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夫と真夏を送り出し、台所で食器を洗いながら、千秋はかすかな偏頭痛を耐えていた。調子が悪いのは、雨のせいだろうか。いや、夢のせいだ、きっと。
洗濯物を部屋干ししながら、千秋は部屋の隅を見た。確か黒い影はあそこにいた。
千秋はブルっと身震いをした。夢のことを思い出すと、今もあの人影がそこにいるような気がした。
「気のせいだ。気のせいよ」千秋は自分に言い聞かせながら、無理に心を明るくしようと、テレビをつけた。お昼前のヴァラエティが賑やかにあらわれた。
ぼんやりとテレビを見ているうちに、気分は少し晴れてきた。外の雨もいくぶん小やみになってきた。そろそろ真夏を迎えにいかねばならない。千秋は立ち上がった。そのとき、耳に錐が入ってくるように、確かに、あの声が聞こえた。
「おまえ、あの子、おまえの子だと思ってるのか」
振り向くと、またあの人影が、部屋の隅にいた。千秋はすうっと息を吸い込んだ。悲鳴をあげようとしたが、無理にそれをとめた。ここは冷静になるのだ。これは夢だ。また夢を見ている。たぶん、テレビを見ているうちに、また眠ってしまったのだ。
そんなことを考えながら、千秋はくぐもった声で言った。
「あんただれ? なんでいつも夢に出てくるの?」
すると人影はクックッと、しばらく笑いをひきずった。そして言った。
「あんた、俺と約束したんだよ。生まれる前に」
「生まれる前に?」
「そう、インターバル……」
千秋の頭の中で、絹子のことばがぐるぐるよみがえった。前世とこの人生の間に、あの世でいる期間のことを、インターバルっていうのよ……
「思い出せよ。おまえ、生まれる前に、俺んとこに来ただろう。それで、頼んでいっただろう……」
「知らないわよ、そんなこと!」
「知らないはずはないさ。今は覚えていないだけだ。おまえはね、俺んとこきて、頼んでいったのさ。子供をとりかえてくれって」
「何それ?」
聞いているうちに、千秋は胸がむかむかしてきた。頭の奥で、火花のようなものがばちばちと音を立てている。
「おまえの好きなあの子、あの子はね、ほんとはおまえの子じゃないんだよ。おれが、とりかえてやったのさ」
「うそ!!」
千秋は叫んだ。それで目を覚ました。
やはり、眠っていたのだ。テレビの向こうから、白けた笑いが聞こえた。千秋は起き上がると、例の部屋の隅を見た。雨の音が聞こえる。それが何かのささやき声のように聞こえて、千秋は耳を伏せた。
そのとき、また電話が鳴った。飛びつくように電話をとると、絹子の声が聞こえてきた。
「ああ、千秋? この前言った講演会のことだけど……」
千秋はしばらく答えられなかった。絹子は構わず、話をつづけた。講演会は明後日あるらしい。よければ車を出して載せていってくれないかという話だった。
千秋は少し迷ったうえで、いいわ、と言った。宗教みたいなことにはかかわりあいたくなかったが、夢のことが気になっていた。