の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

河内國一之宮枚岡社

2010年11月01日 04時24分47秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■二の鳥居■
(16th December 2008)



★河内國一之宮枚岡社★ 大阪府東大阪市出雲井町7-16

・延喜式内社、河内國河内郡、枚岡社四座、竝名大、月次相嘗新嘗。

・舊社格は官幣大社。

・祭は天兒屋根大(第一殿)、比賣大(第二殿)、武甕槌大(第三殿)、齋主大(第四殿)を配祀。

・護景雲ニ年(768)、奈良に春日大社を創建するにあたり、當社の祭二柱を分祀したことから、元春日社と呼ばれることになる。寶龜九年(778)には春日大社から武甕槌命と齋主命(經津主命)の二の分靈を奉齋した。

・舊社地に關しては二説あり、一つは、隣郡讃良郡枚岡より遷されたというもの、もう一説は社傳で、奥宮のある津嶽頂上が天兒屋根と比賣鎭祭の地(舊社地)とするもの。

・社傳によれば、武天皇紀元前三年(紀元前663)、天種子命が勅命により、津嶽に天兒屋根大および比賣大の二を祀ったのが、當社の創祀とされる。

・社傳によると、孝天皇の御代、白雉元年(650)、山麓の現在地に遷座という。

・藤原不比等直系の藤原氏ではない、傍流の中臣連氏。

・藤原氏は、春日大社に中臣氏祖である天兒屋根と比賣を勧請したにも關わらず、四座の下位におき、さらに、鹿島宮にしばしば鹿島使をたて奉幣し、その後、香取宮を参拜するのを例としたが、藤原氏氏人が中臣氏氏である當社を特別に參詣した記録はないとされる。

・社家は中臣意美麻呂の子清麻呂の直系がつとめた。中世以降は中臣氏系平岡連
後裔を稱す水走氏が宮司、鳥居氏が禰宜として奉祀。水走氏は土豪として勢力をもち、近世までに及んだ。

・社殿が出雲井を稱する靈泉の直上に建てられていたことから、宮井義雄氏は、原初の靈泉信仰を想起させるのに重要な地理的条件であるとする。


■元春日平岡大社社號標■
(16th December 2008)
 


■參道■
(16th December 2008)
 


■一の鳥居■
(16th December 2008)
 


■拜殿■
(16th December 2008)



■中門■
(16th December 2008)



■本殿■
(16th December 2008)
 


■攝社若宮社■
(16th December 2008)
 

・祭は天兒屋根命御子天押雲根命。


■白水井■
(16th December 2008)
 


■末社天地祇社■
(16th December 2008)


・明治期に合祀された諸社の祭を祀る。


((コメント))

2008年12月16日

 近鉄の駅を降りたすぐに、元春日平岡大社の文字を刻む社號標があり、その先を進むと枚岡社が鎭座していた。いった時期が十二月半ばにも關わらず、季節がおかしいのか、參道の一部、色づいた葉が綺麗であった。社自體は奈良の片田舎で育っている私にとっては一之宮であろうと、名大社であろうと平凡という感想以外出てこないのは、決して大げさなものではない。何ゆえの一之宮かわからないのである。

 ところで、少し、藤原と中臣について。中臣鎌足という人が氏の間際に藤原姓を授けられたのであるが、實は、その死後、もう一度、不比等に対して賜姓藤原氏が行われている。實はここに少し柵(しがらみ)がある。枚岡神社の社家に關して名が出てくる中臣意美麻呂、彼は、鎌足の娘婿であり、その養子となっている。意美麻呂の父國足と鎌足は従兄弟とされる。つまり、國足の父國子は御食子の弟に當たるのである。鎌足に藤原姓が與えられたとき、中臣一族も藤原姓を名乗り始めたので、不比等にもう一度藤原姓を与え、不比等の子孫のみに限定したというのであるが、これは意美麻呂系に藤原姓を名乗らせないようにするために行われているのである。区別したわけである。そして、ここの差が春日大社に対する天兒屋根命、及び比賣命の格にも現れているわけであり、また、藤原氏が中臣連氏を參詣しないことにも繋がっている。そもそも、不比等は天智天皇の落胤というのであり、尚のこと藤原氏に天兒屋根命、比賣命は關係がないわけである。

 ところで、神奈備さんがHPで、藤原不比等について述べられていたのであるが、少し、鎌足の長子定慧に対する見解が少し淺いのではないか、と思うので一言。定慧の出家を、天智の落胤である不比等に結び付けているのだが、それはいささか疑問符がつくところなのである。それは、出家という点である。これが平安時代などの話であれば大いに頷ける話であるのだが、鎌足は一応中臣氏とされている。佛教が入って来た時に廃佛のために戰ったのが、物部と中臣なのであり、中臣は道の家柄なのである。その佛教との戰いからそう時代を經ていないときに、中臣の御曹司が敵對した佛教の道に、そういう目的ではいるのであろうか、ということなのである。定慧は十歳になるかならないかのうちに出家し、遣唐使として留学しているのである。それは、不比等が生まれる六年前の話である。つまり、出家に不比等の存在は關係ないということになる。この出家は遣唐使として受け入れられやすくするためであったというのが、最も考えやすいところであるので、枚岡社には關係ないことである。

