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大墓公阿弖流爲および磐具公母髓之塚

2010年08月29日 20時57分52秒 | 歴史上人物の墓所
■大墓公阿弖流爲および磐具公母髓之塚■
(18th November 2007)

 

★大墓公阿弖流爲および磐具公母髓之塚★ 大阪府枚方市牧野阪二丁目

・桓武天皇の御世、大和朝廷は今の東北地方を侵略途中にあった。有名な征夷大將軍坂上田村麻呂が東北侵略の任務についていたとき。蝦夷といわれた本當のこの日本の先住民のであった民の頭領の一人が阿弖流爲であった。そして、母體はその副將であったといわれる。

・十年近く戰うも田村麻呂たちも確實な勝利を収めることができず、じりじりと寄せながらも勝負のつかない年月が續いていた。あるとき、戰の爲に傷んでいく土地を見、そこに住む民を見て、決して敗北していたわけではないのにもかかわらず、東北の地をこれ以上傷つけないために、と阿弖流爲は田村麻呂の下に投降する覚悟をしたのである。そして、母體もそれに從った。

・田村麻呂も立派な人で有名で、彼も決して勝利を収めた上での捕虜ではないのを知っていたが為に、阿弖流爲と母體の命をどうしても助命を請うたとされているが、前後の状況からすると信じがたく、むしろだまして捕虜にしたような感がある。

・桓武天皇とその周りの公卿たちはよほど度量が狹いのか、心にゆとりがないものの集まりであったのか、人の心を解せぬゆえにこの二人の北の大地の勇者を斬罪に処すことを決めたのである。

・阿弖流爲、母髓が斬られた地、眠っている地は確定していないが、この地がその論所のひとつ。


■大墓公阿弖流爲および磐具公母髓之塚■
(18th November 2007)
 


((コメント))

2007年11月18日

 實はこの前日17日に京都へ紅葉を見に行っていた。そのときに實は清水寺のライトアップにも行ったのだが、そこには阿弖流爲と母禮の碑がある。その關係かどうかは知らないが、家に帰ったあと、疲れて眠っているときに使者がやってきたのである。古代の装束を着ている男が大魔のような形相でうちのドアを叩くのである。何か不穏なものを感じ、開けたら負けだ、と思い、ドアの前で対峙していたら彼はいなくなった。そして、朝に相方にふと話すとそのあと彼は彼女のところに行ったのだとか・・・

 まあ、よくはわからないが、阿弖流爲というのがキーワードになったようで、インターネットで検索し首塚を見つけ行くこととなった・・・京阪牧野駅の近くにある河内國一之宮を自稱する(本来は、おそらく交野一之宮)片埜社にあるということであったので行った。

 首塚は、社の横の公園の中にさびしくあった・・・ 少年野球をしている子供たちがいたが、阿弖流爲や母體のことなど知る由もないのだろう。


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