毘沙門堂は、京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。
寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、行基が開いたという。その後、荒廃するが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。
前身寺院である出雲寺は、相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。
平親範置文、洞院部類記によると、同年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという。置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王の創建で、太秦に所在。尊重寺は平親信の創建で、五辻に所在。護法寺は平親範の父・平範家が伏見に創建。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。
中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』にも言及されている。この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始され、その弟子の公海が引き継ぎ完成した。江戸幕府は山科の安祥寺の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後は後西天皇皇子の公弁法親王が当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。以後、門跡寺院となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。(Wikipediaより引用)
現在も京都市内には、秀吉が築いたといわれる御土居の跡が残る。その役割は諸説あるようであるが、この御土居を境とし洛中と洛外に分かれていた事は確かなようである。
全長23Kmにも及ぶといわれる御土居であるが、その範囲を調べてみると現在の市街地がすっぽりと入ってしまう。当時御土居には出入りのための口が設けられており、これが後に京の七口と呼ばれるものにつながっていったようである。
毘沙門堂の記事で、いきなり御土居とくると驚くかも知れないが、この御土居考えてみると実によく出来ている。府外の者が物見草に観光に出かけるとこの御土居の外、いわゆる洛外といわれる地域は意外と遠いと感じるのである。
そのためなかなか足が向かないのだが、洛外山科にある桜と紅葉の名所で高名な毘沙門堂を訪れる機会を得た。現在時節は桜であるが残念ながら訪れた時期は、どちらにも当てはまらない冬である。
本堂は毘沙門天を本尊とし、民衆の祈願提灯が壁一面に掛けられており、名前のとおりお堂そのものである。名前と建物の感じがこれほどピッタリとはまるところも珍しい。
ところで毘沙門堂の前身は出雲寺というお寺であるとされるが、それを証明するかのようにお堂の横には方丈が続く。
各建物はそれほど大きなものではなく、その中で仕切られる各間もこじんまりとした印象を受ける。だが、毘沙門堂は各間の襖に描かれる絵に最大の特徴があるようである。
どの間の襖絵も全て遠近法を使って描かれたものであり、見る位置により絵が動くのである。雲水さんに聞いたところ、動かない絵は一間だけだという。
毘沙門堂も他の寺院同様に撮影禁止なのであるが、注意をしていたつもりなのだが、張り紙がなく撮影OKかと思い撮ってしまったところがある。
もちろんお堂の中も同様であるが、お寺の方がいたのであるがシャッターを切ってもなにも反応がないので、OKかと勘違いをしたのである。考えてみるに、参拝者の良識を信じますという事なのであろう。