の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

城社

2012年01月08日 06時50分31秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■拜殿■
(15th May 2009)
 


★城社★ 埼玉県熊谷市宮町二丁目

・延喜式内社、武藏國大里郡、城社、論社。

・舊社格は縣社。

・祭は皇産靈尊。

・創建由緒等不詳だが、奈良朝以前の創祀と思われる。

・舊社殿は豐臣秀吉が小田原城を攻めた折、豐臣軍勢の石田三成、淺野長政の兵士等が忍城攻略するに當り、當社も災を被り燒失。

・現社殿は寛文十一年(1671)、忍城主阿部豐後守忠秋により伊藤伊織、野沢忠兵衞を奉行とし、甲良豐前を棟梁として造営。

・平安時代後期、熊谷次郎直實が氏としたと傳わる。


■鳥居■
(15th May 2009)
 


■手水舎■
(15th May 2009)



■拜殿■
(15th May 2009)
 
 


■本殿■
(15th May 2009)

 

■末社合殿■
(15th May 2009)


・左から伊奈利大、鹿島大と香取大、大國主大、八幡大、琴平大、そして白山大。


■常夜燈■
(15th May 2009)
 

 熊谷市指定文化財

・天保十二年(1841)の建造物。
・臺座には縣内はもとより、江戸、川崎、桐生、崎、京都などから百五十名もの紺屋の名前が奉納者として刻まれている。


■末社天社■
(15th May 2009)

 
・祭は少名彥名大。
・玉垣内の赤石は、威の宿った御石として、往古よりこれを拜借し「丈夫な歯が生えますように」との願いをこめてお食初めの儀式を行い、赤石は二個(倍にして)返納する風習が受け繼がれている。


■境内社熊野社■
(15th May 2009)
 

・永治年間、この付近一帶に猛熊が往來し、庶民の生活を脅かし悩ました折、熊谷次郎直實の父直貞がこの熊を退治し、熊野權現堂を築いたことに始まる。現在も箱田に熊野堂の石碑が殘ると言う。
・明治維新の後、熊野社と稱し、祭伊邪那岐命を祀り、明治四十年(1907)一月十四日に城社に遷座となった。さらに、同年四月二十日、熊野社社地は城社に讓與された。
・この熊野社と千形社(血形社)、そして圓照寺の關係は深く、直貞によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも傳えられる。


■小祠■
(15th May 2009)



■木の欅■
(15th May 2009)



((コメント))

2009年5月15日

 氏と言うと、先祖代代の祖を祀る氏は熊野は有馬の産田社。祖父が出てきた事から私が見つけるまでは縁が途絶えていたのだが。さらには、祖母が十津川士の娘であるが故の玉置社、本籍のある地の氏である河股社(延喜式内大社市御縣坐鴨事代主社に比定)および木葉社(延喜式内社川股社三座に比定) 、そして、父方祖母系の曾祖母が氏族棚田家の名跡を繼ぐために養女に行く前の實家熊谷家の氏であるこの城社。延喜式内社であるから創建は古いのだが、後にこの地に住した桓武平氏平直方の後裔熊谷次郎直實が氏として崇敬したのに始まる縁である。

 當初は熊谷に宿泊し、次の日の朝に行く予定であったのだが、結局は時があったのでホテルに行く前に立ち寄った次第である。境内に車を停めさせて貰った。

 ま、やはり、大和や紀伊、熊野の社と比べると物足りない。が、嬉しい事に、木木が社殿周辺の雰囲氣を損なわない程度に殘されていたので、なんとなく、昔の名殘がかろうじて殘されているようではあった。


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