の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

駿河國一之宮富士山本宮淺間大社

2010年11月27日 19時33分57秒 | 中部(静岡、愛知、岐阜)
■樓門■
(10th June 2008)
 


★駿河國一之宮富士山本宮淺間大社★ 静岡県富士宮市宮町1-1

・延喜式内社、駿河國富士郡、淺間社、名大。

・舊社格は官幣大社。

・祭は木花之佐久夜毘賣命。天津日日子番能邇邇藝命と大山津見命を配祀。本來の祭は富士山の靈「淺間大」で、いつごろからか木花之佐久夜毘賣命と同一視され、定着したという。

・日本國内に千三百余にのぼる淺間社の總本宮で、大宮淺間とも言われる。

・本宮の名稱は、静岡淺間社の舊通稱淺間新宮を踏まえたものであるという。

・富士山の八合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、淺間大社の境内とされ、國との裁判の末、最裁判所が認めた。

・現社地は、式内富知社舊社地と傳えられる。

・第七代孝靈天皇の時に富士山が噴火し國中が荒れ果て、その後、十一代垂仁天皇が富士山の靈「淺間大」を鎭めるために、山宮の地に祀ったのが當社の始まりと伝わり、大同元年(806)、征夷大將軍坂上田村麻呂が勅を奉じ、山宮より、現社地である富知社舊社地へと遷したという。山宮の位置は、富士山表參道を現社地より、五キロメートルほど登った位置にあり、社殿のない磐境であったという。

・中世以降、武家の尊崇篤く、源朝をはじめとして源實朝、北條義時、足利尊氏、武田勝、中村一氏、豐臣秀吉らによる社領寄進、社殿造営と修復などが相次ぎ、川家康も朱印地を安堵、關が原の勝利を謝して慶長四年(1604)に社殿を再建した。


■二の鳥居■
(10th June 2008)



■流鏑馬銅像■
(10th June 2008)



■樓門■
(10th June 2008)



■鉾立石■
(10th June 2008)


・明治以前の春秋の大祭時に、靈を宿した鉾が本宮と山宮のを移動するときの休息時に鉾を安置した石。
・現在は、この石と山宮淺間社參道の二基しか殘っていないという。


■拜殿■
(10th June 2008)



■拜殿、本殿■
(10th June 2008)



■本殿■
(10th June 2008)


 國重要文化財

・川家康が關が原の戦いの勝利の御礼により寄進し造営されたものという。
・豪華なものであったのだが、寛永安政などの大地震のため倒壊し、現存するのは本殿と幣殿、拜殿、樓門のみという。
・『淺間造(二重樓閣造り)』という二階建ての獨特な造りをしている。


■攝社七之宮淺間社■
(10th June 2008)



■攝社三之宮淺間社■
(10th June 2008)



■末社水屋社■
(10th June 2008)



■湧玉池■
(10th June 2008)




 國特別天然記念物

・靈峰富士の雪解け水が溶岩のから川湧き出ている。
・水温は年間を通し、大体、約攝氏十三度。湧水量は一秒間に約3.6キロリットルで、年間ほぼ増減はない。
・昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清淨を唱えながら登山する慣わしだという。


■富士山■
(19th May 2009)
 


((コメント))

2008年6月10日

 實際、社そのものには何も感じないというか、御氣のかけらもないのであるが、富士山自体が偉大なのでその靈力が滿ち溢れる感じである。拜殿の中は多少派手な感じではあるが、少し「錢がありますねん」という意思表示に見える。個人的には、卑しさしか感じない。

 現在は立派な鳥居が再建されているのだが、他の宗教はすべて罵倒する権力だけの團体創価學会のクレームにより一度撤去されているのは嘆かわしい限りだ。


2009年5月19日

 本栖湖の畔からしき富士を望む。流石である。


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