毎日がHappy気分♪

映画大好き!山が大好き!ビーズもバラも好き!!
そんな私の日常を気ままに綴った日記です。

ビーズの魅力

2011年04月15日 | ビーズでハッピー♪

 

久しぶりにのぞいたビーズショップで 私の心を鷲掴みにしたビーズたち。

何の思惑もなく全色衝動買い。

マットの上にザーッと出して眺めていると どんどん現実が遠くなる。

まるで夢の中に吸い込まれていくみたい。

ビーズは現実逃避の材料にもなるんだね。

しかもまたリアルの世界に戻ってテグスを通せば

自分を鎧うアイテムに早変わり。

いつかまたつつがない毎日が戻ってくる、って願いながら

小さな一粒をつないでいこう。

 

 

 

 

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土筆

2011年04月14日 | とにかくハッピー♪

 

あなたはどうしてそんなに可愛いの?

私に笑顔をくれたつくしさんに感謝。

 

 

 

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義援金

2011年04月13日 | その他

 

東日本大震災の義援金のお話。

日本中・・・いや世界中から温かい支援の輪が広がっています。

私もいくつかの機関を通じて協力させていただきました。

この先もできる範囲で継続していきたいと思っています。

 

それにしても 今、用事で出かけると あっちにもこっちにも募金箱を持った人たちを見かけます。

これでもかっ ってくらいです。

ある時は 出先のスーパーの近くで、箱を持って買い物に来た人を追いかけまわしている人を見ました。

まあそこまでひどいのはそうそうないかもしれないけれど 

街頭で集められているそれらのお金は本当に被災地の人たちを救うためのものなんだろうか、と つい疑ってしまう自分がいます。

義援金詐欺、なんて嫌な事件も多発してるみたいだし、なんだか悲しくなりますね。

 

先日、療育の卒業の記事を書きましたが その時にまとめ役の先生からこんなお話がありました。

 

「阪神大震災の時もそうだったんですけど 発達障害を持った子どもたちは 避難所での大人数での生活がとても大変です。

大きな声を出してしまったり 走りまわったりして、自分達も被災者であるのに 家族はとても肩身の狭い思いをしています。

今度Y先生が被災地にそういう子ども達のケアに行くのですが 

その時に支援物資と一緒に義援金も持っていくことになっているので、良かったら募金をお願いします。」

 

私はその話を聞いて そうか・・・そうだった・・・と 大切な事を忘れていた自分に気が付きました。

私も含めてそこにいた親たちは身をもってその大変さを経験してきてるので

先生のお話にいちいち大きく頷いていました。

18歳になった二男が 今もしそいういう状況に置かれたとしても、もう走りまわったりはしないでしょう。

でももしそれが幼稚園や小学校の頃だったら?

きっと私も肩身を狭くして 地震のことよりも我が子の対応に精根尽き果てているかもしれない。

予期しない場面展開や 見通しの立たない事への不安を 人の何倍も大きく感じとる彼らには

避難所は私たちの想像を遥かに超えた過酷な環境になっているはずです。 

想像しただけで手が汗で湿り、それを吹きながら私はお財布を出して募金箱にお金を入れました。

 

義援金・・・たくさんの人のいろんな思いがそこには含まれています。

義援金配分割合決定委員会 という舌を噛みそうな委員会が設置され

既に被災都道県への配分割合が決定したとか。

集められたお金が、被災された皆さんに一番良い方法で届くことを祈っています。

 

 

 

 

 

 

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サクラ・サクラ

2011年04月12日 | お花でハッピー♪

 

昨日、また大きな地震がありました。

埼玉もけっこう揺れましたが 茨城はもっとでした。

Kちゃんが家に一人で居る時間だったので(下校後~Mちゃんが仕事から帰る6時過ぎまではいつも一人でお留守番) 

慌てて電話するも全くつながらず・・・

心臓をバクバクさせながら 何度も何度もかけたらやっとつながって

「Kちゃん、大丈夫?」 と聞くと おばあちゃんが来てくれたとのこと・・

よかった・・・

その後もかなりの余震がありました。

昨日は震災からちょうど1ヵ月でしたが この不安はいつまで続くんだろう・・・

私は地震酔いで、いつも揺れてる感じがしてますが

被災地の方達の恐怖はこんなもんじゃないんだろうなぁ。

 

