■攝社大縣社奥宮■
(13th January 2010)
★大縣社★ 愛知県犬山市宮山3
・延喜式内社、尾張國丹羽郡、大縣社、名大。
・舊社格は國幣中社。
・祭は大縣大。大縣大については、寛文元年(1661)の棟札によると、國狭槌尊とされる。大縣主の祖である天津彦根命ともいう。確かであることは尾張國開拓の祖を祀るということである。
・尾張國二之宮。
・社傳によると、垂仁天皇二十七年(紀元前3)に、本宮山山頂から和魂を山麓(現本社社地)に遷座し、祀ったという。
・天正十年(1582)、織田信雄は二宮社人中の田畠屋敷を安堵した。
・元和八年(1622)、初代尾張藩主川義直は社領として百三十六石五斗一升七合を寄進。延寶二年(1674)、二代藩主光友が六十三石三斗八升三合を加増して二百石となった。
■駅前の社號標■
(13th January 2010)
■鳥居、參道■
(13th January 2010)
■參道■
(13th January 2010)
■手水舎■
(13th January 2010)
■末社解除社■
(13th January 2010)
・祭は八十禍津日、直日、底津少童命、中津少童命、表筒男命、田心姫命。
■拜殿■
(13th January 2010)
■幣殿、本殿■
(13th January 2010)
■木■
(13th January 2010)
((大縣社本殿、祭文殿、廻廊))
國重要文化財
・寛文元年(1661)、川光友が造営。
・切妻妻入、板床の拜殿、祭文殿(四脚門)、釣殿、本殿が一直線に竝び、祭文殿から左右に出た廻廊が本殿を囲むという尾張造である。
■攝社姫之宮拜殿、本殿、姫石■
(13th January 2010)
・祭は玉姫命。倉稻魂という説もある。
・古來より安産、子授など女性の守護として崇敬されており、女隂をかたどった石などが奉納されている。
■末社大國恵比須社■
(13th January 2010)
・祭は蛭子、大國主。豐斟渟命、皇産靈尊、大日靈尊、月讀命、天鈿女命、伊邪那岐命、大足彦忍代別命、天御中主、國常立尊、天目一箇命、木花開耶姫命、金山彦命、品陀命、建御雷命、大己貴尊を配祀。
■末社樂田社■
(13th January 2010)
・祭は護國英靈。
■本宮山(奥宮)參道■
(13th January 2010)
■宮池■
(13th January 2010)
■西洞池■
(13th January 2010)
■鳥居■
(13th January 2010)
■攝社姫之宮奥宮鳥居、參道、本殿、磐座■
(13th January 2010)
■本宮山參道鳥居■
(13th January 2010)
■末社雨宮社と磐■
(13th January 2010)
・祭は罔象女命。
■末社山姥社と磐■
(13th January 2010)
祭は山姥青黄姫龍。
■攝社大縣社奥宮■
(13th January 2010)
・祭は大縣大荒魂。
((コメント))
2010年1月13日
鳥居脇の社號標は、正月に営業していたであろう出店によって隠れ、見えない状態。それはともかく、雪がまだ殘る境内へ行く。人はあまり多くないが大社であることがわかる社殿と境内であった。本殿は南向きになっており、何を拜んでいるのかわからない状態であった。南向き、東向きの社が多いのであるが、明確な理由があって、南向きになっているのか、不思議に思う。元々、本宮山山頂に鎭座しており、奥宮が今もそこにあるのだから、むしろ、その方向に向かって拜むように社殿を建てるほうが正当であると思うのであるが。
境内を一通りまわった後、重要な姫之宮と大縣社の奥宮に行くべく、本宮山參拜道を行くことにした。途中で、足跡が消えたので、おそらく、自分より先に奥宮へ參った人はいなかったに違いない。姫之宮奥宮への參道などは雪も部分的に十五センチ位積もっており、寂しい状態であった。姫之宮奥宮には山の中腹に立石磐座が見られ、これが信仰の対象であったのだな、と確認。しかし、よく見つけたものである。
その後、本宮山參拜道へ戻り、雨宮社、山姥社などを過ぎ、頂上の奥宮へと到着。本宮山は基本が岩山なのであろう、ところどころに磐が出ており、少し、懐かしい思いがするところであった。奥宮社殿は頂上の磐の上を舗装し、建てられていたのだが、非常に殘念なことであった。磐座にコンクリートをかけて、舗装しているのであるから、祀るというよりは破壊というべき行いとしか受け取れない。何か、そういうところで、大きな失望を感じる次第。下る途中、八大龍王を祀る相澤山のほうへいき、池の横に下山し、境内へ戻ることになる。
本宮山を見ると、やはり、この地は諸鑃神社の創建理由にもあったが、やはり、先住者たちに関係のある地であったことがわかる。土蜘蛛と呼ばれた繩文人たちの社といえるだろう。古代イズモ族に關係があるのかどうかは知らないが、おそらく、同系統の人種であったであろうことは想像に難くない。そうすると、研究者の一部が注目する一之宮、二之宮に關わらず、祀られているは、唯一と思われ、大和は三輪の大物主と同と考えても間違いはないであろう、と思う。
