関西思い出旅日記

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雪の阿弥陀堂 三千院

2010年02月05日 | 日記

三千院は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山、本尊は薬師如来、開基は最澄である。青蓮院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。

三千院は八世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、度重なる移転の後、明治四年に現在地に移ったものである。

三千院あるいは三千院門跡という寺名は明治四年以降使われるようになったもので、それ以前は梶井門跡、梶井御所、梶井宮などと呼ばれ、梨本門跡、円徳院などの別称もあり、円融房が正式の寺名だったようである。

一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の十二世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、明治四年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたもので内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置してある。(三千院と往生極楽院は元来別々の寺院であった)。

極楽院(現・往生極楽院)は元来、天台の門跡とは無関係であった。寺伝では恵心僧都源信の妹、安養尼が寛和元年に建てたものと伝えられてきたが、実際はもう少し時代が下った十二世紀末に、高松中納言藤原実衡の妻である真如房尼が、亡き夫の菩提のために建立したものであり、この史実は、彼女の甥にあたる吉田経房の日記「吉記」の記述により明らかとなっている。明治四年に三千院の本坊が洛中から移転してきてからは、その境内に取り込まれた。極楽院を往生極楽院と改称したのは明治十八年のことである。(Wikipediaより抜粋引用)

 

 

雪の三千院を二回に分けてアップする事とする。今回は往生極楽院阿弥陀堂の風景を中心とする。Wikipediaに書かれているように、三千院の名称になったのは近代に入ってからのようである。

しかし、街中から距離があり当時観光による参拝者はそれ程多くはなかったようである。この三千院の名が一躍全国に知れ渡ったのは、やはり昭和の流行歌「女ひとり」の影響が大であろう。以降爆発的に観光参拝者の数が増えたと聞き及ぶ。

 

以前、宝泉院の記事の中で「声明の里」大原と書いたが、三千院においても余り声明を耳にした事がない。幾度となく訪れている三千院であるが、声明のテープらしきものも目にしない。次回にはきっちりとこのあたりを確かめてみよう。

天台声明で忘れてはならない寺院がもうひとつ大原にはある。来迎院である。声明の祖とされる円仁、そして隆盛に寄与する良忍が勤めた寺院である。来迎院もいずれ機会をみてアップしていく。

ところで数年前、三千院には宝物館が建設された。文化財的なものはこの宝物館に移され管理されているが、これに伴い残念な事に客殿等の様相が一変してしまった。

文化財保存は重要な事ではあるが、改築以前のイメージを抱きながら訪れた私にとっては至極残念、興ざめ以外のなにものでもなかった。昨今は多くの寺院で宝物館を建設しているようであるが、できる事ならば伽藍形態は昔のままの姿で保存する事を願いたい。

さて、阿弥陀堂であるが、お堂には阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が安置されている。

三尊様の身の丈は結構大きく、本尊である阿弥陀様の両脇侍の観音菩薩、勢至菩薩は、大和坐り(正座)をしている珍しい像という事で知られている。だが、見方が悪いのか、私には正座というよりは立ち膝に見える。

 

他の季節であれば、瑠璃光庭の木立のなかに静かに佇むお堂とて同化している感じであるが、白一色のなかで佇むお堂は、宸殿、客殿と離れているためか、どこか孤立しているような印象さえ受ける。

 

三千院と往生極楽院は元来別々の寺院であったとの由来が何処となく頷ける。

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