好奇 高齢者 の呟き

地場産業や蒲原の風景 山 山野草 良寛歌碑、 史跡 旧北国街道を訪ねる、 また聞いたり話した、方言を紹介したい、 

原田鵲斎旧宅跡 良寛歌碑

2007-09-26 23:41:28 | Weblog
原田鵲斎旧宅跡 (はらだ じやくさい)
大森子陽塾の同門で良寛の良き理解者で友人

真木山村(夕暮れの丘から分水路を挟んでの向かいあたり)

庄屋原田仁左衛門の三男で23歳で医者を開業した
文化14年に中島村(現燕市中島に)移る迄の20年間
良寛 弟の由之 大村光枝 亀田鵬斎等の文人を迎え

詩歌を詠みあった。

歌碑
萬幾也末尓天与面流  まきやまにてよめる
許所乃者留      こぞのはる
散計耳宇計都留    きけにうけつる
宇女能者奈      うめのはな 
都知尓於地計里    つちにおちけり
以當川良之天     いたずらにして

許所(去年)の春 鵲斎と3人で梅の花の下で盃を
酌み交わしたが この鵲斎
の屋敷は今は跡形もなく 梅の花がいたずらに散っている。
平成元年3月分水町建立 説明より

此処も今は燕市。
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旧円上寺潟水際道

2007-09-26 18:41:07 | Weblog
夕暮れの丘方面から今の新信濃川 分水路を挟んで
大きな潟 円上寺潟があり 文政年間に1818年~
1830年に村上藩が行っていた トンネルが出来て
円上寺潟が美田に (山をくり抜き寺泊から日本海に
流すようにしたのかあのトンネルの川か?)
この工事に原田要右衛門も貢献した、
今ではわずかに昔の面影を留める山裾の道が有るだけ。

この辺りで良寛 江戸の文人 大村光枝 亀田鵬斎が
原田鵲斎を訪れて湖上の風光を賞したのでは。

良寛の親友 歌友 阿部家もすぐ近く
良寛が五合庵に居住できたのも原田鵲斎や
阿部家の口添えも有ったのだろうか、
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