昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 25

2011年01月31日 | 日記

神武景気や岩戸景気と言われた長い好景気もさすがにやや失速気味。とはいえ、GNPが西側世界第2位になった、日本の経済成長は“東洋の奇跡”、万博特需に期待高まる、といった活字を朝刊の紙面で目にすると、まだまだ高度経済成長時代は続くとものと思われた。

好景気は続く。職種を問わなければ、とっちゃんが会社員になる道は見つかるだろう。職業安定所に行けば解決する。僕は、そう安易に考えていた。

「とっちゃん、明日、職安に行こう。明日、朝刊が終わったらすぐ行こう」

「ガキガキ、一緒に行ってくれるんやな」

とっちゃんは、念を押すように明るい顔で僕の顔を覗き込み、「もちろん!」という返事に顔いっぱいの笑顔を浮かべた。

僕の肩に重く乗りかかりつつあったとっちゃんが肩を降り、新たな道に進む日はすぐやってくる。できることなら、会社員になっても笑顔が続いてくれるとといいなあ、と思いつつ、「明日、な」と肩を叩き、僕は下宿へと帰った。

しかし、その日の夕刊配達が終わる頃には、僕の心は悲観に支配されていた。そんなに簡単にとっちゃんの就職先があるはずはない、と思えてきた。そしてまた、両肩にとっちゃんの重さを感じ始めていた。しかし、引き返すわけにはいかない。「とことん面倒を見なくちゃいけない」という“おっさん”の声が頭の中で響き渡った。

翌朝、朝刊を配り終わると、販売所の前にとっちゃんを連れ出し、「着替えといで!洛北高校前の電停で待ってるから、な。急いで来るんやで」ととっちゃんを家に帰した。“おっちゃん”に気取られないかと気にしつつも、背任行為をしているようで心苦しかった。

着替えて洛北高校前に行くと、もうとっちゃんは電停にいた。大きく振る手に期待と希望が込められていた。本屋の前で店内の時計を覗き見ると、午前9時半。お昼前には職安を出たい、出られるだろう、と思った。

左京区を管轄している職安は、大宮中立売の辺り。大宮今出川から少し歩いて行こう、と決めていた。前日に、電話ボックスの電話帳で住所を下調べ、本屋で地図を立ち読みして、場所の把握をしておいた。

市電に乗ると、とっちゃんの緊張は一気に高まった。空いた席にとっちゃんを座らせ、その前に吊革につかまって立ち、「話をしっかり聞けばいいんだから、ね。傍にいてええようやったら、いてあげるし、ね」と言うと、「ガキガキ、一緒にいてくれんと……」と消え入りそうな声で下から見上げたと思うとすぐ俯き、それからは断続的にため息を漏らすだけだった。

職安は、すぐに見つかった。とっちゃんは、入り口の前で固まってしまった。やむをえずそのまま待たせ、僕だけ中に入り、係員に事情説明をした。

「う~~~ん。就職言わはっても、ねえ。会社員になりたい、いうのがどんな会社やったらええのか。それにもよるしねえ。求人はいっぱいあるから、まあ、向こうで資料見はってから、これやいうのがあったら、また相談に来てください」

とっちゃんが中卒で、新聞配達しか経験がないと聞いた係員の態度は、素っ気ないものだった。

入り口を振り返ると、とっちゃんの覗き込む真剣な目つきにぶつかった。初めて見る世界に怯える小動物のようだ。招き入れる前に、資料にひと通り目を通して見ることにする。「もうちょっと待ってて」と声を掛け、求人資料の束を急いでめくってみた。

職安に足を踏み入れた時に感じた“大人社会の現実”は、想像以上に厳しかった。

 

*月曜日と金曜日に更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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