日御碕社

2010年11月01日 03時38分16秒 | 中国(鳥取、島根)
■遠景■
(12th June 2010)



★日御碕社★ 島根県出雲市大社町日御碕455

・延喜式内社、出雲國出雲郡、御碕社。

・舊社格は國幣小社。

・日沈宮(下の宮)祭は天照大。正哉吾勝尊、天穗日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命を配祀。

・の宮(上の宮)祭は素盞嗚尊。田心姫命、瑞津姫命、嚴島姫命を配祀。

・『出雲國風土記』出雲郡、在祇官社美佐伎社。

・一社一令社。

・『出雲國風土記』國引條にいう八穗爾支豆支乃御崎」の突端、御前浜に鎭座。

・當社は『延喜式』以前には『出雲國風土記』にのみみえて、『古事記』や六國史には記述が見られない。

・一般的な見解として、風土記における社の配列がおおむね當時の社格順であるとされるが、このとき、当社は第一の杵築大社から数えて第十二番目に記され、おそらく、本來は一地方を祀る社であったと思われる。

・社傳によると、人皇第三代安寧天皇御代、後方の隠丘にあった美佐伎社を遷したのが上の社(の宮)、村上天皇御代、天暦二年(948)、前面の經島にあった百枝槐社を遷したものが下の社(日沈宮)で、以後は両社を總稱し、日御碕大宮と稱するようになったというが、この社傳を傍證する資料は現在のところ存在しない。

・現在は、伊勢信仰に結びついた天照大を祀る日沈宮が上位視されるが、本來は、官社であったの宮が重要視されていたと考えられ、明治の社格制定の折、當社は地祇系ということで國幣小社に列せられており、の宮が意識されていたことを示すといえる。

・室町時代には幕府との關係を深め、將軍足利義政、管領細川滿元、出雲守護京極持らが名を連ねての遷宮が應永二十五年(1418)から永享五年(1433)にかけて行われた。

・戰國末期には一時衰退したが、江戸初期、當社の荒廃を嘆いた社僧順式慶雄が社殿修復を幕府に懇請した結果、寛永十四年(1637)、三代將軍川家光に認められ、幕命により、松江藩主京極忠が奉行となり「日御碕の天下普請」が始まった。忠病死後に入部した松平直政が後を繼ぎ、寛永二十一年 (1644)、完成。それらの社殿が現在に殘り、國重要文化財となっている。


■鳥居■
(12th June 2010)



■樓門■
(12th June 2010)
 

 國重要文化財


■社號標■
(12th June 2010)
 


■日沈宮(下の宮)■
(拜殿)
(12th June 2010)


 國重要文化財


(本殿)
(12th June 2010)
 

 國重要文化財


(拜殿、本殿)
 


■の宮(上の宮)■
(拜殿)
(12th June 2010)
 

 國重要文化財


(本殿)
(12th June 2010)


 國重要文化財


(拜殿、本殿)
(12th June 2010)

 


■末社群■
(12th June 2010)
 


■寶庫■
(12th June 2010)


 國重要文化財


■禊所■
(12th June 2010)
 

 國重要文化財


■井■
(12th June 2010)



■末社門客人社二殿■
(12th June 2010)



 國重要文化財


■末社荒祭宮■
(12th June 2010)



■紋石舎■
(12th June 2010)



■順式社■
(12th June 2010)


・日御碕社社殿復興に尽力した僧、權大僧都順式慶雄和尚を祀る。


((コメント))

2010年6月12日

 日御碕社、本來、余り興味がなく、平成十九年末に出雲大社に行ったときに行くことを考えすらもしなかったのであるが、後に、社殿が國重要文化財と聞き、後悔。それ以後、氣にしていたのであるが、今回ついに訪問となった。元々、この岬の北部は岩壁が多く、人が少ない寂れた地であったというが、それを想像させるような風景が美しく、そういう意味では、綺麗な社であった。ただ、社の氣は期待したほどではなく、普通の小社という感じであり、延喜式内小社であったことは當然と思われ、幕末時に杵築大社に次ぐ勢力を持っていたらしいが、特に社の格が上がったようには思われない。こう考えると、二年半前の出雲訪問時に、この社に惹かれるものを感じなかったのは、社殿が文化財というだけで、社としては、おそらく意味がなかったからなのであろう。