■明池■
(9th April 2009)
★池神社★ 奈良県吉野郡下北山村大字池峯
・舊社格は社。
・祭は市杵島姬命。天兒屋根命、少彥名命を配祀。
・社頭の明池は、古くは北山川の河底であったと考えられる河蹟湖で、琵琶池とも云うが、古來、白蛇(龍)が住む地と傳えられ、當社の御體として崇められてきた。
・明池はいかなる日照りや大雨のあとも水位に変化のない祕な池であるといわれる。
・社記によると、古くは現在地から池をはさんだ北東約百五十メートルの字辻堂に鎭座していたが、元和年(1615-24)に現在地へ遷宮、舊社地にも小祠を建てて、奧宮として崇敬を續けたという。
・明治十二年(1879)の境内整備以前は池の南端が現在の鳥居前まで入り込んでおり、眞曲橋という反り橋が架けられていたという。
・傳承では、明池は里人にヌシのいる池と恐れられていたが、天武天皇の白鳳年(650-654)、役行者が大峯山から下山した際、舊社地にそのヌシを祀ったという。
・この池にまつわる民族傳承も殘り、池底の腐木が浮かんで動きまわるとき、「浮木さま」といって目出度いことのある前兆とし、天災や凶事のあるときは池が地震のように鳴動し水面に異變が起こり、社殿も搖れ動くと傳えられる。また、池中に石や不淨物を投げ込むと雷が鳴り、天變が起こるともいう。
・死人を運んで社前を通ると威を汚すということで現在も遠く池尻を迂回して通るという。
・氏子區域は、池峯、上、下池原に、元和年(1615-1623)から寺垣内、浦向、佐田、上下桑原、が加わり、明治初年(1868)には上北山村も氏子であったという。崇敬者は広く、上市、天川より遠く新宮付近まで及んでいたことが奉納石燈籠や扁額よりわかる。
■鳥居■
(9th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/11/5bed2bc68c511d21b1cb50bc0a409374.jpg)
■拜殿■
(9th April 2009)
■本殿■
(9th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/4b/96a4afe4284bf3959ef0b3d32e046a13.jpg)
■拜殿、本殿■
(9th April 2009)
■明池と小祠■
(9th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/15/af51e53c6b45b7eb367b0d17b8db7c58.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/59/7481786049b4de5b498768c1dea252d1.jpg)
((コメント))
2009年4月9日
長い、下北山村にこれといった社を見つけることができず、不思議に思っていたのだが、いわゆる、下北山村の總氏とされる池社を發見したので、行くことにした。
大きな池がありすがすがしいが、山の樣の社ではないのでなんか、自分にはわかりにくい感じであった。龍というような氣ではなかった樣に思うのだが不在であったのかね。
(9th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/64/d892f8939ef645dbfad4c4cb64535b97.jpg)
★池神社★ 奈良県吉野郡下北山村大字池峯
・舊社格は社。
・祭は市杵島姬命。天兒屋根命、少彥名命を配祀。
・社頭の明池は、古くは北山川の河底であったと考えられる河蹟湖で、琵琶池とも云うが、古來、白蛇(龍)が住む地と傳えられ、當社の御體として崇められてきた。
・明池はいかなる日照りや大雨のあとも水位に変化のない祕な池であるといわれる。
・社記によると、古くは現在地から池をはさんだ北東約百五十メートルの字辻堂に鎭座していたが、元和年(1615-24)に現在地へ遷宮、舊社地にも小祠を建てて、奧宮として崇敬を續けたという。
・明治十二年(1879)の境内整備以前は池の南端が現在の鳥居前まで入り込んでおり、眞曲橋という反り橋が架けられていたという。
・傳承では、明池は里人にヌシのいる池と恐れられていたが、天武天皇の白鳳年(650-654)、役行者が大峯山から下山した際、舊社地にそのヌシを祀ったという。
・この池にまつわる民族傳承も殘り、池底の腐木が浮かんで動きまわるとき、「浮木さま」といって目出度いことのある前兆とし、天災や凶事のあるときは池が地震のように鳴動し水面に異變が起こり、社殿も搖れ動くと傳えられる。また、池中に石や不淨物を投げ込むと雷が鳴り、天變が起こるともいう。
・死人を運んで社前を通ると威を汚すということで現在も遠く池尻を迂回して通るという。
・氏子區域は、池峯、上、下池原に、元和年(1615-1623)から寺垣内、浦向、佐田、上下桑原、が加わり、明治初年(1868)には上北山村も氏子であったという。崇敬者は広く、上市、天川より遠く新宮付近まで及んでいたことが奉納石燈籠や扁額よりわかる。
■鳥居■
(9th April 2009)
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■拜殿■
(9th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/a8/efe4c840b2e7e08d1ed9f006cf14f0cd.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/5e/ab2c27eee8977760e6aaeb3effd5d319.jpg)
■本殿■
(9th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/4b/96a4afe4284bf3959ef0b3d32e046a13.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/3b/919414745fa6f910bac4d84ccbf0712d.jpg)
■拜殿、本殿■
(9th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/c9/c1b38af7e6be5ed3bd4af5451c9a0a5b.jpg)
■明池と小祠■
(9th April 2009)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/15/af51e53c6b45b7eb367b0d17b8db7c58.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/59/7481786049b4de5b498768c1dea252d1.jpg)
((コメント))
2009年4月9日
長い、下北山村にこれといった社を見つけることができず、不思議に思っていたのだが、いわゆる、下北山村の總氏とされる池社を發見したので、行くことにした。
大きな池がありすがすがしいが、山の樣の社ではないのでなんか、自分にはわかりにくい感じであった。龍というような氣ではなかった樣に思うのだが不在であったのかね。