の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

志摩國一之宮伊射波社

2010年06月02日 22時23分39秒 | 近畿(三重、和歌山)
■參道からの海の眺め■
(13th October 2008)



志摩國一之宮伊射波社 三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1210

・延喜式内社、志摩國答志郡、粟嶋坐伊射波社二座、並大。皇大宮別宮伊雑宮も論社とされているが、延喜式名帳では別宮として皇大宮に含まれており、別宮が延喜式名帳に記される場合は、「社」ではなく「宮」とされているため、正確には正しくない。

・舊社格は無社格。

・祭は多紀理比賣命、伊佐波登美命、玉柱屋姫命、狭依姫命。

・元々、加布良古大明、加布良古社と呼ばれていた。中世以前の記録で伊射波社と呼ばれたとする記録はない。

・創建年代は不詳であるが、千五百年以上昔から鎭座するといわれている。

・建久三年(1192)の『皇大宮年中行事』に「悪志、赤崎、加布良古明」と記される古社。

・『外宮舊樂歌』には「志摩國知久利が濱におわします惡止、赤崎、惡止九所のみまえには、あまたの船こそ浮かんだれ、艫には赤崎のり玉う。舳には大明(加布良古)のり玉う。加布良古の外峰に立てる姫小松、澤立る松は千世のためし、加布良古の沖の汐ひかば、都へなびけ、我も靡かん。加布良古の大明に遊びの上分を參らする請玉の寶殿」と見え、古えより阿久志社、赤崎社とともに有名な社であったことが推測される。

・玉垣内には丸白石が敷き詰められ、昔から漁民はこの白石を船靈として、船の中に安置し、豐漁を祈る慣習がある。白石を家に持ち帰ってはいけないが船守として持ち帰る場合は、後日必ず、二、三倍にして社地に返さねばいけないという。

・病気平癒を願うものは、深夜にただ一人でこの社を詣で、白木綿一反を敷き、待つと御體の白蛇が現れ、祈願者の頭上めがけて毒氣を吐きかけてといい、それを恐れず、こらえれば、如何なる病も平癒したと傳わる。

・昔は、鳥居が海を向いているのでわかるように、舟で海から周って、參拜されていたという。

・氏子はおらず、当地区の氏満留山社の氏子が崇敬者となっている。

 ⇒ 志摩國一之宮について


■參道から見る風景■
(13th October 2008)



■一の鳥居■
(13th October 2008)



■參道■
(13th October 2008)



■二の鳥居■
(13th October 2008)



■三の鳥居と拜殿■
(13th October 2008)



■本殿■
(13th October 2008)



■美保留■
(13th October 2008)


 子寶、安産の。石の形から、女隂を意味するようだ。漁民の村としては、性器崇拜での子孫繁榮は當然のところ。


■領有■
(13th October 2008)



 海上安全の。伊射波社の社殿から二百五十メートルほど奥に行ったところにある。おそらくは奥宮。


((コメント))

2008年10月13日

 満留山社の脇から續く、道を歩き、伊射波社を目指す。途中、のどかな自然の中を歩いていく。途中、海に出たときの景色はよかった。ちなみに、まだ午前七時ちょうどくらいだったので、人の姿は皆無。食中毒が完治しておらず、若干冷や汗をかきながら、歩いていくと、鳥居が右手下方に見え、看板があった。參拜者は、是非、下に下りて鳥居から来てください、ということであったので、それに從い、そして境内に入った。

 本殿からさらに奥には、奥宮なのだろう、領有が祀られる小さな磐座があったので行った。蜘蛛が多くて大変であったが。一之宮にふさわしい気を持っている社かどうか、というと疑問符がつくが、様が、この岬のどこかこっそりといてるという印象は殘る社ではあった。

赤間宮

2010年06月02日 22時16分06秒 | 中国(岡山、広島、山口)
■水天門■
(11th November 2008)



★赤間宮★ 山口県下関市阿弥陀寺町4-1

・舊社格は官幣大社。

・祭は安天皇。

・江戸時代までは安天皇御影堂といい、佛式により祀られていた。

・「耳なし芳一」の舞台としても知られている。

・建久二年(1191)、勅命により御陵に御影堂が建立され、建禮門院ゆかりの尼を奉仕させたのが始まりという。

・明治の佛分離により阿彌陀寺は廃され、社となって「天皇社」と改稱。

・明治八年(1875)十月七日、赤間宮に改稱、官幣中社に列格した。昭和十五年(1940)八月一日、官幣大社に昇格し赤間宮に改稱となった。


■鳥居■
(11th November 2008)



■大安殿■
(11th November 2008)




■舞台■
(11th November 2008)



■内拜殿■
(11th November 2008)



((コメント))

2008年11月11日

 壇ノ浦。九州と本州の間はこんなに近かったのか、と思うくらいのところだった。

 ここで、桓武平氏の平忠盛の子息の一族は滅亡したのか、と。源義經という『日本史上でももっとも卑怯な戦さをする男』の筆頭に上げてもいいやつの卑劣な攻め口で敗北を喫したわけだが、入水自殺や戦う中、ひどく無念を感じて死んでいったのだろう、と思わざるを得ない。おそらく、いかなる靈能者を名乗る胡散臭い人間たちが来てここで祈ろうとも、決して晴れることは無い怨みがあるはずである。

