の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

佐太社

2010年11月21日 15時31分54秒 | 中国(鳥取、島根)
■隨門■
(12th June 2010)



★佐太社★ 島根県松江市鹿島町佐陀宮内72

・延喜式内社、出雲國秋鹿郡、佐陁社。

・舊社格は國幣小社。

・祭は中殿に佐太御子大、伊弉諾尊、伊弉冉尊、事解男命、速玉男命、北殿に天照大、瓊瓊杵尊、南殿に素盞鳴尊、秘説四座。祭には諸説ある。『雲陽誌』によると、中殿に伊弉諾尊、伊弉冉尊、事解男命、速玉男命、秘説一座、北殿に天照大、月弓尊、南殿に素盞鳴尊、秘説四座。『出雲風土記鈔』によると、中殿に佐太大、北殿に瓊瓊杵尊、伊弉冉尊、天照大、南殿に熊野大、大穴持命。その他、諸説ある。

・出雲國二之宮といわれることもあるが、基本的に、出雲國には二之宮以下は存在しないとされる。

・『秋鹿郡佐田大社之記』に垂仁五十四年の創建で、養老元年(717)に再建とある。

・當社南方には繩文早期から前期に渡る佐太講武貝塚、佐太川の北の出口である古浦の海岸には彌生遺跡として知られる古浦砂丘遺跡があり、また古墳もかなり多く殘り、出雲でもおそらく最も早い時期に人が住みついた地とされている。佐太川は元々、かなりの地溝であったが、この地溝を境界に東西に別個の小國家が成立し、西を狭田國、東を闇見國といったという。しばらく後、この兩國は佐太大の信仰により繋がることになったとされる。佐太大は狭田の國の大であり、風土記には、狭田國東部に當たる秋鹿郡の名火山の條に、「所謂佐太大の社は即ち彼の山の下也」とあり、また社名列記の條に「佐太御子社」とあるが、これに対して闇見國に當たる島根郡の條にその國名を冠する「久良彌社」が見られる。風土記には、本來、久良彌社のの領域である島根郡加賀の條、および加賀の埼の條に隣國狭田の大の誕生の傳承が筋の乱れの多い文で、要素の逸脱も多いながら殘されている所に、何らかの事情があると思われる。

・「加賀の埼。ここはいわゆる佐太大が産まれたもうた所である。むかし、魂命の御子の枳佐加比賣命が佐太大を産もうとなさったとき、弓矢がなくなった。そのとき比賣が、いま自分が産んだ御子が麻須羅の御子であるならば、なくなった弓矢よ出て来いといわれた。すると水のまにまに角の弓矢が流れてきた。比賣はこれをとって御子に見せ、これではないといって投げ棄てられた。すると今度は金の弓矢が流れて来た。比賣はこれをとり、暗い窟であることよといって射放たれた。そのためここが貫通し、光り輝いた。それでここを加賀というようになった。」という話が『出雲國風土記』に記されている。白水社出版の『日本の神々 神社と聖地 7 山陰』で、石塚尊俊は、御子が佐太大であるとすることに否定的な見解を述べられているが、少なくともこの一節について考えるのであれば、この御子が佐太大であらねばならない。

・當社は、『出雲國風土記』において、「佐太大の社」とされつつ、また、「佐太御子の社」ともされている。さらに、佐太大の社は名火山の下にあるとされるが、現在の社地からはその山容を拜すことの出来ないため、非常に不自然であると考えられる。

・昭和四十八年(1973)、現在地より西北約1.2キロ離れた大字佐陀本郷字志谷の奥、すなわち名火山の眞下というべきところで銅劔六口、銅鐸二口が同時に出土し、佐太大の社に關わる地であったことが推測される。

・『出雲國風土記』の社名列記條には、佐太を冠する社は「佐太御子の社」一社である。

・明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩祠懸により、平田篤胤の『古史傳』の説に從い、祭を猿田彦命と明示するように言われたが、社側はそれを拒んだために、著しく心證を惡くし、當初、縣社以上の社格は認められなかった。

