の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

室生龍穴社

2013年01月14日 22時55分28秒 | 近畿(奈良)
■拜殿の前の空■
(1st January 2013)
 


★室生龍穴社★ 奈良県宇陀市室生区室生1297

・延喜式内社、大和國宇陀郡、室生龍穴社。

・舊社格は村社。

・祭は靇。天兒屋根命、大山祇命、水波能賣命、須佐之男命、埴山姫命を配祀。本來の祭は善女龍王という。

・『日本紀略』弘仁九年(818)七月十四日條に「遣使山城國貴布禰社、大和國室生龍穴等処、祈雨也」とあり、古くから朝廷により祈雨のとして崇敬を受けていたことがわかる。ただし、貴布禰が社とあるのに對し、當社がただ室生龍穴とある理由は單に社殿がなかったためなのかは明らかではない。

・『三代實錄』貞觀九年(867)八月十六日條に、「大和國從五位下檉生龍穴正五位下」と記される。

・『室生山年分度者奏狀』に「寔是仙遊処。衆聖遺蹟也。即以件龍王。爲伽藍護法也。毎有旱災。臨龍王之穴池。而祈甘雨。祝言末訖。雲雨彌降。五穀忽茂。万姓感悦。」と祈雨の効驗すみやかなることが記されている。

・『室生山年分度者奏状』によると、山部王、のちの桓武天皇が病に伏した時、淨行僧五人に室生山中で延壽の法を修せしめたところ、山部王は平癒したので、賢憬が仰せを受けて山寺を創建したが、龍王の効驗がますます著しかったため、國家鎭護のとしたとある。

・『室生山年分度者奏狀』は、天應元年(781)から承平七年(937)までに二十九度、勅使や國司が龍穴に派遣されて請雨、止雨の祈禱がなされたが、その都度、効驗があったと記している。

・豐臣秀長が郡山城に入り、室生寺が興寺から離れるまで、當社も興寺の支配を受けていた。

・松山藩の領主織田氏が新しい館を建てるため當社の木を伐採したところ、一夜告の靈夢を見たので驚き、ただちに人を遣わせて伐採を中止し、「木而二不二」と刻んだ標石を境内に建てたと傳えられる。

・口碑によると、室生の賢憬が龍王の生身を拜むため龍穴に深く入ったところ、その奧に龍宮があり、机の上に法華經一巻が置かれて光を發していたのだが、そこに一人の男が現れ、賢憬に用を聞くと、龍王の生身を拜みたいと答えたため、ここでは狹いから外で会おうというので、龍穴の外で待っていると三百メートルほど離れた水面上に龍王が衣冠を着して腰から上を現したという。賢憬は地にひれ伏して拜んだがまもなく姿が消えたので、そこに龍王の姿を刻んで祈ったといい、その場所が今の龍穴社であるという。


■鳥居■
(1st January 2013)



■境内■
(1st January 2013)



■拜殿■
(1st January 2013)

 


((コメント))

2013年1月1日

 吉野から津風呂湖の北を抜け、菟田野の古市場から榛原の内牧へ抜け、國道三六九號へ入り、室生の弁財天から北へ縣道二八號を走るルートをとったのであるが上内牧から雪が積もっており、路面もかなり凍結した狀態。スタッドレスでよかった。

 寒い風が吹く中、ようやく、室生龍穴社の鳥居前へ到着。車が一臺停まっているだけでほとんど燈りも見られない。寒い、ただひたすら寒いだけである。龍が奧にいるのはわかるがあまり「怒」の狀態ではなく、ただ靜かに鎭まっている感じであった。寫眞を境内で撮っているうちに、拜殿の前の空にも龍が出てきたようであり、寫眞にエネルギー體が入ったのであるが、見える人はいかほどいるのだろうか。

 しかし、初めてである。普通、正月三箇日は參拜の爲に拜殿は戸を開けているべきものなのであるが、ここは燈りのみで拜殿は閉ざされていたのである。少し、苦言を呈したいものである。

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