何がいけないって「思考停止はダメ」「自分の頭で考えなさい」と口酸っぱく言われて幾歳月。
そうよ、誰でもない自分の頭から出る自分の思考。
この自分の…と思いこんでいたそれがどうも本当の自分(覚醒した自分)とは違うらしい、という初耳を聞いた時、例によって私はシャッターをしなかった。
毎度の「今まで信じてきたものが違うことを受け入れる痛み」なんて、もちろん感じなかった。
それというのも、後出しみたいだけど、「自分と認識しているものなんてとても小さいんじゃないか。完全でそれが本当に自分の全てだったら私はもっとショックを受けるはずだ」という感覚がずっとあったから。
それで、人体に潜む意識というのか仕組みというのか、ネドじゅんさんの言葉を借りれば、右脳さんやら左脳さんやら本体さんやら複数の存在のうち、「ワタシ」と意識しているものは、ぶっちゃけお兄ちゃんやお姉ちゃんに挟まれてオロオロしている末っ子のような存在という例えが、まっすぐ入ってきた。
この「入ってきた」というのもそう。
私はいつも考えるというより、根拠というより、その話が「感覚的に」「生理的に」「違和感なく」心身が受け入れるかを基準にしていたので、何か自分がずっと求めていたこと、その正体がわかるかもしれないという胸騒ぎがした。
そんなベースのようなものがあって、エックハルト・トールさんやネドじゅんさんの主張に魅かれていったのである。
そしたらね…息を呑むほど面白かったんですよ。
「思考が」主人であるあなたをさしおいて、主人を奴隷のように使っていることになる。
とエックハルトさんは言ってますが、確かにそうですよね。
気がついたらなんだかんだ「勝手に」流れているのが思考であり、座禅でも組まないと「無」でいられない(それも難しい)人が多いんじゃないでしょうか。
それも思い出したくもない過去のことや、考えてもしょうがないことや、時には勘違いしている情報まで事実のように次々と出てきて、それらを自分の意識で止めることができないなら、思考は「自分ではない」と思いませんか?
自分が好き好んでないことが、何の命令もしていないのに出てくるんだから。
まずそこに気づくのが第一歩で、次はじゃあ自分ではないそれを、自分が客観的に眺めてみる。
そうすると、やっとやっと「見たことも聞いたことも感じたこともないもの」を知ることが始まります。
「思考停止してる」とか「自分の頭で考えなさいよ」みたいに言われているうちに、自然とそれは、自分の手足を動かすみたいに自分の意思でやっていると思っていたもんね。
左脳というのかエゴというのか言葉に置き換えるのはいろいろだけど、ともかくそれは「本当の自分」「本当のことを知って覚醒した自分」ではないんだ…ということが、ぼんやりわかってきました。