太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

敬老の日に思う

2018-09-18 08:50:15 | 日記

昨日は敬老の日だった。祝日法では多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日となっている。ところが法律で老人(高齢者)は定義されていない。WHOでは65歳以上、公的年金受給資格も65歳、道交法では70歳、老人保健法では75歳とのこと。社会的には65~74を前期高齢者、75以上を後期高齢者と呼ぶようだが自身は前期当確である。だからと言って昨日何かがあった訳ではない。世の中100歳を超えると何かお祝があったり、世間的には何をしても仕方ないと許される扱いを受ける。しかし前期などはほぼ邪魔者扱いである。年金の無駄飯食らいにしか思われていないのではと思う。こう見えても結構ガムシャラに働いて高度経済成長を支えたし、年金だって後期高齢者になって相当経たないと元など取れないのだ。

住宅用太陽電池も2019年問題を語る時、国民負担という言葉を持ち出すが大赤字で購入して10年で元が取れたかと言うと否である。儲けようなどこれっポッちも思わず、ただただエネルギー・環境への貢献を思いボランティア精神の塊で設置したのだ。それがこれからと言う時に受け手が無い余剰電力はお願いしてタダで一般送配電事業者に引き取って貰う?おかしいでしょう。敬老の日だって我々が居るから若い人にも休みが与えられる。はっきり言って団塊の世代がもっとも割を食らっている世代だ。高齢者の中でもエリートと呼んで欲しいくらいだ。それにしても新聞の折り込みチラシに分譲墓地の宣伝が目に着くようになった。この前までは駅前の葬儀屋、整形外科、体操教室が華やかだったがどこまで食い物にする気だ。人類誕生で屈強なネアンデルタール人が滅んでひ弱なホモ・サピエンスが繁栄したのは、弱いから大きな集団を作って力を合わせ、文化や技術の伝播とコミュニケーション能力が発達したからだという。団塊の世代だって集団をつくるかも知れないぞ。ただし分譲墓地の地下でお前も宣伝に騙されて来たのかというのがオチだが。

勢いで腹いせに政治小ネタを一つ。総裁選で討論形式の論戦で少し腑に落ちないことがある。過去の実績を強調されても片方は総理をやっていないのだから私ならこうしたとかこうできたと言っても意味がない。ホラ吹きと思われるか批判ばかりと取られるだけである。大して意味の無い、いや中味の無い首長選挙で過去の実績を訴えて多選を果たす者はよく居るが一国の総理である。もし私が次の総裁になったらという同じスタート位置に立って討論をするべきである。テーマは今後問題になるであろう財政再建、領土、基地、拉致、憲法改正問題などをどうするかといった将来のテーマでやりあうべきである。過去の自慢は一人だけの街頭演説でやるべきである。お人よしの国民はきっと、過去それだけ立派な実績があるなら次もきっと立派にやってくれると信じるだろう。

昔のことを言うと年寄り扱いされるが、子供の頃は年長者は一つ上でも敬いなさい、年寄りならなおさらという教育だったような気がする。この教えは後のちまで残った。サラリーマン時代は年上が部下になることもある。時には厳しく言わなければならない時もある。しかし、自分にはこれが結構難しかった。頑張っている若い人達は何故あの人に厳しく言わないのだろうと思ったかも知れない。こちらは、確かに部下ではあるがこの人は自分より長く生きている。自分の知らない経験だってしているに違いないと思うとつい矛先が鈍る。年が離れれば離れるほどそう感じてしまう。尊敬ではなく尊重だと思うがピラミッド社会ではそれは甘さに通じる。この辺りが今一つ出世しなかった要因だろう。でも振り返って間違っていたとは思わない。



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