太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

罰は当たるもの

2020-08-28 07:38:41 | 日記
西日本の方は暑くて気の毒になどと言っていたらここ2,3日はこちらも猛烈に蒸し暑くなってきた。言うもんではない、罰はあたるものだ。フレイルの予防と言えば大袈裟だがほぼ毎日小一時間自転車で近所を走る。コースは3種類に決めており気分で選ぶ。何れのコースも多少の登り下りがある。坂にかかると右や左にフラフラしながら太ももに負担がかかるがこれくらいでないと意味がないと納得する。登り切った後の下りは風があたり実に気持ちが良い。昨日は田圃の中に出来たバイパス道路の広い歩道を走った。すれ違う人は殆どいない。両側はついこの前田植えが終わったと思ったが早いものでもう穂を垂れて刈り入れ寸前である。昨年の台風では一面水に浸かり巨大な湖と化したところだがどの田圃も同じように生育しており影響はない。刈り入れの後だったのが不幸中の幸いである。稲や小麦はいつ見ても、昔の人は良くこんな小さな実をかき集めて食糧にしようと思ったものだと感心する。それが半年ほどで収穫できて主食になるのだから凄い。如何にも平和なこの場所で去年の洪水で車に取り残された亡くなったひとが居たなどととても思えない。
どの自転車コースも小一時間の距離だが自然にタイムが縮まってくる。タイムを気にして飛ばしているか、否、殆どの中年のおばさんには抜かれて行く。昨日などは40分くらいしか掛からないのでextraのコースを追加した。安全な道を選んでいるのでルート変更はちょっと苦労する。もし2時間も走ったら今度は過労になるだろう。小一時間が自分には合っている。長生きしようなどと大それたことは考えていない。ただただ人に迷惑はかけたくないの一心である。走りながら若い頃訪ねた多くの途上国の田舎と出会った人々を思い出す。あの時と同じ私が今ここで運動不足解消のため自転車で走っているよ、と言ってもその声はもう届かない。勿論移動はジープや時にはバイクで自転車ではなかったが。日本と最も違うところは日本の場合隅々まで全てに人の手が入った痕跡があることだ。途上国の場合、街道沿いの荒れ地にも所有権があり境界はあるのだろうか、道端に放置された古タイヤや家具あるいは金属廃材、ケーブルなどの切れ端は一体誰が置いて、誰が取りに来るのだろうか捨てられたもので無いことは一応形が整っていることで分かる。しかし未来永劫誰も触りはしないだろう。整理された日本を美しいと思うか、全てが曖昧に見える途上国の自由に惹かれるかは人により違うだろう。美しい田園風景の中を走っていても許されたところからはみ出してはならない。畦道に乗り入れたら叱られるかも知れない。ある年代から京都の日本庭園を見て美しいと思わなくなったのは途上国の経験からだろう。大自然を模した庭園であっても松の枝1本、庭の小石一つが人為によるものだと思うと逃れようのない窮屈さを感じてしまう。
今自転車で走っている道も将来は車椅子が通れるようにバリアフリーになるのだろうか。高齢化社会が進む日本でもそこまでインフラは整っていない。ブログを書くことで頭の錆びつきは何とか防いでいるが体の方は自転車くらいしかない。フレイル防止とは言っているがやらなかったことと比較はできないから防止に役立ったかどうかは分からない。時々ジョギングをしている中年の人に出会うが将来を見越して立派なものだと思ってしまう。タイムが自然に縮まるのは予防の効果?


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