 

 気持ちを切り替えて・・・

 

 

 

 

一年で一番好きな季節。

だけど今年はそれを心から喜ぶのが後ろめたいような春の休日。

同じように感じてる人は多分私だけじゃないと思います。

地震以来ほとんど外に出なくなった義母を誘って すぐ近くの桜並木を歩いてみました。

毎年行われる 「桜まつり」 は中止。

歩いている人の数もすごく少なかった。

でも 桜は枝を大きく広げて いつもと変わりなく私たちを待っていてくれました。

パッと咲いて パッと散る・・・ 

諸行無常の代名詞みたいになってる桜。

その潔さを私も見習って、日々の心のリセットを もうちょっと上手にできるようになれたらいいな。

サクラ・サクラ。

春をありがとう。

 

 

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近況報告⑤ 足並みそろえて

2011年04月11日 | その他

 

4月8日。

二男が卒業した高校の入学式でした。

え・・・何で? と思われるかもしれませんが

本部役員だった私は 来賓として招かれたんです。

応接室に通され、待機していると

事務の方が桜茶を振る舞ってくださり、

それを見た私は思わず  

「わあ~っ!」 っと 声を上げてしまいました。

この感覚、なんだかものすごく久しぶりでした。

なんて表現すればいいんだろう。

心がほっこり・・ウキウキするみたいな・・・

こんな状況の時にこの感情は不謹慎なのかもしれないけれど

とにかく自然にそう思えて、また、そう思えた自分がなんだか嬉しくて・・・

 

式は淡々と進みました。

 新入生の顔を見ていると緊張感が伝わってきて

3年前、二男もこんな感じだったんだなぁ、って とても懐かしく思いました。

 

帰り際、下駄箱の脇に方々から送られた祝電が貼られていました。

そしてその中にこんなものがありました。

 

 

ある人からのメッセージです。 

 

 

日本中の学校の入学式に送られたんだと思います。

全文をここに載せてみます。

 

 *********************************

 

新学期を迎える皆さんへ

 

皆さん、進学、進級、おめでとうございます。

皆さんは この4月 希望に満ちた春を迎えるはずでした。

しかし、この春は 私たちにとって とてもつらい春になってしまいました。

ご存じのように 3月11日、あの未曾有の大地震と津波が日本を襲ったのです。

皆さんの中にも ご家族を亡くされたり、あるいはいまも避難所から学校に通ったりしている生徒さんがいることでしょう。

避難所の中では、皆さんが率先してお年寄りや身体の不自由な方を助け

掃除をしたり食事の準備をしたりしてくれているという話を聞いています。

本当にありがとう。

 

直接被災をした皆さん、皆さんは、十代のもっとも人間が成長する時期に

この大きな試練に立ち向かわなければならなくなりました。

いま抱えている全ての悲しみや不安から 完全に逃れることはできないかもしれません。

でもいつか、皆さんがその悲しみと向き合えるようになる日まで

学業やスポーツ、芸術文化活動やボランティア活動など 何か一つでも夢中になれるものを見つけて

この苦しい時期を乗り越えていってもらえればと願います。

学校は、あらゆる面で 皆さんがこの逆境を乗り越えていくためのサポートをしていきます。 

 

被害にあわなかった皆さんにもお願いがあります。

どうか 皆さんの学校にやってくる避難した仲間たちを 温かく迎えてあげてください。

すぐ近くにそういった友達がいなくても、遠く離れて不自由な生活をしている同世代の友達を

同じ仲間、友達だと思ってください。

そして、被害を受けた友達の声に耳を澄ましてください。

この大震災を通じて、日本国と日本社会は、大きな変化を余儀なくされます。

この大震災からどうやって日本を立て直していくのか。

自然と共生してきたはずの日本社会が その本来の姿を取り戻すために何が必要なのか。

もちろん 復興の過程では 「がんばろう」 という元気な掛け声が必要です。

しかし、それと同時に、新しい社会、新しい人間の絆を作っていくために

大きな声にかき消されがちになる、弱き声、小さな物音にも耳を澄ましてほしいのです。

 

