イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

マッコリ・イン・トランスレーション ~オモビニを探してソウルフルな旅~ 3

2008年06月21日 11時12分42秒 | 旅行記
街を行くと、思った以上に日本語の文字が多く眼に入ってきて、驚く。店の看板や商品説明の写真に、ハングルや英語と並んで日本語が表記されている。観光客の多いエリアに限ったことなのだろうは思うけど、意外に感じてしまう。日本食のレストランの看板も多い。寿司、フグ料理、とんかつ(なぜかやたらと多い。たしかにとんかつは韓国にとって盲点だったのかもしれない)、しゃぶしゃぶ、たこ焼きやなど。ラーメン屋はあまりない。微妙におかしな日本語も散見される。しゃぶしゃぶを『しぶやしぶや』と表記している看板もあった。だけど、笑えない。日本に氾濫している英語を始めとする外国語の表記だって、似たようなものだと思うからだ。日本にきた外国人は、きっとおかしな英語の嵐にさらされて、外国語表記をしてくれる親切さ(商魂?)をありがたく思うと同時に、笑うに笑えない、妙な疎外感も味わっているのだろう。

とはいっても日本語が使われている比率はかなり小さく、たいていはハングルだけで、たまに英語が併記されている、といった具合だ。ハングルがまったく読めないだけに、英語のアルファベットがあると助かる。ちょっと話はずれるけど、日本のテレビとか雑誌とかで、よくいたずらに人の名前とかをローマ字表記にしたりすることがあるけど、普段はそういう「英語アルファベットを使えばとりあえず、なんとなくかっこいいかも」みたいな安直な文字の用いられ方をみるにつけ、なんでいちいちローマ字にするのか、と心のなかでツッコミを入れていたりするのだけど(そういう単なるかっこつけローマ字が実際に誰かの役に立つかどうかは別として)、案外日本語が読めない人にとっては、英語あるいは日本語のローマ字表記というのは便利なものなのだな、ということが実感できた。

たとえば、ソウルの街を歩いていて、ビルや建物を見る。表札の多くは、ハングルだけだ。レストランとか商店なら、文字がわからなくても外観でそれがどんな店なのかを判断することができることが多いけど、見た目ではこれといった特徴がない建物の場合は、それを利用しているのがどんな人や会社や団体なのかということが、まったくわからない。これはけっこう不気味なものである。その表札が意味しているのは「○×地区商工会議所」なのかもしれないし、「ソウル翻訳連盟」なのかもしれないし、「ジャッキー・チェーン・ファンクラブ・ソウル支部」なのかもしれないのだ。

もちろん、だからといってこの状況が嫌というわけではない。ハングルが読めないのは僕の非でもあるし、そもそも、こうしたギャップがあるからこそ、海外旅行は楽しいのだ。それに、ハングルのフォントは美しい。当たり前だけど、韓国の街の、韓国の建物のなかにあると、よけいに美しい。ハングルの美しさは、機能美でもあり、雑味のないシンプルな美しさのようでもあり、どこか古代文明を思わせるその記号的な象形が、なんともいえず街と人と見事に調和していて、しばしば見とれてしまいそうになったのであった。

言葉が通じないのは不便だ。だけど、わざわざ外国まできて、日本語の看板のある店に飛びつき、店員には日本語で話しかけられ、日本語のメニューを見せられ、隣の席に座っているのも日本人観光客で、とやっていたら、なんだか海外旅行をした楽しみが半減してしまうと思ってしまう。必死に日本語を覚えて話しかけてくれる韓国の人の努力には頭が下がるし、嬉しさも感じるのだけれど、旅の始めから終わりまでそれじゃあ、つまらない。圧倒的なディスコミュニケーションを味わうのも、海外の醍醐味だ。推理を働かせたり(とりあえずメニューにある項目を指差して注文してみよう)、ボディランゲージを使ったり、相手が何いっているかはわからないけど笑顔で頷いたり(痛い目に会うこともあるけど)、そういったスリリングな展開があってこそ、海外じゃないか(といいつつ、こういうもっともらしいことを言ってる僕みたいな奴に限って、あっさり「転ぶ」という気がしないでもないが.......)。

歩いても歩いてもハングルの海。興奮はとまらず、僕たちはひたすら興味の赴くままに、真夏日を思わせるソウルの街並みのなか、歩を進めていったのだった。

ハングルは読めずそれでも目に入る日本語に「余計なお世話はいらないぜ」とゴチり