ついでだから、S問題を書こう。
実際、書いても書いてもイタチゴッコで同じパターンの悩みを見るんだけど…
例えば
「脱会したい」と母に話したいけど、話したら発狂すると思う。
絶縁されるかもしれない。
信仰は個人の自由なのに、なぜこんなに悩まないといけないのか。
活動しないと怒られて、強制されて、本当に大嫌い。
絶縁されるかもしれない。
信仰は個人の自由なのに、なぜこんなに悩まないといけないのか。
活動しないと怒られて、強制されて、本当に大嫌い。
というような意見があるとして、この場合、なぜ、悩む、大嫌いにかかる言葉は普通は母親になる。
親子関係になる。
仮に「信仰」が、自分がやりたい場合で考えてみてください。
或いは「信仰」を「大恋愛の相手の結婚」とか「ガマンの限界に達したパートナーとの離婚」とか「辞めたい学校、職場」に置き換えて。
信仰であれ、進学であれ、職業選択であれ、結婚であれ本来自由なことを、何等かの脅しを取引きにもってくるような親がおかしいと思う。
でもアンチはSを叩きたいあまり、母親は置いといて「それはSが悪い」にする。
母親も被害者という理屈になるのかな。
いやいやいや、せっかくの信教の自由がある日本に暮らしていながら、それを選んでいるのは本人でしょう?
Sが邪魔した、Sのせい、Sさえなければというけど、そんなものあってもなくても選ぶ自由だってあるよ。
せっかくあるのに勧んでなくしているのは自分。
Sを無くしてほしいっていうけど、私はそういう人にこそ、何でも存在した方がいいと思うけどね。
見る力も選ぶ力も断る力も、いろんなものがあるから人は鍛えられると思うんだけどね。