■拜殿■
(24th April 2009)
★北野天滿宮★ 京都府京都市上京区馬喰町
・二十二社の下八社の一。
・舊社格は官幣中社。
・祭は菅原道眞。中將殿(長男菅原視)、北方吉祥女(正室)を配祀。
・北野社とも言う。
・延喜三年(903)、大宰府に左遷された菅原道眞が死沒。『日本紀畧』の記述によると、その怨靈が延喜二十三年(923)、道眞左遷の命を下した醍醐天皇皇太子保明親王が二十一歳の若さで死に至らしめたため、人人を大いに恐れさせた、とある。そのため、翌年、道眞を元の右大臣に復させ、正二位追贈、さらに年號も變えたが、怨靈は鎭まることなく、さらには醍醐天皇皇太孫慶王が五歳で死沒、涼殿への落雷、大納言藤原貴、右中辨平希世の燒死、さらに醍醐天皇が讓位まもなく薨去したこともあり、道眞を雷と結びつけて考えられるようになったという。そして、道眞の御靈への信仰がまっていく傾向の見られる中、道眞の乳母であった多治比文子(文子の名をついだその娘とも)に道眞の託宣があり、生前、よく遊んだ右近馬場に祀るように告げたと『北野緣起』に云う。文子は始め、女性の身の上であったこともあり、自家近くに祀っていたが、天暦五年(951)、近江國比良社禰宜の良種の子、太郎丸にも同樣の託宣があったこともあり、ついに北野に遷され祀ることになったという。
・承和三年(836)二月、遣唐使のために「天地祇」を北野で祀ったことが『續日本紀』に記され、延喜四年(904)十二月、元慶年中の例に倣い、北野にて雷公を祀っており、菅原道眞が當地に祀られる以前より、雷、天を祀る地であったことが推測される。菅原道眞が雷の範疇を越え、天滿自在天をなった理由もこのことに關係が在ると思われる。
・天三年(959)、右大臣藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈して、殿を整えた後も、當社はしばしば火災にあい、再建を繰り返したという。
・中世には、菅原氏のみならず、藤原氏、足利將軍家の崇敬も篤かったというが、領が少なく經濟的には嚴しかったという。
・北野天滿宮を本所としていた麴座の麴製造の獨占権を巡るトラブルから文安元年(1444)に室町幕府軍の攻撃を受けて天滿宮が燒け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麴騒動)。
・天正十五年(1587)十月一日、境内において豐臣秀吉による北野大茶湯が催行された。
・江戸時代には道眞の御靈としての性格は薄れ、学問のとして廣く信仰されるようになり、寺子屋などで當社の分靈が祀られた。
■鳥居■
(24th April 2009)
■影向松■
(24th April 2009)
■參道■
(24th April 2009)
■樓門■
(24th April 2009)
■樂殿■
(24th April 2009)
■中門(三光門)■
(24th April 2009)
國重要文化財
■拜殿■
(24th April 2009)
國寶
■拜殿、本殿■
(24th April 2009)
國寶
■本殿■
(24th April 2009)
國寶
・本殿背後の御簾の所は、御后三柱といい、天穗日命、菅原公、菅原是善を祀る。
■廻廊■
(24th April 2009)
國重要文化財
■渡邊綱寄進燈籠■
(24th April 2009)
■松向軒■
(24th April 2009)
■末社伴氏社■
(24th April 2009)
・延喜式内社、山城國葛野郡、伴氏社、大、月次新嘗、論社。
・祭は菅原道眞母。
■末社野見宿禰社、末社豐國社、末社一夜松社合殿■
(24th April 2009)
・野見宿禰社祭は野見宿禰。
・豐國社祭は豐臣秀吉。
・一夜松社祭は一夜千松の靈。
■末社一之保社、末社奇御魂社■
(24th April 2009)
・一之保社祭は菅原大(菅原道眞)。
・奇御魂社祭は菅原道眞奇御魂。
■攝社部社■
(24th April 2009)
・祭は十川能。
■攝社白太夫社■
(24th April 2009)
・祭は渡會春彥。
■攝社老松社■
(24th April 2009)
・祭は島田忠臣。
■攝社火之御子社■
(24th April 2009)
・祭は火雷。
■末社文子社■
(24th April 2009)
・祭は菅原道眞乳母多治比文子。
■末社明社■
(24th April 2009)
・祭は天照大、豐受大。
■手向山楓樹■
(24th April 2009)
■末社合殿■
(24th April 2009)
・向って左より、崇道天皇社、吉備大臣社、櫻葉社、白太夫社、老松社、大宰少貳社、淳仁天皇社、文太夫社、藤太夫社、橘逸勢社、大門社、筭社。
■末社老松社■
(24th April 2009)
・祭は島田忠臣。
■末社地主社■
(24th April 2009)
・祭は天地祇。敦實親王、齋世親王、源英明を配祀。
■末社文子天滿宮■
(24th April 2009)
・祭は菅原大(菅原道眞)。
■境内■
(24th April 2009)
■北門■
(24th April 2009)
((コメント))
2009年4月24日
京へは何度か行ってはいたが、北野天滿宮は初訪問。菅原道眞關係には興味が皆無であったことが原因。それは今も變わらない。何故天なのだろうか、と思っていたが、この地は元元、朝廷が天地祇を祀っていた地の一つのようである。そして、政爭で破れていった人たちの祟りを鎭める爲に行われた御靈會に道眞も加わったことが天という後に結びついたのかもしれない。そういった事を考えると、この宮で最初にお參りに行くべきは、天地祇を祀る地主社であるべきなのかもしれない。
しかし、本當に怨靈だとしたら、道眞は小者だということになる。名學者にはあってほしくないことである。
