の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

阿太加夜社

2010年11月27日 13時53分14秒 | 中国(鳥取、島根)
■龍蛇■
(12th June 2010)



★阿太加夜社★ 島根県八束郡東出雲町出雲郷

・祭は阿太加夜奴志多岐喜比賣命。國之底立命、須佐之男命、淤母陀流命、阿志古泥命を配祀。

・『出雲國風土記』(天平五年(733))記載の阿太加夜社に比定。

・創建年代不詳。

・通稱芦大明。

・官を繼承してきた松岡家は、慶長年間、松江城築城の際その祈禱力を発揮し、松江城山稻荷社の官も兼任、同稻荷社との間におこなわれた幸式「ホ-ランエンヤ」は、日本三大船事として有名である。


■手水舎■
(12th June 2010)
 


■隨門■
(12th June 2010)
 


■拜殿■
(12th June 2010)
 


■幣殿、本殿■
(12th June 2010)
 


■末社雨風社■
(12th June 2010)


・祭は奥津彦命、奥津姫命、級長津彦命、級長津姫命。


■末社稻荷社■
(12th June 2010)
 

・祭は宇火之魂命。


■末社兵庫社■
(12th June 2010)


・祭は松岡兵庫頭。


((コメント))

2010年6月12日

 地名からして、古代の出雲國に關連しているであろう出雲鎭座の古社阿太加夜社。この鎭座地の出雲、読み方は「いずもごう」ではなく、「あだかえ」と読み、社名と同じである。

 境内の木には、龍蛇が巻きつけられており、興味深い。社殿の形式は、他社と同じくいかにも出雲というものである。氣のほうは、それなりにある、と言える。

六所社

2010年11月27日 13時43分02秒 | 中国(鳥取、島根)
■狛犬、鳥居、境内遠景■
(12th June 2010)



★六所社★ 島根県松江市大草町

・延喜式内社、出雲國意宇郡、佐久佐社、論社。

・舊社格は縣社。

・祭は伊邪那岐命、天照皇大、月夜見命、伊邪那美命、素盞鳴命、大己貴命。元は佐久佐社といい、祭は青幡佐久佐彦命であったというが、中世になり、青幡佐久佐彦命は末社丁明社に祀られるようになったという。

・出雲國總社。

・意宇六社の一社。他の五社は、魂、熊野、揖夜、眞名井、八重垣。

・出雲國廰跡に鎭座。

・隂暦十月の有月には、全國のが、まず當社に集い、その後、佐太社へ移るという。

・出雲總社で古くは出雲國造自ら主として奉仕せられ、遷宮式には國守の代參竝出雲國造が參向する例になっていた、という。


■隨門■
(12th June 2010)
 


■拜殿■
(12th June 2010)

 


■本殿■
(12th June 2010)
 


■末社丁明社■
(12th June 2010)


・祭は青幡佐久佐彦命。


■末社王子社■
(12th June 2010)


・祭は皇産靈、皇産靈。


■祭事の名殘■
(12th June 2010)



((コメント))

2010年6月12日

 延喜式内社佐久佐社の論社のひとつである六所社。出雲國廰跡に鎭座している。論社のもう一社は八重垣社である。大草(さくさ)か佐草(さくさ) か、ということであるのだが、よくはわからない。個人的に、八重垣社にその重みを感じないというのが本音であるが、どうも、そちらのほうが有力な論社であるらしい。ただ、國廰跡がこの地にあったということで、當社が元々、この國廰に隣接する地に鎭座していたのならば、當社が總社である可能性がく、故に、古來より鎭座していたことにもなり、式内社の可能性もくなろうと思うのである。個人的には、建物もいい感じで、重厚さが傳わるので好きなところである。

切通瀧

2010年11月27日 13時22分46秒 | 
■切通瀧■
(12th June 2010)