・戰國期には島根郡と秋鹿郡に七千石の社領と二百二十四人の人を有していたが太閤検地によって大幅に減じられ、堀尾吉晴の時代に二百石まで回復したという。

・江戸時代に入ると杵築大社とともに出雲國内の社を管轄しそれらを支配する「触下制度」を確立。佐陁大社の管轄は島根郡、秋鹿郡、意宇郡の西半分と楯縫郡の社であった。


■社號標、鳥居■
(12th June 2010)
 


■手水舎■
(12th June 2010)
 


■中門、廻廊■
(12th June 2010)
 


■本殿北殿、正中殿■
(12th June 2010)



■本殿南殿■
(12th June 2010)
 


■北末社■
(12th June 2010)


・山王社、宇智社、玉御前社、竹生島社を祀る。


■南末社■
(12th June 2010)


・戸立社、振鉾社、垂水社、天社、岡見八幡宮、橘稻荷社、客社、宇多紀社を祀る。
・延喜式内社、出雲國秋鹿郡、宇多紀社、合祀。
・延喜式内社、出雲國秋鹿郡、垂水社、合祀。


■母儀人基社■
(12th June 2010)



・祭は伊奘冉尊。


((コメント))

2010年6月12日

 出雲國筆頭の大社であった熊野大社没落後の杵築大社と勢力を分け合った佐陁社こと、佐太社へ向かった。なぜかはわからないが、行く前から直感的にいい印象を感じていなかった。やはり、境内に入っても同じであり、社の姿勢が生理的に合わないというか、不快なところであった。別に、何も惡い事をされたわけでもないのに、このように感じる社は少ないので、非常に不可思議なことである。

 ところで風土記の話であるが、佐太大は佐太御子だと思うが、名火山自体が體で、山麓で祭祀を行われてていたと思われるが、所謂、風土記にあり、延喜式内社である佐太御子の社が離れているのは、狭田國と闇見國との關係に謎が隠されているように思う。興味がないので、解き明かそうという気持ち自體存在しないのであるが・・・

産土社

2010年11月21日 14時52分43秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■二の鳥居■
(3rd June 2010)



★産土社★ 大阪府門真市城垣町1-31

・舊社格は村社。

・祭は菅原道眞。

・明治以前は天滿宮を稱した。

・上馬伏村、巣本村氏。

・「上馬伏の宮さん」と呼ばれる。

・創建由緒等不明。


■一の鳥居■
(3rd June 2010)



■手水舎■
(3rd June 2010)
 


■拜殿■
(3rd June 2010)

 

■本殿覆い屋■
(3rd June 2010)
 


■木■
(3rd June 2010)
 


((コメント))

2010年6月3日

 門真の社は大體、似た感じで規模も同じようなものだが、この産土社は他と比べると少し廣い境内のように思う。境内は子供たちの遊び場になっているようで、男の子たちがゲームをしたりしていた。土地の子供たちの憩いの場になるというのもいいことである。

 しかし、門真の社は本殿に覆い屋をしているのが不思議だ。豐國社以外、今のところ、訪問したすべての社が本殿を覆っているのである。

篠村八幡宮

2010年11月21日 13時43分21秒 | 近畿(滋賀、京都)
■本殿■
(22nd May 2010)
 


★篠村八幡宮★ 京都府亀岡市篠町篠上中筋45-1

・祭は譽田別命、仲哀天皇、功皇后。

・延久三年(1071)、後三条天皇の勅により、源義が、河内國應天皇陵に鎭座の譽田八幡宮より勧請し創建したと傳える。

・翌延久四年(1072)五月十三日付の義の寄進状も現存するらしい。

・元弘三年(1333)四月二十九日、當社に戰勝祈願の願文を奉じて十日間滯在の後、足利氏は首尾よく六波羅探題を滅ぼした。

・後醍醐天皇と決別後の建武三年(1336)一月三十日、京都攻防戰で敗れた尊氏は二月一日まで當社で敗殘の兵を集めるとともに社領を寄進、再起を祈願して九州に落ちていった。

