■二の鳥居■
(16th December 2008)
★河内國一之宮枚岡社★ 大阪府東大阪市出雲井町7-16
・延喜式内社、河内國河内郡、枚岡社四座、竝名大、月次相嘗新嘗。
・舊社格は官幣大社。
・祭は天兒屋根大(第一殿)、比賣大(第二殿)、武甕槌大(第三殿)、齋主大(第四殿)を配祀。
・護景雲ニ年(768)、奈良に春日大社を創建するにあたり、當社の祭二柱を分祀したことから、元春日社と呼ばれることになる。寶龜九年(778)には春日大社から武甕槌命と齋主命(經津主命)の二の分靈を奉齋した。
・舊社地に關しては二説あり、一つは、隣郡讃良郡枚岡より遷されたというもの、もう一説は社傳で、奥宮のある津嶽頂上が天兒屋根と比賣鎭祭の地(舊社地)とするもの。
・社傳によれば、武天皇紀元前三年(紀元前663)、天種子命が勅命により、津嶽に天兒屋根大および比賣大の二を祀ったのが、當社の創祀とされる。
・社傳によると、孝天皇の御代、白雉元年(650)、山麓の現在地に遷座という。
・藤原不比等直系の藤原氏ではない、傍流の中臣連氏。
・藤原氏は、春日大社に中臣氏祖である天兒屋根と比賣を勧請したにも關わらず、四座の下位におき、さらに、鹿島宮にしばしば鹿島使をたて奉幣し、その後、香取宮を参拜するのを例としたが、藤原氏氏人が中臣氏氏である當社を特別に參詣した記録はないとされる。
・社家は中臣意美麻呂の子清麻呂の直系がつとめた。中世以降は中臣氏系平岡連
後裔を稱す水走氏が宮司、鳥居氏が禰宜として奉祀。水走氏は土豪として勢力をもち、近世までに及んだ。
・社殿が出雲井を稱する靈泉の直上に建てられていたことから、宮井義雄氏は、原初の靈泉信仰を想起させるのに重要な地理的条件であるとする。
■元春日平岡大社社號標■
(16th December 2008)
■參道■
(16th December 2008)
■一の鳥居■
(16th December 2008)
■拜殿■
(16th December 2008)
■中門■
(16th December 2008)
■本殿■
(16th December 2008)
■攝社若宮社■
(16th December 2008)
・祭は天兒屋根命御子天押雲根命。
■白水井■
(16th December 2008)
■末社天地祇社■
(16th December 2008)
・明治期に合祀された諸社の祭を祀る。
((コメント))
2008年12月16日
近鉄の駅を降りたすぐに、元春日平岡大社の文字を刻む社號標があり、その先を進むと枚岡社が鎭座していた。いった時期が十二月半ばにも關わらず、季節がおかしいのか、參道の一部、色づいた葉が綺麗であった。社自體は奈良の片田舎で育っている私にとっては一之宮であろうと、名大社であろうと平凡という感想以外出てこないのは、決して大げさなものではない。何ゆえの一之宮かわからないのである。
ところで、少し、藤原と中臣について。中臣鎌足という人が氏の間際に藤原姓を授けられたのであるが、實は、その死後、もう一度、不比等に対して賜姓藤原氏が行われている。實はここに少し柵(しがらみ)がある。枚岡神社の社家に關して名が出てくる中臣意美麻呂、彼は、鎌足の娘婿であり、その養子となっている。意美麻呂の父國足と鎌足は従兄弟とされる。つまり、國足の父國子は御食子の弟に當たるのである。鎌足に藤原姓が與えられたとき、中臣一族も藤原姓を名乗り始めたので、不比等にもう一度藤原姓を与え、不比等の子孫のみに限定したというのであるが、これは意美麻呂系に藤原姓を名乗らせないようにするために行われているのである。区別したわけである。そして、ここの差が春日大社に対する天兒屋根命、及び比賣命の格にも現れているわけであり、また、藤原氏が中臣連氏を參詣しないことにも繋がっている。そもそも、不比等は天智天皇の落胤というのであり、尚のこと藤原氏に天兒屋根命、比賣命は關係がないわけである。
ところで、神奈備さんがHPで、藤原不比等について述べられていたのであるが、少し、鎌足の長子定慧に対する見解が少し淺いのではないか、と思うので一言。定慧の出家を、天智の落胤である不比等に結び付けているのだが、それはいささか疑問符がつくところなのである。それは、出家という点である。これが平安時代などの話であれば大いに頷ける話であるのだが、鎌足は一応中臣氏とされている。佛教が入って来た時に廃佛のために戰ったのが、物部と中臣なのであり、中臣は道の家柄なのである。その佛教との戰いからそう時代を經ていないときに、中臣の御曹司が敵對した佛教の道に、そういう目的ではいるのであろうか、ということなのである。定慧は十歳になるかならないかのうちに出家し、遣唐使として留学しているのである。それは、不比等が生まれる六年前の話である。つまり、出家に不比等の存在は關係ないということになる。この出家は遣唐使として受け入れられやすくするためであったというのが、最も考えやすいところであるので、枚岡社には關係ないことである。
