はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

山の辺の道をウオーキング その2

2015-07-11 11:30:06 | 古代史の舞台を歩く
今回は、大神(おおみわ)神社から北に向かって歩いていますが、石上(いそのかみ)神宮から南へ向かえば、三輪山をずっと眺めながら歩くことになります。
三輪山は、その形から大和盆地のどこから見ても、それとわかるランドマーク的な山です。古代から信仰の対象として崇められてきました。山の辺の道にとってもシンボル的な山といえるでしょう。
天智天皇が飛鳥から大津に都を移した時に、額田王(ぬかたのおおきみ)が、三輪山への思いをうたった歌は、あまりにも有名です。
「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや ー額田王ー 」
(歌碑と三輪山)

渋谷向山古墳が近づいてきました。この古墳は「景行天皇陵」として宮内庁が管理しています。このあたりから北に向かうと、大きな古墳がたくさんあり、古墳好きの者にとっては、ワクワクする所です。
(渋谷向山古墳遠望)
山の辺の道は、東海自然歩道として整備されており、道標がたくさんすぎるほど立っているので道に迷う心配はありません。(ちょっと立て過ぎと思いますが…。)
(たくさんある道標)
そうしているうちに、行燈山古墳です。ここも「崇神天皇陵」として宮内庁が管理しています。崇神天皇(10代天皇)というのは、実在した天皇と考えられており、この古墳を崇神陵とするのが妥当だとする学者が多いようです。ただ、江戸時代は、景行陵と崇神陵が逆に考えられていたこともあったようです。
(行燈山古墳 後円部から)

山の辺の道を歩いていると、たくさんの歌碑があります。なかでも柿本人麻呂の歌が多いのに気付きます。「引手の山」をバックに歌碑がありました。
「衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし ー柿本人麻呂ー (引手の山に妻の屍を葬っておいて、山路を帰ってくると悲しくて生きた心地もしない。)」
(歌碑と引手山<龍王山のことか>)

そこからすぐに、大和神社(おおやまとじんじゃ)の御旅所がありました。後ろの森は、中山大塚古墳です。


山の辺の道からは、ちょっとそれるのですが、前から気になっていた西殿塚古墳(衾田陵:ふすまだりょう)に寄ってきました。これも大きな古墳で、ヲホド王(継体天皇)の皇后、手白香皇女の陵として、やっぱり宮内庁が管理しています。しかし、古い時代の古墳で(古墳は全部古い時代ですが…。)手白香皇女の時代とは合わないそうです。
 (西殿塚古墳)
こちら(下の写真)が本物の手白香皇女の墓と考えられている西山塚古墳です。なんか痛々しい感じがしますが、宮内庁さん、これでいいんでしょうか。
(西山塚古墳)
このあたりは、萱生環濠集落といわれる所で、大和の戦国乱世が生んだ自衛のための集落です。
 (萱生環濠集落)

今回の山の辺の道ウオーキングはここまでです。古代の歴史とロマンに出会える道でした。
それにしても暑かったです。水分もペットボトル2本と、十分に取りましたが、なんかクラクラする気分でした。