の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

大縣社

2010年06月03日 23時36分03秒 | 中部(静岡、愛知、岐阜)
■攝社大縣社奥宮■
(13th January 2010)



★大縣社★ 愛知県犬山市宮山3

・延喜式内社、尾張國丹羽郡、大縣社、名大。 

・舊社格は國幣中社。

・祭は大縣大。大縣大については、寛文元年(1661)の棟札によると、國狭槌尊とされる。大縣主の祖である天津彦根命ともいう。確かであることは尾張國開拓の祖を祀るということである。

・尾張國二之宮。

・社傳によると、垂仁天皇二十七年(紀元前3)に、本宮山山頂から和魂を山麓(現本社社地)に遷座し、祀ったという。

・天正十年(1582)、織田信雄は二宮社人中の田畠屋敷を安堵した。

・元和八年(1622)、初代尾張藩主川義直は社領として百三十六石五斗一升七合を寄進。延寶二年(1674)、二代藩主光友が六十三石三斗八升三合を加増して二百石となった。


■駅前の社號標■
(13th January 2010)
 


■鳥居、參道■
(13th January 2010)



■參道■
(13th January 2010)



■手水舎■
(13th January 2010)



■末社解除社■
(13th January 2010)


・祭は八十禍津日、直日、底津少童命、中津少童命、表筒男命、田心姫命。


■拜殿■
(13th January 2010)
 



■幣殿、本殿■
(13th January 2010)



■木■
(13th January 2010)


((大縣社本殿、祭文殿、廻廊))

 國重要文化財

・寛文元年(1661)、川光友が造営。
・切妻妻入、板床の拜殿、祭文殿(四脚門)、釣殿、本殿が一直線に竝び、祭文殿から左右に出た廻廊が本殿を囲むという尾張造である。


■攝社姫之宮拜殿、本殿、姫石■
(13th January 2010)


 

・祭は玉姫命。倉稻魂という説もある。
・古來より安産、子授など女性の守護として崇敬されており、女隂をかたどった石などが奉納されている。


■末社大國恵比須社■
(13th January 2010)

 

・祭は蛭子、大國主。豐斟渟命、皇産靈尊、大日靈尊、月讀命、天鈿女命、伊邪那岐命、大足彦忍代別命、天御中主、國常立尊、天目一箇命、木花開耶姫命、金山彦命、品陀命、建御雷命、大己貴尊を配祀。


■末社樂田社■
(13th January 2010)



・祭は護國英靈。


■本宮山(奥宮)參道■
(13th January 2010)



■宮池■
(13th January 2010)



■西洞池■
(13th January 2010)



■鳥居■
(13th January 2010)



■攝社姫之宮奥宮鳥居、參道、本殿、磐座■
(13th January 2010)



 


■本宮山參道鳥居■
(13th January 2010)



■末社雨宮社と磐■
(13th January 2010)



・祭は罔象女命。


■末社山姥社と磐■
(13th January 2010)


 祭は山姥青黄姫龍。


■攝社大縣社奥宮■
(13th January 2010)


・祭は大縣大荒魂。


((コメント))

2010年1月13日

 鳥居脇の社號標は、正月に営業していたであろう出店によって隠れ、見えない状態。それはともかく、雪がまだ殘る境内へ行く。人はあまり多くないが大社であることがわかる社殿と境内であった。本殿は南向きになっており、何を拜んでいるのかわからない状態であった。南向き、東向きの社が多いのであるが、明確な理由があって、南向きになっているのか、不思議に思う。元々、本宮山山頂に鎭座しており、奥宮が今もそこにあるのだから、むしろ、その方向に向かって拜むように社殿を建てるほうが正当であると思うのであるが。

 境内を一通りまわった後、重要な姫之宮と大縣社の奥宮に行くべく、本宮山參拜道を行くことにした。途中で、足跡が消えたので、おそらく、自分より先に奥宮へ參った人はいなかったに違いない。姫之宮奥宮への參道などは雪も部分的に十五センチ位積もっており、寂しい状態であった。姫之宮奥宮には山の中腹に立石磐座が見られ、これが信仰の対象であったのだな、と確認。しかし、よく見つけたものである。

 その後、本宮山參拜道へ戻り、雨宮社、山姥社などを過ぎ、頂上の奥宮へと到着。本宮山は基本が岩山なのであろう、ところどころに磐が出ており、少し、懐かしい思いがするところであった。奥宮社殿は頂上の磐の上を舗装し、建てられていたのだが、非常に殘念なことであった。磐座にコンクリートをかけて、舗装しているのであるから、祀るというよりは破壊というべき行いとしか受け取れない。何か、そういうところで、大きな失望を感じる次第。下る途中、八大龍王を祀る相澤山のほうへいき、池の横に下山し、境内へ戻ることになる。

 本宮山を見ると、やはり、この地は諸鑃神社の創建理由にもあったが、やはり、先住者たちに関係のある地であったことがわかる。土蜘蛛と呼ばれた繩文人たちの社といえるだろう。古代イズモ族に關係があるのかどうかは知らないが、おそらく、同系統の人種であったであろうことは想像に難くない。そうすると、研究者の一部が注目する一之宮、二之宮に關わらず、祀られているは、唯一と思われ、大和は三輪の大物主と同と考えても間違いはないであろう、と思う。

美保社

2010年06月03日 23時18分11秒 | 中国(鳥取、島根)
■社殿■
(30th December 2007)



