おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
1月26日、27日にカミさんと一緒に萩を旅したことは、以前にお伝えしました。
1/27 萩・津和野の旅 ― 総集編
http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20100127
1/31 「満たす人」と「味わう人」
http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20100131
あれ以来、私が5-6度も行っていた萩のことがより鮮度を増して、ずっと私の頭の中に残っていました。
1つは、カミさんの視点が私と違っていて、私がそれまで見落としていた萩を拾い上げてくれたからです。
もう1つは、長州藩の幕末のエネルギーのルーツがいったいどこにあったのだろうか、と長らく自問自答しつつ、やっと最近になって自分の中で回答が出てきたからです。
司馬 遼太郎は、対談集『歴史を考える』(文春文庫)の中で綱淵謙錠との対談で、長州藩に触れて次のように語っています。
関ヶ原の恨みは忘れない。3百年間、東の方に足を向けて寝たと言われますが、証拠がありません。かといって、怨念は怨念です。
(一部略)
関ヶ原で防長2州(注:山口県)に閉じ込められて、ほとんどの武士が無給に近くなったんです。当時の殿様、毛利輝元は経営できないから、もう藩を投げ出すと言った。つまり藩を解散すると幕府に言いにいっています。
この間まで百石の者が2石ほどになってしまうし、30石だった者は無禄でしょう。だから、どこか山野を開墾して、何とか食っていかなきゃならない。そういう家族あげての生活の痛みが恨みになっていくわけですけれども(以下略)。
今後は、 「怨念」をキーワードにして、長州藩の長期戦略を組織の運営と関連づけて謎解きのようにシリーズで書いてみたい。