・尊氏にとって重大な岐路で二回、この篠村八幡宮に祈願をこめて大願成就していることから、貞和五年(1349)、自らお禮參拜したという。

・應仁の乱や明智光秀の丹波攻略の戰火により社殿や社領の多くを損失したが、寛永年間に龜山城主菅沼定芳により本殿が改修され、以来、源姓龜山城主の直轄社として庇護を受けた。


■拜殿■
(22nd May 2010)
 


■本殿■
(22nd May 2010)

 


■境内社乾疫社■
(22nd May 2010)


・祭は建速須佐之男、大己貴、少彦名。
・篠村八幡宮境内に鎭座。
・日本最古の疫社の一つ。
・平安遷都以來、山隂道から都に惡疫や災難が入るのを防ぐために勅願の祭典が度度、執行されていたが、その場所に、正暦五年(994)頃に社を設けて常にお祭りをするようになった社。


■祖靈社■
(22nd May 2010)
 

・歴代職の御靈とともに、昭和五十二年(1977)に靖國社から勧請した地元から出征の大東亞戰争による五十五柱の戰没者の英靈を合祀。


■末社小宮社■
(22nd May 2010)
 

・向かって右から左にかけて、一殿目が秋葉社および愛宕社、二殿目は住吉社、春日社、日吉社、三殿目は皇大宮、豐受大、四殿目は天滿宮。


■末社祓戸社■
(22nd May 2010)
 


■矢塚■
(22nd May 2010)


 亀岡市指定史跡

・足利氏が必勝祈願の願文を奉じた後、玉串に代えて鏑矢を奉納した地。
・實弟の直義以下、竝居る武將達が次々と戰勝祈願を込めて祈った後、氏に倣って鏑矢を奉奠したため社前には矢が山のように積まれたという。
・室町時代初期の歴史書にも由緒が明記されていたという。


■足利氏旗立楊■
(22nd May 2010)


・社前で決意を明らかにして後、軍勢督促状に従って氏陣営に駆けつけてくる近の武將達に氏本営の所在を明らかにするため、山隂道に面して聳え立つ楊に『二つ引両』の家紋が入った白旗を掲げたところ。
・現在のは挿し木された若木という。


((コメント))

2010年5月22日

 一度、訪問したことがあったのでこの度は予定していなかったが、桑田社に行ったついでに少し時間があったので立ち寄った。いわゆる、足利尊氏には縁のある社である。

 境内に入ると、声がしたので見ると、土俵で相撲の稽古をしていた。少し、ちびっこの稽古っ振りを見させていただき、その後、帰りの長旅へと出た。

桑田社

2010年11月21日 11時59分17秒 | 近畿(滋賀、京都)
■鳥居■
(22nd May 2010)



★桑田社★ 京都府亀岡市篠町馬堀東垣内3

・延喜式内社、丹波國桑田郡、桑田社、論社。

・祭は市杵嶋姫命。

・創建由緒等不詳。

・山本北条の桑田社の市杵島姫命は、対岸の請田社よりの勧請といわれるが、當社からの勧請という傳承も殘る。


■社殿■
(22nd May 2010)



((コメント))

2010年5月22日

 當社は馬堀駅近くに鎭座する。車が停めれないかな、と思ったが、強引に公民館の前に停めさせていただき、境内へ入った。境内には、小祠を二つ見つけただけである。式内社の論社だそうであるが、如何なのであろうか。『篠村史』によると、こちらが本社で、もう一つの桑田社が分祀のように書かれているらしいが、何せ、小祠が置かれているだけであり、難しい。ただ、以前に水害などで破壊されてこういう形になっているかもしれない土地柄であるので、そういう可能性も否定できないところである。


摩氣社

2010年11月21日 11時51分20秒 | 近畿(滋賀、京都)
■胎金寺山と傳舊社地■
(22nd May 2010)