★切通瀧★ 島根県松江市八雲町日吉

 江戸時代の初めまで、日吉村では意宇川が毎年氾濫し、多くの死者や田畑の損害を出して村は壊滅状態にあった。原因は意宇川がこの日吉地区で劔山という岩山に行く手を阻まれ、劔山の山裾を回る形で大きく蛇行しているためであった。村の大百姓周藤彌兵衛家正が、川がまっすぐ流れるように劔山を開削するようにと松江藩に陳情したが、「小さな村にそのような大工事はどうか」となかなか決まらなかったが、名君といわれた藩主松平直正が取り上げ、三年かけて劔山は切り抜かれ、意宇川はまっすぐ流れるようなった。しかし、切り抜かれた幅が狭く、その後も何度も氾濫が起き、切通しの幅を広げるよう藩に陳情したが、財政難を理由に取り上げられなかった。家正の陳情による工事のg五十二年後、当時五十六歳になる家正の孫の彌兵衛良刹は、藩の支援を待っていたら永久にできないと考え、私財を投じ、切通しを拡大することを決意して工事を開始、私財が底をついて人を雇う事ができなくなると、一人で鑿を持って岩を削るなどの苦労の末、四十二年かけ、延亨四年(1747)に切通しの拡張を完成させた。時に良刹九十七歳であったという。


((コメント))

2010年6月12日

 地図には「切通の滝」とだけ書かれている劔山山麓の意宇川の一部。劔山に鎭座の劔社に行くための目安となる位置にあるのだが、實は、村のために一人、命をかけて、工事をした方の遺した遺産ともいうべき所なのである。義民に相當する人である。

出雲國一之宮熊野大社上の宮跡

2010年11月27日 13時12分39秒 | 中国(鳥取、島根)
■熊野大社元宮遙拜所■
(12th June 2010)
 


★出雲國一之宮熊野大社上ノ宮跡★ 島根県松江市八雲町熊野

・延喜式内社、出雲國意宇郡、熊野坐社、名大。

・舊社格は國幣大社。

・祭は熊野大櫛御氣野命、亦の名素盞嗚尊という。『延喜式』に収める「出雲國造賀詞」には「伊射那伎乃日眞名子加夫呂伎熊野大櫛御氣野命」とあり、「靈妙なる御食つ」という意味の名が明記されている。

・『出雲國風土記』にある出雲四大の一。他の三大は杵築、佐太、野城。

・古來より、杵築大社(現出雲大社)の上位に置かれていた。

・鎌倉時代頃までは一之宮の稱は當社が與えられていたが、鎌倉期以降は杵築大社に移ったようである。

・『和名抄』によると、熊野の「くま」は「久万之禰」の「くま」とし、すなわち米の意に通じる。また、「隈隈しい」所という意味の「隈」と考えられている。

・本居宣長は『古事記傳』以降、紀伊と出雲の熊野について、本末關係を説明しようとする向きが多いが、實際、『延喜式』名帳において、熊野坐社、熊野社が、出雲、紀伊、丹後、越中、近江と、出雲、紀伊の二か國に留まらず、この關係は成立しないと思われる。

・元宮は海抜六百十メートルの天狗山にあり、風土記の記す「熊野山」とされる。

・『出雲國風土記』では熊野大社とされていたが、『延喜式』名帳では熊野坐社と記された。

・社傳では熊野村の住人が紀伊國に移住したときに分靈を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとし、往古、出雲で炭焼きを業としていた有馬氏が遙か紀の國に移動したというが、三重県熊野市の有馬は榎本が本姓であり、元々、熊野の海人族と考えられている上に、出雲國との關連がある傳承は皆無である。その上、天文十一年(1542)の大内氏の富田城攻撃の際に社殿が全燒し、明治六年(1873)の意宇川の氾濫により社地の一部が流され、文書類は消失したというのに社傳が殘っているというのもまた奇なことである。また、この社傳は、平安の末頃から始まる紀州の熊野の進出により、創建された熊野社が「熊野上ノ宮」と呼ばれるようになったことに対抗するものであると思われる。