(24th April 2009)
★北野天滿宮★ 京都府京都市上京区馬喰町
・二十二社の下八社の一。
・舊社格は官幣中社。
・祭は菅原道眞。中將殿(長男菅原視)、北方吉祥女(正室)を配祀。
・北野社とも言う。
・延喜三年(903)、大宰府に左遷された菅原道眞が死沒。『日本紀畧』の記述によると、その怨靈が延喜二十三年(923)、道眞左遷の命を下した醍醐天皇皇太子保明親王が二十一歳の若さで死に至らしめたため、人人を大いに恐れさせた、とある。そのため、翌年、道眞を元の右大臣に復させ、正二位追贈、さらに年號も變えたが、怨靈は鎭まることなく、さらには醍醐天皇皇太孫慶王が五歳で死沒、涼殿への落雷、大納言藤原貴、右中辨平希世の燒死、さらに醍醐天皇が讓位まもなく薨去したこともあり、道眞を雷と結びつけて考えられるようになったという。そして、道眞の御靈への信仰がまっていく傾向の見られる中、道眞の乳母であった多治比文子(文子の名をついだその娘とも)に道眞の託宣があり、生前、よく遊んだ右近馬場に祀るように告げたと『北野緣起』に云う。文子は始め、女性の身の上であったこともあり、自家近くに祀っていたが、天暦五年(951)、近江國比良社禰宜の良種の子、太郎丸にも同樣の託宣があったこともあり、ついに北野に遷され祀ることになったという。
・承和三年(836)二月、遣唐使のために「天地祇」を北野で祀ったことが『續日本紀』に記され、延喜四年(904)十二月、元慶年中の例に倣い、北野にて雷公を祀っており、菅原道眞が當地に祀られる以前より、雷、天を祀る地であったことが推測される。菅原道眞が雷の範疇を越え、天滿自在天をなった理由もこのことに關係が在ると思われる。
・天三年(959)、右大臣藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈して、殿を整えた後も、當社はしばしば火災にあい、再建を繰り返したという。
・中世には、菅原氏のみならず、藤原氏、足利將軍家の崇敬も篤かったというが、領が少なく經濟的には嚴しかったという。
・北野天滿宮を本所としていた麴座の麴製造の獨占権を巡るトラブルから文安元年(1444)に室町幕府軍の攻撃を受けて天滿宮が燒け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麴騒動)。
・天正十五年(1587)十月一日、境内において豐臣秀吉による北野大茶湯が催行された。
・江戸時代には道眞の御靈としての性格は薄れ、学問のとして廣く信仰されるようになり、寺子屋などで當社の分靈が祀られた。
■鳥居■
(24th April 2009)
■影向松■
(24th April 2009)
■參道■
(24th April 2009)
■樓門■
(24th April 2009)
■樂殿■
(24th April 2009)
■中門(三光門)■
(24th April 2009)
國重要文化財
■拜殿■
(24th April 2009)
國寶
■拜殿、本殿■
(24th April 2009)
國寶
■本殿■
(24th April 2009)
國寶
・本殿背後の御簾の所は、御后三柱といい、天穗日命、菅原公、菅原是善を祀る。
■廻廊■
(24th April 2009)
國重要文化財
■渡邊綱寄進燈籠■
(24th April 2009)
■松向軒■
(24th April 2009)
■末社伴氏社■
(24th April 2009)
・延喜式内社、山城國葛野郡、伴氏社、大、月次新嘗、論社。
・祭は菅原道眞母。
■末社野見宿禰社、末社豐國社、末社一夜松社合殿■
(24th April 2009)
・野見宿禰社祭は野見宿禰。
・豐國社祭は豐臣秀吉。
・一夜松社祭は一夜千松の靈。
■末社一之保社、末社奇御魂社■
(24th April 2009)
・一之保社祭は菅原大(菅原道眞)。
・奇御魂社祭は菅原道眞奇御魂。
■攝社部社■
(24th April 2009)
・祭は十川能。
■攝社白太夫社■
(24th April 2009)
・祭は渡會春彥。
■攝社老松社■
(24th April 2009)
・祭は島田忠臣。
■攝社火之御子社■
(24th April 2009)
・祭は火雷。
■末社文子社■
(24th April 2009)
・祭は菅原道眞乳母多治比文子。
■末社明社■
(24th April 2009)
・祭は天照大、豐受大。
■手向山楓樹■
(24th April 2009)
■末社合殿■
(24th April 2009)
・向って左より、崇道天皇社、吉備大臣社、櫻葉社、白太夫社、老松社、大宰少貳社、淳仁天皇社、文太夫社、藤太夫社、橘逸勢社、大門社、筭社。
■末社老松社■
(24th April 2009)
・祭は島田忠臣。
■末社地主社■
(24th April 2009)
・祭は天地祇。敦實親王、齋世親王、源英明を配祀。
■末社文子天滿宮■
(24th April 2009)
・祭は菅原大(菅原道眞)。
■境内■
(24th April 2009)
■北門■
(24th April 2009)
((コメント))
2009年4月24日
京へは何度か行ってはいたが、北野天滿宮は初訪問。菅原道眞關係には興味が皆無であったことが原因。それは今も變わらない。何故天なのだろうか、と思っていたが、この地は元元、朝廷が天地祇を祀っていた地の一つのようである。そして、政爭で破れていった人たちの祟りを鎭める爲に行われた御靈會に道眞も加わったことが天という後に結びついたのかもしれない。そういった事を考えると、この宮で最初にお參りに行くべきは、天地祇を祀る地主社であるべきなのかもしれない。
しかし、本當に怨靈だとしたら、道眞は小者だということになる。名學者にはあってほしくないことである。