★摩氣社★ 京都府南丹市園部町大字竹井字宮ノ谷1


・延喜式内社、丹波國船井郡、麻氣社、名大。

・舊社格は府社。

・祭は大御饌津彦命。

・創建年代不詳。

・丹波國唯一の北面する社として知られ、谷口を扼するかたちの現在地よりずっと奥の山裾に鎭座していたとの所傳がある。

・古墳等の遺跡はいまのところ當社付近には発見されていないが、園部川と二つの支流域に広がる氏子地域には、十四基を数える安谷古墳群(口人)をはじめとして古墳が散在、また古錢出土地もあることから、早くから開けた土地であったと推測される。

・『新抄格勅符抄』封部に「摩氣 一戸 丹波國 護景雲四年(770)」と神戸のことがみえている。

・延喜十七年(917)四月二十七日の「丹波國某長解」(『平安遺文』)に追記された保証人の中に、「麻氣祝部大宅」の名が認められ、大宅氏が有力者であったことを示唆する。

・近世に當社別當寺であった胎金寺(廃亡)の本寺である九品寺の『吉祥山縁起』によると、承暦三年(1079)、白河院が九品寺の伽藍を修造した際、鎭守摩氣社に對し、「船井第一麻氣大社」の額を下賜し、祭禮を復興したという。

・江戸時代には、摩氣十一ヶ村の總鎭守とされ、園部藩の祈願所となり、その援助を受けた。十一ヶ村については、城南町、横田、黒田、船坂、半田、口人、口司、大西、宍人、仁江および口八田で、これに宮本の竹井を加えた十二地区が氏子地域であるが、舊村単位で擧げると、竹井が摩氣、上新江、篠田の三ヶ村、横田も同じく、上、下、南横田の三ヶ村に分かれていたように、合わせて二十一ヶ村に達する。それぞれの地区に氏を祀るが、その数は十四社。この中で、口司の鏡社、口人の吉備社、春日社の三社は南大谷の籔田社の末社とされ、摩氣社の祭禮に參加せず、都合十一社となる。つまり、摩氣十一ヶ村とは摩氣十一社を意味する。

・宮本の舊摩氣村では當社があるために、他の村のように氏がなく、當社が「氏」であり、「村氏」であり、「總鎭守」であるという三層の重層構造を持つ。丹波國には、このような例が多々みられるが、當社はその典型とされている。

・祭祀が近世における摩氣十一ヶ村で行われ、園部、龜山両藩領にまたがり、藩政の枠を越えている事からも、この祭祀が中世に由来する一證とされる。

・現在の本殿、攝社、絵馬舎(舊拜殿)は明和四年(1767)、小出英持の建立。
 

■社號標■
(22nd May 2010)
 

・「延喜式内麻氣大社」とある。


■鳥居■
(22nd May 2010)
 


■門■
(22nd May 2010)



■門扁額■
(22nd May 2010)
 


■社殿全景■
(22nd May 2010)
 


■拜殿■
(22nd May 2010)
 


■本殿および本殿覆い屋■
(22nd May 2010)
 
 

 京都府指定文化財


■東攝社■
(22nd May 2010)


 京都府指定文化財


■西攝社■
(22nd May 2010)


 京都府指定文化財


■絵馬殿■
(22nd May 2010)
 


■宮遙拜所■
(22nd May 2010)
 


■末社四社殿■
(22nd May 2010)
 

・向かって左より、塞社、琴平社、山王社、稻荷社。


■泉■
(22nd May 2010)
 


((コメント))

2010年5月22日

 この日の主目的地の一つである摩氣社である。實は、摩氣橋の付近から山のほうに割りと入らないといけないと思っていたのだが、まったくそういうわけでなく下のほうにあったので拍子抜けした。舊社地はもっと奥まったところにあったとされるので、自分が行く前にぼんやりと見えていた姿はそのときの姿なのかもしれない。明らかに體が胎金寺山とされているわけではないが、鎭座地から考えると、山を祀っていた氣がしないでもないが、謎である。特に、山中に磐座があるとか、古代祭祀跡があるということも聞いたことがないので、なんとも言いかねるが。山とは別に、眞名井があり、祀ったのかもしれないが。謎に興味がある。

 あまり、域にしさというものは正直感じなかったのであるが、社殿の美しさに、絶句した次第である。ちなみに、宮司さん宅も美しく、羨ましいかぎりであった。