・現熊野大社(熊野下ノ宮)が古來よりの熊野大社と考えられているが、近世、現熊野大社社地の上手約一町のところに紀州系の熊野社が建てられ、上ノ宮が建てられ、下ノ宮の祭は天照大となっていたが、これは、紀州系への対抗策であったと考えられている。

・明治維新に至り、社整理が行われたときに當社も上下の宮を一本化し、「熊野社」と改めた。明治十年(1877)には、舊上ノ宮を伊邪那美社と改稱し、これと下ノ宮前面にあった稻田社とを攝社とし、本殿の両側へと遷した。昭和五十二年(1977)、社名を熊野大社と改めた。

・中世以來の文書に見える社家は鈴木氏と稱し、のちに熊野氏と改稱。明治維新まで続くが、明治の國家管理時代に入ってからは官選宮司となり、現在では出雲大社の千家教統がこれを兼務している。


■上の宮跡境内■
(12th June 2010)



・向かって左より事解男社跡、伊邪那美社跡、速玉男社跡、五所社跡、八所社跡。


■事解男社跡■
(12th June 2010)
 


■伊邪那美社跡■
(12th June 2010)
 


■速玉男社跡■
(12th June 2010)
 


■五所社跡■
(12th June 2010)
 


■八所社跡■
(12th June 2010)
 


■明見水と巨磐■
(12th June 2010)

 

・享保二年(1717)、黒澤長尚等により著された地誌『雲陽誌』に「此所岩壁なり。落水あり。明見水といふ。眼病を洗ふときは明をうるといひたふ」とあり、古くから眼病に利くといわれた。
・産婦がこの水を服すと母乳が満ち足りるという言い傳えが殘る。


■久米社跡■
(12th June 2010)
 


■祓所■
(12th June 2010)
 


■元宮遠景(天狗山)■
(12th June 2010)
 

・向かいに聳える最もい山である天狗山に元宮があったとされる。


((コメント))

2010年6月12日

 平成十九年末に行ったときに上ノ宮跡へ行かなかったので、今回は、行くことを目的にこの熊野の地へやってきた。上ノ宮跡には紀州熊野のが祀られていたようであるが、山上に天狗山元宮遙拜所が置かれているので、元元、信仰の土壌があり、おそらく、それゆえに紀州熊野のや久米のなどが勧請されたのであろう。雰囲氣はよいところであったが、やはり、下ノ宮のほうが社として荘厳であるようである。

多太社

2010年11月27日 12時52分48秒 | 中国(鳥取、島根)
■鳥居、門■
(12th June 2010)
 


★多太社★ 島根県松江市岡本町

・祭は衡桙等乎與留比古命。『出雲國風土記』に出てくる素盞嗚の子の武という。

・『出雲風土記』の秋鹿郡多太に「衝桙等乎与留日子命、國巡行でましし時、此処に到りまして詔りたまひしく、吾が御心は、照明く正眞しく成りぬ。吾は此処に靜まり坐さむと詔りたまひて、靜まり坐しき。故、多太という。」とある。


■社號標■
(12th June 2010)
 


■門、拜殿■
(12th June 2010)
 


■本殿■
(12th June 2010)
 


■末社■
(12th June 2010)
 


■末社石祠■
(12th June 2010)
 


((コメント))

2010年6月12日

 周りは農作業をされている老人が数人見えるだけの長閑な地であり、そこに静かに佇んでいるのが多太社である。小さいながらも隨門もあるしっかりとした形式の境内で好感の持てる社である。

 祭や風土記の傳承に關してはわからない。ただ、これは、スサノオを長髓彦として、紀伊、大和より落ちてきた古代イズモ族の首長たちが出雲に落ち着くための戰いの傳承と、その首長たちが風土記で言うスサノオの子というのは穿った見方過ぎるかな。