昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 24

2011年01月28日 | 日記

言葉が途切れた一瞬に、“ぽっこり”の前から逃げるように立ち去り、ゆっくりと鴨川沿いに下宿へと向かった。喧騒が後ろに遠くなるに従い、“とっちゃんの宵山は終わってしまったんだなあ”という想いが強くなっていった。

大沢さんと桑原君には、“おっさん”たちの嘘を知らせなくてはならない、定かではない実体と、とっちゃんの受けた被害も伝えよう、と思った。桑原君に少なからず影響を与えている“長髪”のことも気になり始めていた。

しかし、とっちゃんは、きっと、そっとしておく方がいいだろう。とっちゃんが自ら整理すべき問題に違いない。適切なアドバイスなどできそうもない。とっちゃんの「会社員になる」「結婚したい」という想いの強さも決意のほどもわかっているわけではない。そんな状況下での不用意な言葉は、“おっさん”の嘘よりもとっちゃんを傷付けかねない。

さりげなく、いつものように販売所の朝を迎えればいい、と心を決め、葵橋の袂から振り向くと、遠く南の空は赤く宵山の賑わいに輝いていた。

 

翌朝、とっちゃんは思いの外元気だった。いつもの朝よりも饒舌にさえ思えた。自らを鼓舞しているに違いないと慮った僕の方がむしろ言葉少ないほどだった。

「何かええことあったんちゃうか~~」

“おっちゃん”のにんまりした顔に、返す言葉を探すのも面倒で黙って微笑んでいると、なんと、とっちゃんが助け舟を出してきた。

「きれいなネエチャン一杯おったから、まだちょっと、なあ、ガキガキ~~~」

僕は少しばかり驚き、とっちゃんを見た。すると、あろうことか、とっちゃんは僕にウィンクをしてみせた。何があったというのだ!立ち直りが早いのか、僕が心配するほど“おっさん”の言葉は染み通っていなかったのか。いずれにしろ、唖然とした僕は、ウィンクを無視した。そして、さっさと帰ることにした。大沢さんと桑原君への“宵山報告”は、後日すればいい。

不信に思われないよう「昨夜の熱気に疲れたみたいなんで、もう帰りますわ~」と、誰に向かってでもなく言葉を残し、僕は販売所を出た。

自転車のハンドルに両手を置き、いざ帰ろうとしたら、とっちゃんが勢いよく追いかけてきた。

「ガキガキ、ちょっと待ってくれ。相談や、相談あるんや」

とっちゃんは、前に回って自転車を押さえる。その力の強さに少しつんのめりそうになりながら、「なんやねん!」と言うと、「ま、聞いてえな」と目に哀願の色を浮かべる。それが彼の得意手だと知りながら、僕は帰るのを思いとどまった。

やむなく自転車を押し、北山橋の袂まで行き、話を聞くことにした。

話を聞いて、僕は驚いた。“とっちゃんの宵山”は、終わってはいなかったのだ。と言うより、すがるべき対象を変え、むしろこれからが本番といった風情になっていた。

その対象は、僕だった。

やっぱり、今のままではいけない。販売所を辞めたい。会社員になりたい。“おっさん”の話を頼りにしたのがいけなかった。自分で探したい。どうしたらいいか?ガキガキだったら教えてくれるはず。一緒に考えてくれないか……。

とっちゃんの話の趣旨はこういうことだったが、“一緒に”ということは、実質僕が考えることになり、僕が考えたことを実行する時には、それもまた僕が率先していかなければならないということだ。

とっちゃんの話を聞きながら、僕は“おっさん”の「弱い者の面倒を見るんだったら、とことんみなくちゃいけない」という言葉を思い出していた。“おっさん”は僕に語りながら、本当は“ぽっこり”に訴えていたんだ!と気付いた。そして、嘘の話に真実の色があったのは、そのせいだとわかった。

僕は、とことん付き合うしかない、と覚悟した。職業安定所に連れて行こう、と思った。

 

*月曜日と金曜日に更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)

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