の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

雑記6 『禁足地の起源の推測』

2010年06月25日 23時04分38秒 | 雑記
 かれこれ、社を周り始めて六年が過ぎております。長らく眠っていた世間で言うところの靈感というものも目を覚まさなくてもいいのに、再び覚醒してきているようでございます。祖母からの影響なのでございましょう。古えより祀られている聖地などから呼ばれたり、止められたりよくいたすのです。基本的に、それらの地は繩文、彌生より祀られている先住民のであったり、その後、侵略者として大和王朝を開いたものどもの不当な圧力に害され、殺されていった方々の眠る地であることがほとんどであります。

 特に、近畿地方には多いのでございますが先住民族系の一族が祀っておった社には磐座などのの依代になるものが多く殘っております。社に寄れば、禁足の地として、近くに行くことができない場合もございます。ここで、ふと、なぜ禁足地というものが社にはあるのであろうか、と思ったわけでございます。

 禁足地を考える前に、太古のについて少し考えてみたのでございます。なぜ、を祀ったのでしょうか?ご加護があるからでしょうか?守られていたからでしょうか?私には、正直、先住民が祀っていた社で感じる、ある共通したものが見えます。「畏怖」でございます。想像をこえる何かを感じ、それに恐れ、崇め奉ることになったのでございましょう。おそらく、地震、津波、暴風雨、などの自然災害は、の怒りであると考えられたことでしょう。そして、それを鎭める為に、丁重にお祭りをすることになったのがそもそもの始まりではないであろうか、と考えております。信濃國の物部守屋社、諏訪大社の血生臭い事などもそれを物語る一つの姿ではないであろうか、と思っております。禁足地とは、足を踏み入れてはいけない地でございますが、それは、畏怖するの住む聖なる地であるゆえ、恐れ多きことであるからなのでしょうか。個人的に、最初からそのような思想があったとは思えないのでございます。

 禁足地、の坐す地、数少なくなりましたが靈感というものを先祖より、受け繼がれておられる方々もまだ世間にはおられまして、そういった方々が何かを感じる場所と言うのが社や寺に限らず存在しております。そこに何か原因があるように思うのでございます。禁足地に入ると罰が当たるというのはよく聞く話なのですが、靈感の強い方で禁足地に入ったりしてきたことで、体が蝕まれ、生死にまで影響が及んで戰っていたりするのもいくつか聞いたりするのでございます。そこに、禁足地の謎があるのではないのか、と考えるのです。

 實は、が坐すと考えられるところはその地場に起因するのではないか、と考えております。地下より電磁波が出ているところがあり、それが脳に作用し何らかの影響を与えるのが、靈感であるのかもしれません。全てではございませんが、それは一つでしょう。それについても、強弱があるのは世の常でございます。身體に強く影響があり、生死を彷徨うことがあった可能性もございます。電磁波により、脳の変性をきたした可能性も否定はできないでしょう。何らかの事象が続き、そこから統計的にある場所に入った者にその事象が発生したというのに氣づいた可能性もあるのですね。古代の人人は、我我が思うよりも遥かに高度な知恵と思考能力を有していたのは、社についての設計や、位置からも明らかなのです。その彼らが、立ち入ると何か不吉なことが起こる、と言うことで立ち入ることを忌むようになったのが、元々の禁足地の起こりであり、その理由として考えられたのが「畏怖する」であったのではないか、と推測するのです。

 結論として、背景に「に対する畏怖」があり、地下から出る電磁波が、心身何らかの影響を与え、病気、死、精異常などが續いたことにより、その地に立ち入ってはいけないと言う思想が生まれ、そこが人々が何かを感じる地であり、その感覚を持つところがの坐す地とされたのであろう、と推し量るわけでございます。そして、それが、後世の社のもとになる祭祀の始まりであったのかもしれません。

中津大宮

2010年06月25日 22時54分34秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■鳥居■
(11th November 2008)



★中津大宮★ 大分県中津市二ノ丁1273

・祭は天照皇大、豐受大、他二柱。

・中津城跡に鎭座。

・明治十四年(1881)、伊勢宮より分靈を奉迎鎭祭し、宮豐前教會として鎭座。

・明治三十二年(1899)、宮教解散、宮奉齋会設立により、神宮奉齋会中津支部と改稱。宮大麻と宮暦領布業務を担當し豐前國總鎭守社とされた。

・昭和二十一年(1946)四月、中津大宮となり、現在に至る。


■手水舎■
(11th November 2008)



■社殿■
(11th November 2008)



((コメント))

2008年11月11日

 特別な何かを感じることは無く、ただ建物が建てられているだけで、の坐すところではない。

長谷山口坐社

2010年06月25日 22時52分02秒 | 近畿(奈良)
■奥門■
(18th April 2009)



★長谷山口坐社★ 奈良県桜井市初瀬字手力雄4593

・延喜式内社、大和國城上郡、長谷山口社、大、月次新嘗、論社。一説には、當社は手力雄社であり、長谷山口社は長谷寺に隣接する與喜天滿宮であるという。

・舊社格は村社。

・主祭は天手力雄。大山祇大、豐受大を配祀。

・元伊勢磯城伊豆加志本宮傳承地。

・泊瀬山長谷山の鎭護の。

・垂仁天皇の御代、倭姫命を御杖として、この地域の「磯城嚴橿の本」に約八ヶ月天照大を祀った時、隨としてこの地に天手力雄を、また北の山の中腹に豐秋津姫命を祀る二柱を鎭座させたという。

・中世には天手力雄明を敬う明講がうまれ、明信仰は今も續く。

・本殿東の山上には磐境があり、ここより東約四百米の南面山麓に横穴式古墳が殘る。


■橋■
(18th April 2009)



■伊勢磯城伊豆加志本宮傳承地石碑■
(18th April 2009)
 


■末社水■
(18th April 2009)



■參道■
(18th April 2009)



■拜殿■
(18th April 2009)
 


■本殿■
(18th April 2009)




((コメント))

2009年4月18日

 一般的には、延喜式内社長谷山口社は當社と考えられているが、一説には、もう少し山手にある與喜天滿宮に比定する説もあるらしい。そちらも以前行ったことはあるのであるが、個人的に、肌で感じた分には與喜天滿宮の方が、上の位の社に感じるところであったということである。

 山口社は、すべて周っているわけでなく、鴨、都祁(二社とも)、伊古麻、巨勢、耳成、畝火、吉野、夜支布しか知らないが、この社にはこれらに同等の社には感じることが出来ない。字も手力雄であるし、實際のところは、長谷山口社ではなく手力雄社であったのではないか、と思わざるを得ない。

 鳥居をくぐり、參道を入ったすぐのところに水を祀る石がある。初瀬川に囲まれた地に鎭座するだけに、川の水を祀っているのであろう。瑞垣を、聖地を廻る水の垣、すなわち、水垣と見做して考えた場合、その本質は、水に触れ、水を潜らなければ絶對に聖地、聖域には參入できないということになり、聖地に入るに際しての、自然な形での「禊」となるわけであり、熊野本宮大社が知られるが、實は三輪の地名も「水輪」「水曲」とされ、三輪川と巻向川に囲まれた地は「水垣」にふさわしいものであったと言われている。その地と少し離れただけの地であり、立地的な条件から見ると、この社もまた同じように考えるのは考えすぎだろうか。ただ、そのように考えた場合、この水は、祓戸社的意味合いが強いのではないであろうかと思う。