(13th January 2010)
★大縣社★ 愛知県犬山市宮山3
・延喜式内社、尾張國丹羽郡、大縣社、名大。
・舊社格は國幣中社。
・祭は大縣大。大縣大については、寛文元年(1661)の棟札によると、國狭槌尊とされる。大縣主の祖である天津彦根命ともいう。確かであることは尾張國開拓の祖を祀るということである。
・尾張國二之宮。
・社傳によると、垂仁天皇二十七年(紀元前3)に、本宮山山頂から和魂を山麓(現本社社地)に遷座し、祀ったという。
・天正十年(1582)、織田信雄は二宮社人中の田畠屋敷を安堵した。
・元和八年(1622)、初代尾張藩主川義直は社領として百三十六石五斗一升七合を寄進。延寶二年(1674)、二代藩主光友が六十三石三斗八升三合を加増して二百石となった。
■駅前の社號標■
(13th January 2010)
■鳥居、參道■
(13th January 2010)
■參道■
(13th January 2010)
■手水舎■
(13th January 2010)
■末社解除社■
(13th January 2010)
・祭は八十禍津日、直日、底津少童命、中津少童命、表筒男命、田心姫命。
■拜殿■
(13th January 2010)
■幣殿、本殿■
(13th January 2010)
■木■
(13th January 2010)
((大縣社本殿、祭文殿、廻廊))
國重要文化財
・寛文元年(1661)、川光友が造営。
・切妻妻入、板床の拜殿、祭文殿(四脚門)、釣殿、本殿が一直線に竝び、祭文殿から左右に出た廻廊が本殿を囲むという尾張造である。
■攝社姫之宮拜殿、本殿、姫石■
(13th January 2010)
・祭は玉姫命。倉稻魂という説もある。
・古來より安産、子授など女性の守護として崇敬されており、女隂をかたどった石などが奉納されている。
■末社大國恵比須社■
(13th January 2010)
・祭は蛭子、大國主。豐斟渟命、皇産靈尊、大日靈尊、月讀命、天鈿女命、伊邪那岐命、大足彦忍代別命、天御中主、國常立尊、天目一箇命、木花開耶姫命、金山彦命、品陀命、建御雷命、大己貴尊を配祀。
■末社樂田社■
(13th January 2010)
・祭は護國英靈。
■本宮山(奥宮)參道■
(13th January 2010)
■宮池■
(13th January 2010)
■西洞池■
(13th January 2010)
■鳥居■
(13th January 2010)
■攝社姫之宮奥宮鳥居、參道、本殿、磐座■
(13th January 2010)
■本宮山參道鳥居■
(13th January 2010)
■末社雨宮社と磐■
(13th January 2010)
・祭は罔象女命。
■末社山姥社と磐■
(13th January 2010)
祭は山姥青黄姫龍。
■攝社大縣社奥宮■
(13th January 2010)
・祭は大縣大荒魂。
((コメント))
2010年1月13日
鳥居脇の社號標は、正月に営業していたであろう出店によって隠れ、見えない状態。それはともかく、雪がまだ殘る境内へ行く。人はあまり多くないが大社であることがわかる社殿と境内であった。本殿は南向きになっており、何を拜んでいるのかわからない状態であった。南向き、東向きの社が多いのであるが、明確な理由があって、南向きになっているのか、不思議に思う。元々、本宮山山頂に鎭座しており、奥宮が今もそこにあるのだから、むしろ、その方向に向かって拜むように社殿を建てるほうが正当であると思うのであるが。
境内を一通りまわった後、重要な姫之宮と大縣社の奥宮に行くべく、本宮山參拜道を行くことにした。途中で、足跡が消えたので、おそらく、自分より先に奥宮へ參った人はいなかったに違いない。姫之宮奥宮への參道などは雪も部分的に十五センチ位積もっており、寂しい状態であった。姫之宮奥宮には山の中腹に立石磐座が見られ、これが信仰の対象であったのだな、と確認。しかし、よく見つけたものである。
その後、本宮山參拜道へ戻り、雨宮社、山姥社などを過ぎ、頂上の奥宮へと到着。本宮山は基本が岩山なのであろう、ところどころに磐が出ており、少し、懐かしい思いがするところであった。奥宮社殿は頂上の磐の上を舗装し、建てられていたのだが、非常に殘念なことであった。磐座にコンクリートをかけて、舗装しているのであるから、祀るというよりは破壊というべき行いとしか受け取れない。何か、そういうところで、大きな失望を感じる次第。下る途中、八大龍王を祀る相澤山のほうへいき、池の横に下山し、境内へ戻ることになる。
本宮山を見ると、やはり、この地は諸鑃神社の創建理由にもあったが、やはり、先住者たちに関係のある地であったことがわかる。土蜘蛛と呼ばれた繩文人たちの社といえるだろう。古代イズモ族に關係があるのかどうかは知らないが、おそらく、同系統の人種であったであろうことは想像に難くない。そうすると、研究者の一部が注目する一之宮、二之宮に關わらず、祀られているは、唯一と思われ、大和は三輪の大物主と同と考えても間違いはないであろう、と思う。