河野氏は瀬戸内海の伊予国の豪族の越智氏が今の北条市に移住したことから、河野
を称するようになった。河野氏は村上水軍とともに河野水軍を率いて源義経、頼朝
に協力し手柄をたてたが、承久の変では天皇方に味方して敗れてている。元寇の役に
出陣したり、室町幕府では足利将軍を助け、安定した領国支配をしたが、戦国時代に
なって力を失い、天正13(1585)年豊臣秀吉の四国攻略により55代続いた河野宗家は
滅びた。吉賀地方の河野一族は伊予高縄城城主河野氏の子孫で、河野弥十郎越智通弘
が正和4(1315)年に高尻に落ち下がったの始まりである。通弘は津和野の殿様の吉見
氏を頼って吉賀地方に入り、3人の子どもが高尻、大野原、下須に分かれて住みついた。
大野原と下須では斉藤と名を改めている。河野氏の中で弥十郎を名乗るのは初代弥十郎
通弘、2代森山弥十郎通実、6代弥十郎通秀そして河野氏宗家最後の18代弥十郎通治の
4人である。墓は17代までのものが上高尻にある。
河野一族が崇拝した神様として三島神社がある。河野弥十郎が伊予の国の大三島にある
大山祇神社の三島大明神を暦応元(1338)年に勧請したものである。弥十郎通弘の子ども
が住みついた高尻、大野原、下須にはそれぞれ三島神社がある。下高尻三島神社も
上高尻の三島神社を分幣したものである。
を称するようになった。河野氏は村上水軍とともに河野水軍を率いて源義経、頼朝
に協力し手柄をたてたが、承久の変では天皇方に味方して敗れてている。元寇の役に
出陣したり、室町幕府では足利将軍を助け、安定した領国支配をしたが、戦国時代に
なって力を失い、天正13(1585)年豊臣秀吉の四国攻略により55代続いた河野宗家は
滅びた。吉賀地方の河野一族は伊予高縄城城主河野氏の子孫で、河野弥十郎越智通弘
が正和4(1315)年に高尻に落ち下がったの始まりである。通弘は津和野の殿様の吉見
氏を頼って吉賀地方に入り、3人の子どもが高尻、大野原、下須に分かれて住みついた。
大野原と下須では斉藤と名を改めている。河野氏の中で弥十郎を名乗るのは初代弥十郎
通弘、2代森山弥十郎通実、6代弥十郎通秀そして河野氏宗家最後の18代弥十郎通治の
4人である。墓は17代までのものが上高尻にある。
河野一族が崇拝した神様として三島神社がある。河野弥十郎が伊予の国の大三島にある
大山祇神社の三島大明神を暦応元(1338)年に勧請したものである。弥十郎通弘の子ども
が住みついた高尻、大野原、下須にはそれぞれ三島神社がある。下高尻三島神社も
上高尻の三島神社を分幣したものである。
私の父の実家が、島根県鹿足郡吉賀町柿木村木部谷にあるんですが、どうもこの記事にある河野弥十郎氏と関係がありそうな感じがしました。インターネットでは地元の吉賀町のサイトにも、河野弥十郎氏が伊予から吉賀に来て、同地を開拓した、河野水軍の末裔と記載されていました。
ともあれ、タケシさんのこの記事がきっかけで、自分のルーツの一端?(かもしれない)が知れたような気がしました。有り難うございます(^_^)