★美保社★ 島根県松江市美保関町美保関608

・延喜式内社、出雲國嶋根郡、美保社。

・舊社格は國幣中社。

・祭は事代主、三穗津姫命。『出雲風土記』には事代主命と三穗津姫命という名が記されていない。大穴持命と奴奈宣波比賣命の間に生まれた「御穗須須美命」が美保に坐すとの記述があり、元々の當社の祭は御穗須須美命のみであったのが、記紀話の影響により事代主と三穗津姫命とされたものとみられる。

・事代主系列「えびす様」三千余社の總本宮。蛭子系のえびす社の總本社は西宮社である。

・第二次大戦後は社本庁の別表社となっている。

・創建の由緒は不詳だが、八世紀に編纂された『出雲國風土記』の社臺帳にその名を記載されている。

・中世より横山氏が職を世襲。

・近世ごろから「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、出雲大社とともに參拜者が増えた。出雲大社とあわせ「出雲のえびすだいこく」と總稱される。

・後醍醐天皇は隠岐御遷幸のみぎり、前に官軍勝利、王道再興を御祈願になったと傳える。


■一の鳥居■
(30th December 2007)



■廻船御用水■
(30th December 2007)


 一の鳥居と二の鳥居の間にある。文久元年夏に大干ばつにあい町民が困窮したところ、美保大明に願をかけこの地を掘ったところ眞清水が湧き出、あまりの有難さに影向の水と名付けたそうだ。以來この井戸は夏枯れを知らず今もおかげの水として大切にされているとのこと。


■二の鳥居■
(30th December 2007)



■廻廊付隨門■
(30th December 2007)



■社殿■
(30th December 2007)


 國重要文化財

 本殿は「美保造」と呼ばれる獨特の様式で、大社造の社殿を二棟を横に竝べたもの。本殿二棟のに末社、大后社があり、三社五を祀る。


■御靈石■
(30th December 2007)



■宮御前社■
(30th December 2007)


 糺社同座中であった。(30/12/2007)


■池■
(30th December 2007)



■男女岩■
(30th December 2007)



((コメント))

2007年12月30日

 事代主系の恵比寿總本宮に当たる社だ。恵比寿には興味がないが社殿が美しいので行ってきた。昔、『週間社紀行』のような雑誌があって、そこに出ていたことからいつかは行きたい、と思っていたところである。祀っているは好みではないが、地の持つものや、境内の雰囲氣は非常によいところであると感じる。

薦社

2010年06月03日 23時04分17秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■鳥居■
(11th November 2008)



★薦社★ 大分県中津市大字大貞209

 大分縣史跡

・舊社格は縣社。

・祭神は應神天皇、比大神(宗像三比大神)、神功皇后。

・豐前國一之宮宇佐宮境外攝社にて、その祖宮とされる。

・別名大貞八幡宮。

・承和年間(834-84年)に創建。

・紋は一つ巴。巴紋は水に由来し、寶器の勾玉、魂、命に關連する。 宇佐宮の三つ巴に對して、一つ巴であることから、宇佐の祖宮の一つと考えられ、本来は宗像三比賣大ではなく、別の、あるいはその中の一人の比賣大(たとえば中津宮の湍津姫)を祀っていたのではないかという説もある。

・養老三年(720)、大隅、日向の隼人の大隅國府襲撃の時、万葉集歌人として名な大伴旅人が率いる大和朝廷軍および宇佐宮の辛島ハトメ率いる宇佐軍が、薦社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、薦枕を體に、輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎭めたと言い、この薦刈事は現在六年ごとに行われる宇佐宮行幸会の中で辛嶋一族が當時より行い、傳えている。この事が始まり、行われる中、承和年間に社を建て薦社と号したと傳えられる。

・中世には六坊があり、近世には上修院、南坊、新坊に住職が定住していたという。

・毎年二月十一日には七百五十年以上の歴史をもつという「おしんげや」が開催され、無病息災や開運徐災などを祈る。夕方には「鬼」と書いた紙を的に矢を射る、鬼やらいの行事もある。


■薦社内宮(三角池<古くは御澄池と書いていた>)■
(11th November 2008)





■門■
(11th November 2008)



■薦社外宮(殿):樓門(門)■
(11th November 2008)


 國重要文化財

・三間一戸二重門、入母屋造、初重前後もこし、前面軒唐破風付。
・元和七年(1621)の建築。細川忠興の造営。


■拜殿、廻廊、本殿■
(11th November 2008)



 拜殿、廻廊、本殿は江戸時代末期の建物。


■木■ 
(11th November 2008)



((コメント))

2008年11月11日

 中津城跡から宇佐宮に行く途中に地図上に赤字で書かれている薦社というところがあった。携帯で少し調べたら、宇佐宮の境外攝社で八幡系とあったのであまり興味が無く、行かないでおこうと思っていたのだが、何となく、呼ばれているように思ったので立ち寄ってみた。なかなか面白そうなところであった。

 内宮の池のほうは聖という言葉が似合う社のように思う。

世泰親王墓所

2010年06月03日 22時31分42秒 | 天皇陵、皇族墓所
■世泰親王墓所■
(10th October 2007)



★世泰親王墓所★ 奈良県吉野郡吉野町中千本 如意輪寺境内

・人皇第九十八代長慶天皇皇子。
・近世南朝系図においては、人皇第九十九代後龜山天皇皇子とされる。
・事跡等不明。


((コメント))

2007年10月10日

 後醍醐天皇陵の一段下がったところにある。親王について詳しく知らないが、如意輪寺に行くときは立ち寄るようにしている。