東北が生んだ詩人宮沢賢治は科学と宗教と芸術の力で、冷害、凶作の多かったこの東北地方の農民を

少しでも幸せにしようと考え、そのことに一生を捧げました。

どうか 他人の意見もきちんと受け止めながら、自分で合理的な判断ができる、冷静な知性を身につけてください。

しかしそれだけではなく、他人のために祈り涙する、温かい心も育んでください。

そして、芸術やスポーツで人生を楽しむことも忘れないでください。

宮沢賢治の 『銀河鉄道の夜』 には こんな言葉があります。

「ぼく、もうあんな闇の中だって怖くない。 きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。

どこまでもどこまでもぼくたち一緒に進んでいこう」

賢治の言う ほんとうのさいわいとは何でしょう。 この大きな災害と混乱の中で 皆さんにこのことを考えてほしいのです。

それを皆さんが本当に真剣に考えてくれるなら、きっと皆さんはどこまでもどこまでも一緒に進んでいけるはずです。

そしてその先にはもっともっと素晴らしい日本の新しい国の姿があるはずです。

忘れないでください。 一緒に進んでいくのは決して日本人だけではありません。

今回の東日本大震災では、世界中からたくさんの支援が送られています。

また、この非常時にあっても秩序正しく、理性を失わない日本人の姿に 世界中が驚き称賛の声を掲げました。 私たちは世界と共にいます。

原子力発電者の事故に対して危険をかえりみずに立ち向かう消防士や自衛官、電力会社の人たちの姿。

各地の被災地で、救命救急活動にあたった警察官や医療関係者、そして何より

本当に命がけで皆さんを守ってくれた先生たちの姿を忘れないでください。

そして、みなさんももっともっと身体を鍛え、判断力を養い、優しい心を育んで 他人のために働ける人になってください。

 

日本の未来は皆さんの双肩にかかっています。

あなたたちのその笑顔、ひたむきな表情が、今、家族や地域の人々を支えようと懸命に頑張っている大人たちに勇気と希望を与えています。

私たちも全力で皆さんの支援に取り組みます。

本当の幸せを求めて一緒に歩んでいきましょう。   (原文のまま)

 

********************************

 

以前から続いていた菅内閣への政権批判は この震災を機にますます激しくなりました。

よくわからない肩書きのアナリストや、その他大勢の一般人も一緒になって執拗に責め立てます。

確かに言いたい事は山ほどあるかもしれない。

でも誹謗・中傷するだけでは前に進めない。

足の引っ張り合いは もう少し落ち着いてからでも遅くはないと。

今はちょっとガマンして 同じ方向を向いて、先頭に立つ人を労ってあげたい・・と 私は思うのです。

私も できることをやっていきます。

 

 

                  近況報告はこれで終わり。

 

 

 

 

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近況報告④ Kちゃんの玉子焼き

2011年04月10日 | その他

 

4月2日~3日。

この日、お嫁さんのMちゃんと孫のKちゃんが我が家に来ました。

会ったのはなんと、お兄ちゃんの四十九日以来です。

毎日電話やメールで連絡を取り合っていて

やっと予定を合わせてお彼岸に来ることになっていたのに

あの地震が起こってまた電話とメールのやりとりに戻ってしまった。

 

東日本大震災・・・・

震源は東北で 被害も東北が一番ひどかった。

テレビのニュースでも毎日のようにその様子を映し出していて

被害の大きさにただただ驚き、

被災地の皆さんの辛さを想像して暗い気持ちになっていました。

 

MちゃんとKちゃんは茨城に住んでいます。

ニュースには余り出ませんが、こちらもかなりのダメージを受けました。

Mちゃんちは震度6強で食器棚が倒れて中の食器がほとんど割れました。

住まいの倒壊こそ免れたものの 家の中はグチャグチャ。

勤めていた会社のガラスは割れ、壁はあちこちに亀裂が入り

トイレの壁は斜めになったそうです。

ライフラインも全てが元に戻ったのは5日ほど経ってからでした。

水戸線は駅舎が崩壊したため あの日以来ずっと不通で

やっと数日前に一部の区間が復活しました。

道路も橋が壊れて通行止めの箇所がいくつもあり、

今回、我が家に来る時も いつもの道が通れず

迂回して時間がかかりました。

 

