イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

撮られなかった写真

2008年04月24日 09時02分59秒 | Weblog


つい最近、某友人から聞いたことなのだけど、その友人は、池澤夏樹さんが「写真を撮るとき、この絵が撮りたいと思ってシャッターを押す瞬間と、実際に写真が撮られる瞬間にはわずかな差があるから、実は本当に撮りたかった映像は、撮られることはない」みたいなこと(おそらく)を書いていたのを、どこかで読んで、それが印象に残っているのだそうだ。

僕も同じようなことを考える。写真でも、文学でも、映画でも、作品として現れた世界のなかには、確かに作者が思い描いた世界が映し出されているように思える。だけど、世界の本当の姿を、人間の手によって切り取られた世界で、どこまで現すことができるのだろうか? 僕はそのことを、横断歩道を渡るおばあさんをみるたびに思い出す。

道を歩く。横断歩道を渡るおばあさんがいる。おばあさんのことに、誰も特に注意を払ったりはしない。本屋に行けば新刊が所狭しと並べられ、映画の看板が新作映画を派手派でしく宣伝している。本を読み、映画を観て、世界を知り、楽しみ、考える。それでも、あのおばあさんの一日について、僕が知りうることは、本当にごくわずかしかない。世界はあまりにも広く、どれだけ頑張ってすくい上げようとしても、この手の隙間から零れ落ちていってしまう。

朝だ。どれだけ多くの人が今、どんな光を感じているのかを、僕は知らない。回り続ける地球の上で、どれだけの「撮られなかった写真」「語られることのない出来事」が今日を溢れることだろう。あの人が昨夜何を食べ、何を想い、どんな夢をみたか。僕にはわからない。

ただ言えることは、そんな巨大な不可知な世界のなかで、そこに在ることを僕のように憂うことなく、たくましく生きている者たちがいるということ。写真になんて撮られなくてもいい、言葉になんて表されなくてもいい、前に進め。世界はこんなにも豊かで、ぎっしりと生い茂り、青々と輝いたと思えば、明日にはごっそりと抜け落ちていく。そして朝が来て、またすべてが始まるのだ。

そして、そうした前提をした上で、あえてそれでも言葉は通じるのだ、とも感じている。言葉は世界を捉えることができる。奇跡のように、言葉がそこにあるものを表していると思える瞬間がある。いったい、こんな素晴らしいものを誰が考えたのだろう? と思えるくらいに。まるで、言葉に表されるために、世界が存在しているかのように。言葉も世界の一部なのだ。僕たちが生きている、この奇跡的な世界の。僕のポンコツカメラでは、世界を自在に、綺麗に切り取ることはできない。だけど、僕にできることは、僕が選んだことは、言葉で世界を切り取ることなのだ。

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