女と別れたこともあって、やや自暴自棄気味になっていた時に掛かってきたのが、大学の先輩からの転職の誘いだった。
レンタルビジネスだった。好景気に乗り増え続ける事務機器ニーズにレンタルサービスで対応していくという話は、義和には魅力的に映った。事務機器の技術開発のスピードの速さとワープロやファックスの導入など事務の業務革命が起きつつあることに、現場で旧態依然たる機器の生産に携わりながら危機感を抱いていた矢先のことでもあった。義和は、飛び付いた。
しかしやがて、レンタルビジネスの実態が金融ビジネスであることに気付き、嫌気が差してきていたのだった。
「使う人の役に立つものだって思いながらモノを作っている方が幸せだったなあ、って思い始めると、自分のやってることがつまらないことに思えてさあ。一時期思い込んでいた“自分の作っているモノは、時代遅れじゃないか”って考えも、レンタルの話で色々な会社に通ってると、遅れてるかどうかは使う人が決めることだってわかってきたしさあ。所詮、俺の役割は商品の評価と保守だけだから、仕事に手触りもないしさ」
義和のそんな愚痴を、今の仕事に自分の仕事としての誇りを持てるようになった経緯を思い出しながら聞いていると、義郎は義和の不満、怒り、迷いを愛おしくさえ思った。
その場では何もアドバイスができなかったが、帰省した義郎の心には、義和を東京から救い出したいという気持が生まれた。そして、募ってくるその想いから、周囲に義和に帰ってくるように勧めたいと相談するようになった。見合い話も出てきた。いいチャンスと義和は見合い写真を携え、東京に再び向かった。久しぶりの会食から、わずか2週間後のことだった。
「義和さんも本当によかったわねえ。お嫁さんもいい人だし。よく見つかったわよねえ」
「義和、仕事も真面目で、助かってるよ。僕なんかもう必要ないくらいだよ。……そうか!優子ちゃんの不安て、そんなことかなあ………自分が頑張らなくちゃいけないことがなくなってきたからかなあ……」
「うん。それはあると思う。……でも、それだけじゃないんだ、きっと……」
「あまり深く考えない方がいいよ。……楽しいこと考えようね」
少し怪訝な思いで義郎は助手席の優子を一瞥する。漠然とした目をダッシュボードに向ける優子の横顔には、彼女の奥にある不安が現われているように見える。
「ほら、今日ははっきり見えるよ。一本杉だよ。ほら」
スピードを緩め、軽トラの窓から松が淵の上を指差す。
「結婚式に軽トラで行く人って珍しいわよね、きっと。念入りに洗ったけどね」
「そうか。だから、はっきり見えるんだ」
「松が淵の心配もなくなったんでしょ?」
「今のところね。……いい思い出ばっかりだね、松が淵は。中学の時も、幸助と行った時も、いつも温かかったし。優子ちゃんと……」
優子と初めて抱き合った夜。下から見上げた優子の顔、その向こうに高く輝いていた月、起き上ると遠くに霞んでいた一本松の影が、軽トラの窓に映り込むように浮かんでくる。
「優子ちゃん」
ほとんど軽トラを停め、横の優子に顔を向ける。優子の頬に口づけしようと思った。
「なあに?」
振り向く優子の表情が、義郎を思い留まらせる。優子の中の不安が圧し掛かっているのだろうか、優子の顔が曇り歪んでいる。
「今夜の晩ご飯、披露宴の残り物で大丈夫だね」
優子の不安の正体がつかめないことに、義郎はいたたまれなくなる。大きな不安が暗雲となって義郎の胸の中にも拡がっていく。
「大丈夫よ。大丈夫だからね」
優子の手が義郎の肩に添えられる。義郎はアクセルを踏み込む。
家に帰ろう。帰って…と思ったその時、幸助がいないことを痛く思い出した。そして、気が付いたような気がした。
優子の不安の源は、幸助にあるのかもしれない。幸助がいないこと、幸助と会うことがあまりなくなる予感、いやひょっとすると幸助の……。あの初めての夜も口にした「大丈夫よ。大丈夫だからね」という言葉の本当の意味と、本当に語りかけたかった相手は……。
義郎は、家へと急いだ。優子の不安と向き合うことは避けたいと思った。毎日が安穏に過ぎていくことに、自分は力を尽くせばいい。優子の不安が優子の笑顔まで消すことはないだろう。仕事も義和も幸助も、何かもは順調なんだから。
数分で着いたリビングには、階段の窓から夕日が差し込んでいた。ほんのり赤いリビングは、いつものように穏やかで暖かい。
持ち帰った大きなビニール袋をキッチンへと運ぶ優子を見送りながら、義郎は微笑んだ。「大丈夫だよ。大丈夫だからね」
小さく口にしてみると、胸の中の暗雲が散っていくような気がした。二人を襲った不安なんて、何でもない日常にこそ感じてしまいがちな不安なんだろう、と思った。きっと、どうってことないんだ……。
しかし、その直後に鳴った電話が運んできたのは、現実的な、極めて重大な不安だった。
次回は、10月4日(金)予定 柿本洋一
*第一章:親父への旅http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/84e40eba50c5c6bd4d7e26c8e00c71f7
*第二章;とっちゃんの宵山 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/f5931a90785ef7c8de01d9563c634981
*第三章:石ころと流れ星http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/0949e5f2fad360a047e1d718d65d2795
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