命に別状がなかったのだからいいじゃないか、って言われるかもしれないけれど

お兄ちゃんのショックから立ち直れないまま 今回の地震に遭遇したMちゃんのショックは相当なもので

相次ぐ余震も重なって Mちゃんは心を病んでしまいました。

躁鬱病、強迫神経症、パニック障害・・・

Mちゃんは今、専門医のお世話になっています。

 

うちに来た時も すごくハイテンションだな、って思っていると 急にふさぎ込んでしまったり

夜遅くに突然自分の車の中に入ってなかなか戻ってこなくって

見に行くと一人で泣いていたりしました。

 「私はこれからMちゃんとKちゃんを守っていく・・・」

とか言いながら 結局何もしてあげられていない自分が情けなくて仕方ないです。

お兄ちゃん・・・  何で死んじゃったの?

 お線香をあげながら また振り出しに戻ってしまう自分にもうんざり・・。

 

 

 

 

だけどね、Kちゃんの存在はとても大きいんです。

Kちゃんは3月16日が10歳の誕生日でした。

でも地震騒ぎでそれどころじゃなくて プレゼントも買ってあげられなかったので

今回 大好きなチーズケーキを作って 皆でプチパーティをしました。

Kちゃんの嬉しそうな笑顔は 皆を幸せにしてくれました。

 

 

 

もう一つ。

次の朝、Kちゃんが玉子焼きを作ってくれました。

おばあちゃんに教わったんだって。

麺つゆとマヨネーズとお砂糖のバランスが絶妙!

本当においしくて またまた幸せの風が私たちを引っ張り上げてくれました。

この玉子焼き、私はとっても気に入って 今、二男のお弁当のおかずとして大活躍しています。

 

朝食後、皆でお墓参りに行きました。

この日は4回目の月命日。

彼女はお墓の前で泣いていました。

「やっと来れた・・・」 って言いながら。

5回目の月命日には Mちゃんが今よりもちょっとでいいから元気になっていますように・・・。

私はお兄ちゃんにそう願ってきました。

 

Kちゃんは私たちの前では とても明るくていい子です。

でも Mちゃんには我儘を言って時々疲れを倍増させてるみたいです。

反抗期に片足突っ込んだ年頃だもの、これはある程度仕方ないような気がするんです。

だから私はMちゃんのフォローと同時に Kちゃんのサポートをしていこうと思っています。

二男の事で、ある程度子育ての勉強はしたつもり。

こういう時に生かさないと。

コミュニケーションをいっぱい取って 胸のつかえを私にぶつけられるような関係が築けたらいいな。

彼女の負担を少しでも軽くできるように。

 

                            つづく・・・ 

 

 

 

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近況報告③ 新社会人

2011年04月09日 | その他

 

4月1日。

二男はこの日から社会人になりました。

なんだか信じられない。

本社が関西にあるため、当日は東京駅に集合して新幹線で会場へ。

息子は障害者枠での入社なので 基本的に集合場所までは親が送り迎え。

新幹線乗り場前の広場には 大勢の真新しいスーツの若者がいました。

関東方面からは360名が一緒に現地に向かいます。

新幹線の4両分くらいは独占したんじゃないでしょうか。

 

日帰りのため、夜また東京駅に迎えに行くまで

私は横浜の実家で待っていました。

 

入社式の会場は約890名の新卒者で埋め尽くされたそうで

さぞかし圧巻だっただろうと思います。

自分の息子がその中の一人としてそこに参加していた、ってことが

なんだかすごく大きなことに思えました。

障害があろうがなかろうが関係ない。

一人の人間として 彼の門出に心から拍手を送ってあげたい。

よくぞ ここまでたどり着いたぞ!

 

実際に働き出して 今日でちょうど一週間が過ぎました。

毎日パパよりも帰りが遅く、既に残業も経験しました。

初日に 「もう実習とは違うんだからね」 と上司から釘を刺されたそうですが

何とか彼は頑張っています。

私たちも毎日応援していきます。

フレ~! フレ~! 息子よ!