(16th December 2008)
★河内國一之宮枚岡社★ 大阪府東大阪市出雲井町7-16
・延喜式内社、河内國河内郡、枚岡社四座、竝名大、月次相嘗新嘗。
・舊社格は官幣大社。
・祭は天兒屋根大(第一殿)、比賣大(第二殿)、武甕槌大(第三殿)、齋主大(第四殿)を配祀。
・護景雲ニ年(768)、奈良に春日大社を創建するにあたり、當社の祭二柱を分祀したことから、元春日社と呼ばれることになる。寶龜九年(778)には春日大社から武甕槌命と齋主命(經津主命)の二の分靈を奉齋した。
・舊社地に關しては二説あり、一つは、隣郡讃良郡枚岡より遷されたというもの、もう一説は社傳で、奥宮のある津嶽頂上が天兒屋根と比賣鎭祭の地(舊社地)とするもの。
・社傳によれば、武天皇紀元前三年(紀元前663)、天種子命が勅命により、津嶽に天兒屋根大および比賣大の二を祀ったのが、當社の創祀とされる。
・社傳によると、孝天皇の御代、白雉元年(650)、山麓の現在地に遷座という。
・藤原不比等直系の藤原氏ではない、傍流の中臣連氏。
・藤原氏は、春日大社に中臣氏祖である天兒屋根と比賣を勧請したにも關わらず、四座の下位におき、さらに、鹿島宮にしばしば鹿島使をたて奉幣し、その後、香取宮を参拜するのを例としたが、藤原氏氏人が中臣氏氏である當社を特別に參詣した記録はないとされる。
・社家は中臣意美麻呂の子清麻呂の直系がつとめた。中世以降は中臣氏系平岡連
後裔を稱す水走氏が宮司、鳥居氏が禰宜として奉祀。水走氏は土豪として勢力をもち、近世までに及んだ。
・社殿が出雲井を稱する靈泉の直上に建てられていたことから、宮井義雄氏は、原初の靈泉信仰を想起させるのに重要な地理的条件であるとする。
■元春日平岡大社社號標■
(16th December 2008)
■參道■
(16th December 2008)
■一の鳥居■
(16th December 2008)
■拜殿■
(16th December 2008)
■中門■
(16th December 2008)
■本殿■
(16th December 2008)
■攝社若宮社■
(16th December 2008)
・祭は天兒屋根命御子天押雲根命。
■白水井■
(16th December 2008)
■末社天地祇社■
(16th December 2008)
・明治期に合祀された諸社の祭を祀る。
((コメント))
2008年12月16日
近鉄の駅を降りたすぐに、元春日平岡大社の文字を刻む社號標があり、その先を進むと枚岡社が鎭座していた。いった時期が十二月半ばにも關わらず、季節がおかしいのか、參道の一部、色づいた葉が綺麗であった。社自體は奈良の片田舎で育っている私にとっては一之宮であろうと、名大社であろうと平凡という感想以外出てこないのは、決して大げさなものではない。何ゆえの一之宮かわからないのである。
ところで、少し、藤原と中臣について。中臣鎌足という人が氏の間際に藤原姓を授けられたのであるが、實は、その死後、もう一度、不比等に対して賜姓藤原氏が行われている。實はここに少し柵(しがらみ)がある。枚岡神社の社家に關して名が出てくる中臣意美麻呂、彼は、鎌足の娘婿であり、その養子となっている。意美麻呂の父國足と鎌足は従兄弟とされる。つまり、國足の父國子は御食子の弟に當たるのである。鎌足に藤原姓が與えられたとき、中臣一族も藤原姓を名乗り始めたので、不比等にもう一度藤原姓を与え、不比等の子孫のみに限定したというのであるが、これは意美麻呂系に藤原姓を名乗らせないようにするために行われているのである。区別したわけである。そして、ここの差が春日大社に対する天兒屋根命、及び比賣命の格にも現れているわけであり、また、藤原氏が中臣連氏を參詣しないことにも繋がっている。そもそも、不比等は天智天皇の落胤というのであり、尚のこと藤原氏に天兒屋根命、比賣命は關係がないわけである。
ところで、神奈備さんがHPで、藤原不比等について述べられていたのであるが、少し、鎌足の長子定慧に対する見解が少し淺いのではないか、と思うので一言。定慧の出家を、天智の落胤である不比等に結び付けているのだが、それはいささか疑問符がつくところなのである。それは、出家という点である。これが平安時代などの話であれば大いに頷ける話であるのだが、鎌足は一応中臣氏とされている。佛教が入って来た時に廃佛のために戰ったのが、物部と中臣なのであり、中臣は道の家柄なのである。その佛教との戰いからそう時代を經ていないときに、中臣の御曹司が敵對した佛教の道に、そういう目的ではいるのであろうか、ということなのである。定慧は十歳になるかならないかのうちに出家し、遣唐使として留学しているのである。それは、不比等が生まれる六年前の話である。つまり、出家に不比等の存在は關係ないということになる。この出家は遣唐使として受け入れられやすくするためであったというのが、最も考えやすいところであるので、枚岡社には關係ないことである。