 赤間宮の境内には、この地で無念にも命を終えた平家の將たちの墓もあるのだが、墓所であそこまで寒氣が傳わってくるところは他には知らない。

雑記4 『スサノオとクシイナダヒメ』

2010年06月02日 22時06分59秒 | 雑記
 地元の傳承で、スサノオは奈良盆地の富雄に住んでいたというものがあります。さらに、八俣の大蛇は盆地が湖であったころ、天理石上から三輪山周辺にかけて住んでいたとされ、当時の産鉄民族であった可能性が高く、そうであると仮定した場合、三輪から紀州にまで広く榮えていた古代イズモ族である可能性が非常にいのでございます。武東征以前にあったものすごく榮えた王朝であるとも言われているのです。また、アマテラスを天津、スサノオを國津とするのが通常でございますが、スサノオを武東征になぞらえますると、本来、天津であるべきで、アマテラスが前王朝の姫君で、それをスサノオが娶ったのではないのだろうか、と個人的に考えており、そのほうが、意外と、話がおさまる面も多いのでございます。

 實際、三輪山の一部には出雲邑が残っております。三輪山と巻向山の間には、出雲族の居住したダンノダイラ(盆地が湖だったと考えますと、山間部の高い位置に住むことは妥当)があり、彼らの祀った磐座も殘っております。明治初期まで、彼らの大和出雲邑に殘った子孫は全員、年に一回、ダンノダイラに里帰りしたという傳承もございます。つまり、古代、大和に出雲があったのは事實なのでございます。實は、島根の出雲は、武東征により敗れた出雲族が逃げた地であるという説もございまして、そのように考えていきますと、風土記の話というのは、彼らが大和よりもっていった話であるものも多いと思わざるをえないわけなのです。實際、スサノオは出雲にゆかりが深いはずであるのに、實は出雲風土記にはあまり出てこず、謎が多いのです。スサノオの最期は出雲であったという記述が、大和の出雲であると考えますと、興味深いものが多いわけなのでございます。

 富雄には傳承で、クシイナダヒメノミコトの墓と呼ばれるところがあります。大倭宮といわれるところであり、推古女帝の時代より祭祀されているとされるところであろます。彼女の墓が奈良にあるということは、スサノオの墓も奈良のいずれかにあってもおかしくはないのではないか、ということなのでございます。スサノオを祀る愛知の津島社では、大和金剛山の方針を祀るといいまするが、實は、その線上に、大和の出雲があるますので、實は、その地を祀っていた可能性もあると思うのでございます。金剛山に關しては、古来、葛城と呼ばれている靈峰の一つではありまするが、スサノオ傳説は聞いたことがないのでございます。

金剛山葛木社

2010年06月02日 21時23分41秒 | 近畿(奈良)
■鳥居■
(23rd December 2008)



★金剛山葛木社★ 奈良県御所市高天476


・舊社格は村社。

・主祭は葛城一言主。建角身命、大山祇命、豐受比賣命、素盞嗚命、大國主神、少彦名、玉依比賣命、健御名方富命、後醍醐天皇、護良親王、楠木正成、楠木正行を配祀。

・創建年代等不明。

・古代より山岳信仰があったと思わるる。

・崇天皇の御代の創建と案内板にはあるが、確證はない。

・『葛城家系譜略』には山、山主權現社とあり、弘和元年(1381)、再興、文明四年(1472)、燒亡、翌五年再建したとある。

・農業としても信仰が篤い。


■鳥居■
(23rd December 2008)



■參道杉竝木■
(23rd December 2008)



■仁王杉■
(23rd December 2008)



■石鳥居と階段■
(23rd December 2008)



■拜殿■
(23rd December 2008)



■本殿■
(23rd December 2008)




■攝社矢刺社■
(23rd December 2008)


・祭は雄略天皇。

・雄略天皇四年(460)、雄略天皇が葛木岳(當時は葛城山と呼んだ)に猪狩りに来たところ。古事記では、全く同じ格好をした一言主の一団と出会い、雄略天皇が名を問うと「吾は惡事も一言、善事も一言、言いはなつ。葛城の一言主の大なり」と答えたため、天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主に差し上げた。一言主はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。これが日本書紀、その後の書物には、天皇と対等の身分、さらに下の身分の内容で解釈が変わっており、祀っていた賀茂氏の没落を示している。この、記紀、その他の内容に由来して建立された社。


■石■
(23rd December 2008)


 崇天皇御代、大國主が出現した石と傳わる。


■寶劍塔■
(23rd December 2008)


 後醍醐天皇と護良親王の慰靈。


■夫婦杉■
(23rd December 2008)



((コメント))

2008年12月23日

 金剛山頂上付近で葛木社の鳥居をくぐり、杉竝木を行くと、矢刺社の小祠が見える。猪を狩りに雄略天皇が来たところという。その所縁を持ち、葛木社攝社として、雄略天皇を祭に建てられたようである。

 金剛山頂のピークポイントは、葛木社境内の禁足地にあり行くことができず、葛木社を持って、一般人がいける最地となる。

 金剛山自體(古代に言う葛城山)が、仙山、靈峰として知られているため、社の境内が特に凄いということはなく、全域、同じ感じである。