 

 

                           つづく・・・

 

 

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近況報告② もう一つの卒業

2011年04月08日 | その他

 

昨夜、また地震がありました。

ここら辺は震度4でしたが それでもかなりの揺れを感じました。

震源に近かった方々は どんなに怖かったことでしょう。

一生懸命に前へ進もうとしているところへ またこんな大きな余震が・・・。

早く収まってくれることを祈ることしかできません。

 

 

近況報告のつづきです。

 

3月26日。 

この日は 二男にとって、もう一つの卒業の日でした。

小学校3年生から通った療育の最終日。

 

あの頃の私は、彼の発達障害について本当に悩んでいました。

いろんな本を読みあさり、講演会に参加し、いろんな病院を巡り

結局 この療育を取り入れている機関に落ち着いたんです。

「社会性を身につけて自立を促し、一人一人が持っている力を十分に伸ばせるように支援する」 

正に 私が求めているものでした。

 

息子はこの9年間、療育に行くのを嫌がっていました。

理由は 「厳しいから」。

確かに先生はいかなる時も妥協しません。

そのやり方に賛同できなくて 途中でやめていく子(親)も何人もいました。

が、私は ここのやり方が息子に合っている、と確信していたので

全く迷いはありませんでした。

 

学校での失敗や 家での対応に、いつも担当の先生が真正面から対応してくれました。

遅い時間まで電話で話をしたこともありました。

ここは子どもの療育の場であると共に、 親の駆け込み寺でもあったんだと思います。

また、タイプは違えど、生き辛さを持った子どもを持つ親同士が情報交換できる、という意味でも

私にとってとても大切な場所でした。

 

この日も例年通り、調理の学習で作った料理と 

お別れ会のために購入したケーキ(購入そのものも療育の一環) で

療育最後の時間を過ごしました。

我々のグループでは卒業生は2名。

一人ずつ皆の前に立って挨拶をしました。

息子も立派に話すことができました。

学校の卒業とはまたちょっと違った感慨深さで その姿をマジックミラー越しに眺めていました。

 

この9年間で何人もの先生に御世話になりましたが

一番思い入れがあるのがM先生。

療育で一番最初に見ていただいた先生で、 なんとこの先生も指導員としてのデビューの年だったんです。

一昨年から産休に入られていたのですが この日、現場に来てくれていました。

まさか会えると思っていなかったので 本当に嬉しかったです。

そして、M先生は 

「私の指導員生活の中で、〇〇ほどひどい偏食はいなかったよ~、 〇〇は思い出がいっぱいあって先生も感無量だよ~」 

と 涙ぐみながら言ってくれました。

 

幼稚園、小学校、中学校、高校、そして療育機関・・・

二男は 本当にたくさんの人たちに支えられて生きてきました。

大変な事もたくさんあったけれど あの頃は先のことを考えることよりも 毎日が綱渡り・・

その日一日を 大きなトラブルなく過ごすことだけで精一杯だったなぁ。

多分、これはこの先もずっと続いていくのかもしれないけれど

今、私の目の前にいる息子は 確実にあの頃とは違っています。

学校の卒業式でちゃんと言えなかった言葉を この日、しっかりと彼に送ってあげました。

「卒業 おめでとう」

 

 

                     つづく・・・

   

 

 

 

 

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近況報告① 卒業式と地震

2011年04月07日 | その他

 

もう4月なんですね・・・・

全然PCの前に座る気分にならなくて、3~4日に一度 メールチェックするだけの生活。

ブログへの情熱もすっかり失せて いっそこのままやめてしまおうか、とも思ったけれど

昔の記事を読み返した時の あのくすぐったくて懐かしい気持ちを思い出し、

やっぱりやめずにおくか って 久々にこうやってディスプレイとにらめっこしています。

  

  

3月11日。

二男の高校の卒業式。

私は卒業生保護者代表として 謝辞を読む大役を任されていました。

息子の卒業を見届ける母親、という立場での感無量な気持ちと 

来賓席で出番を待つ緊張感とで 涙が出たり引っ込んだり・・

気持ちを立て直すのに忙しい時間を過ごしていました。

  

