イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その16

2009年09月03日 19時42分09秒 | 旅行記
靖子さんが戻ってきた。

靖子さんも浜田の出身だ。長浜小の卒業生ではないのだけれど、すぐ近くで生まれ育ったので、もちろんこの辺りのことについてはとても詳しい。清君と結婚してもうすぐ10周年。ふたりからは、今でも新婚さんのようなホワホワな幸せを感じる。清君とは、かぺ君を通じて知り合った。かぺ君が恋のキューピットだったのだ(かぺ君、いい仕事したね!)。僕が泊めてもらった部屋には、石見地方独特の立派な鬼のお面が飾ってあったのだけど、それはかぺ君たちからのお祝いの品なのだそうだ。家を新築したら友人たちがお面を贈るのが浜田の習慣らしい。ええ風習やないですか。お面を見ていると、ふたりの新婚時代とそれを嬉しそうに祝福しているかぺ君たち友達の様子が浮かぶようで、ちょっとジーンときてしまった。

「どこにでも送るから遠慮無くおっしゃってくださいね」靖子さんが言った。さっき戻ってきたたばかりなのに非常に申し訳ないと思いつつ、清君の家から車で10分ほどの長浜小まで送ってもらうことにした。

スーパー靖子号が出発した。助手席に乗せてもらって、いろいろと楽しくおしゃべりをした。靖子さんとは学校も違うし学年も僕たちより下だから、当然、浜田にいたときには面識がなかった。だから僕もちょっとは普通でいられる。一日たって少しは慣れたというものの、昨晩、清君、かぺ君としゃべっていたときの、あの目眩がするような不思議な感覚はない。それでもなんだか照れくさい。靖子さんとは事前にメールで何度もやりとりをしていたし、清君からも僕の噂はいろいろと聞いていたと思う。彼女も僕に会うのを楽しみにしてくれていたようで、嬉しい。僕ももちろん彼女と会うのをとても楽しみにしていたし、なんだか初めて会った気がしないのだけど、それだけになんとなく緊張してしまうのだ。そもそも僕は人見知りする方なのだ。

話をしていると、教師である彼女が、日々生徒とふれあう中で様々なことを考え、試行錯誤している様子が伝わってきた。教師という仕事は気苦労も多いだろう。だけどそんな大変な仕事に、彼女がとても真摯に、前向きに取り組んでいることが話の節々に感じられる。昨夜、景山先生がいかに素晴らしい先生だったか、という話をしていたときも、とても興味深そうに耳を傾けてくれていた。28年も経ってもこれだけ生徒に慕われ、話題になる景山先生のことを、同じ教師としてとても羨ましく感じると言った。いやいや、靖子さんのように素晴らしい人柄の先生であれば、きっといまから三十年後に生徒が訊ねて来てくれると思いますよ、と僕は言った。実際に、卒業生が清邸を訪ねて来てくれたこともあったんですよ、と靖子さんは嬉しそうに言った。久しぶりに会った生徒に、好きな人に振られたと愚痴られたのだと、その様子を楽しそうに再現してくれた。その生徒の口調は、まさに現代の浜っ子だった。面白く話を聞きながら、時代は変わったのだなぁと思う。今も昔も子供は子供で、可愛かったりときには憎たらしく感じることもあるのだろうけど、やっぱり今時の子供を相手にするのはものすごく難しいことなのだろう。僕には今の時代の子供たちのことはわからない。教師という職業の大変さも僕が想像しているよりも遙かに大きなものなのだろう。靖子さんがこれからも変わらずに素晴らしい先生であり続けて欲しいと思った。

そんな風に浜田の今を感じながら、僕は遙か昔の記憶を強烈に感じさせてくれるであろう場所に向かっている。タイムボカンに乗って、昭和50年代中期の世界へ。ハナを垂らした子供たちが走り回っていた、あの時代に。

そう、あの頃とは時代が違う。なにせ聖子ちゃんが『青い珊瑚礁』を、トシちゃんが『ハッとして!Good』を、海援隊が 『贈る言葉』を、クリスタルキングが『大都会』を歌っていた時代だ。僕たち男の子は一日のお小遣いである50円玉や100円玉を握りしめ、駄菓子屋まで全力疾走して、単価が10円や20円のガムやアイスやせんべいを食べ、パッチンやウルトラ怪獣の消しゴムを買った。コンビニなんてない。ファミレスなんてない。六本木ヒルズもない。いたるところに空き地があり、一歩間違えば大けがをしそうな危ない遊び場があった。戦争の恐ろしさを語る大人がたくさんいたし、経済発展の最中にあった躍進する日本の未来に目を輝かせている大人もいた。まさに昭和だった。インターネットも携帯電話もケーブルテレビもなく、大都市と地方の情報格差があった時代だ。地方都市である浜田は、他の地域とくらべてもかなり昭和の文化や風習を強く感じられる場所だったように思う。

小学校の雰囲気も、子供たちの日々の過ごし方も、当時と比べれば変わった点も多いだろう。もし今、当時の景山先生が四年生の担任だったら、どんな風になるだろう。どんな時代の子であっても、きっと先生の熱心さが伝わり、楽しい毎日を過ごすことになるだろう。後で知ることになるのだけど、当時、景山先生は教頭になる直前の、一教師としては最後の時期を迎えており、教員としてもっとも充実していたときだったのだそうだ。あの頃、先生は四十代後半。僕たち二組の生徒は、まさに教師生活の集大成を意識して、仕事に燃えていた先生と毎日を過ごしていたのだ。先生やクラスメイトと過ごした母校に、僕はもうすぐ到着しようとしている。

靖子さんの車の窓から見える現在の浜田の町並みは、昔の面影を色濃く残してはいる。だけど、新しく建てられた家や店舗は当然、日本のどの地域にでも見られるような現代風のものだ。人々の暮らしぶりも、当然ながら2009年の日本のどこにでも見られるようなものと、まったく変わらない。

やがて車は見覚えのある地域に入っていった。僕は興奮した犬のようにあたりをキョロキョロと見回した、ああ、ここ覚えてますよ! ここも来たことある! 靖子さんが微笑んでいる。ひょっとして、あそこを曲がったところが長浜小じゃないですか? 僕は自信たっぷりに言ったが、道はもう一本先だった。

懐かしい校舎の正門の前で、車は止まった。心がざわめく。彼女にお礼を言って、車から降りた。時間は9時を回ったところだった。ここからあの懐かしい通学路を歩き、そのまま正午にここに戻ってきてみんなと待ち合わせるか、いったん靖子さんの家に戻るためにまた迎えに来てもらうか、それは状況次第で決めよう。ありがとうございました、また連絡します。靖子さんは、いつでも迎えに来ますので、遠慮無くいってください、シャワーも浴びて、お昼も食べていってくださいね、またここまで送りますから、と言った。ああ、なんてええ人なんや!

車は去り、僕は人気のない正門の前に立った。校舎が遠くに見える。僕は正門を抜け、校舎に向かって校庭を歩き出した。真夏の陽射しが照りつける。あの頃と同じ、砂浜みたいなグラウンドの土。蜃気楼のように、校舎がそびえ立っている。なんだか信じられない。28年前、小学校4年生だった僕は、毎日ここに通っていた。そして今、まだ僕は生きている。あんなに長い年月が経ったのに、僕はまだ生きている。過去が瞬時によみがえり、これまでの人生が高速度で過ぎていく。なんだか人生最後の日みたいな気分。思いもよらない不思議な感覚に襲われたまま、引き寄せられるようにして、まっすぐ校舎に向かって歩いていった。

(続く)

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