無事に式が終わり、午後からは 『卒業生を祝う会』。

学校から10分ほどの所にある会場で 定刻にその会は始まりました。

学校行事のDVDを見たり、生徒一人一人が三年間の思い出を発表し、

次はお世話になった先生方からのお言葉を頂戴する段になりました。

確か3人目の先生が話し出した時だったと思います。

「地震じゃない?」 

誰かが普通に言いました。

誰もがすぐに収まると思っていましたが 揺れはどんどん大きくなります。

私を始め、数人が会場からロビーへ出た時には かなりの揺れになっていて

〝これはただ事じゃない″ と感じました。

そして次の瞬間、ガラス越しに 近隣の民家の屋根瓦が ガラガラと落ちて行くのを見ました。

・・・うそでしょ・・

一旦、全員がロビーに出ましたが 学年主任の先生から 

「非常に残念ですが 送る会はこれにて御開きにします」 と宣言があり 直ちに会場の片づけに入りました。

その間、何度も余震があり、私は家に一人でいる義母が気になってすぐに電話しましたが 全くつながりません。

二男の所に行って 「どうしよう、電話つながらないよ。おばあちゃん、大丈夫かな」 と言うと

彼も電話をかけていましたが やっぱりつながりませんでした。

その後、電車が止まっていることがわかったので

役員仲間のOさんに 二男ともども家まで送ってもらうことになりました。

これはとても助かりましたが 停電のため、信号は全て作動しておらず

ご主人(Oさんは夫婦で式に出席)は 緊張しながらの運転を強いられました。

途中、大きな余震が何度も来ていたし、車内から見える家々の和瓦棟部が 

まるで虫が食ったみたいに無くなっているのを見て 本当に怖かったです。

しかし この時点ではまだ 「東日本大震災」 の現実を知るはずもなく

とにかく義母の無事を確認すること・・ それしか私の中にはありませんでした。

  

どうにかこうにか家に着き、 義母の無事もわかり、落ちた物の整理をしていましたが 

停電に対応するため 懐中電灯やラジオを用意したり水を汲んだりと 忙しくしていました。

そして、流れるラジオから 震源地が東北であることや 大きな津波があったらしいことを知りました。

が、まだこの時も あんな大変な事態になっているとは知らず

茨城のMちゃんとKちゃんの無事と妹や実家の母の無事を確認すること、

そして何よりパパがどういう状態になっているのか 電話がつながらない苛立ちの中、不安は募るばかりでした。

結局パパは 会社から我が家まで8時間かけて歩いて帰ってきました。

家に着いたのは 夜中の1時半でした。

  

次の日、停電が解消され テレビから流れる映像に言葉を失いました。

何がどうなっているのか これからどうなるのか 毎日が不安でした。

被災地の方達の事を考えると 言葉もありません。

水道をひねれば水が出て スイッチを押せば電気が点いて

温かいご飯が食べられて 布団に寝ることができている自分。

何をしていても 全てが 〝申し訳ない・・″ という気持ちにつながっていきます。

私がどんな言葉を並べてみたところで 全てが薄っぺらに聞こえてしまいそうで・・

だけど 私たちに できることをしていくしかないんですよね。

小さな事を積み重ねていくしか。

 

東北地方のネットのお付き合いの方々の安否も 少しずつわかってきたり

釜石と大船渡にそれぞれご主人の実家があるリアルの友人二人からは、

なかなか連絡が来なくって 本当に心配しましたが 

どちらも10日以上経ってから 「大丈夫でした」 とのメールが入り 一安心。

ただ、釜石の方は 家は流され、ご主人の同級生が数名亡くなったそうで 友人のメールには

「普段は血も涙もないヤツだけど 部屋で一人で泣いていた」 と書いてありました。

このご主人は あまりに安否がわからないので 車に自転車を積んで日本海側周りで現地に行ったそうですが

被災地はテレビで見るのとは比べ物にならないくらい悲惨な状態だったそうです。

帰省した時に おいしい海産物を何度も送ってもらっていたりした事が思い出されて 私はかける言葉がありませんでした。

 

そんなこんなで 二男の卒業式は一生忘れられない日、となりました。

 写真は結局一枚もありません。

祝う会終了後、皆で撮ろうねって言ってたから。

でもそれを 残念 とか 心残り・・・って思ってしまうこと自体、贅沢なんじゃないかと、

余震に怯えながら暮らす日々でした。

 

                            つづく・・・

 

 

 

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