神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

私がパンをあまり食べなかったわけ

2024年06月23日 19時24分31秒 | 時代検証
 今日は、さっぱり朝の4時半から時間が進まない。
最近の決め事、「5時前に間が覚めても布団の中で、まどろみながら5時半過ぎまではじっとしている」
それが今日は守れなかった、外では早くも鳥たちが夜明けと共に活動を始めている
決め事をするまでは、5時でもおかまいなくチュン太たちに朝ご飯を提供していたが、さすがに今は早く起きても、そこまではやる気は無い
この頃は6時から7時の間で定まって来た。

朝のルーティンも定まって来て、まずは顔を洗って神棚の榊の水と、水を取り替えて拝礼をする。
それから、仏壇のご飯を取り替え、花の水を新しくする、そして焼香と朝の挨拶をする。
その後で、庭の畑の空き地でチュン太に朝ごはんを振る舞い、楽チェアーに足を延ばして10分ほどチュン太たちを見ている
頭を空っぽにして眺めて居るだけの、この時間が至福の時、一番好きだ。
空っぽと言いながら、チュン太たちのほほえましい姿に何かを思っている。

それから自分の朝食のご飯やおかずを作り始める、だいたい30分くらいで出来る、ほとんどが野菜料理と卵料理、それにみそ汁やスープ作り
パンを朝食べる習慣は74年間ない、朝はご飯に味噌汁と決まっている
パンは中学の学校給食で三年間毎日冷たくあじけない「こっぺぱん」を「キャラメルみたいな固いバター」をかじりながら(塗るのは不可能)、アメリカからもらった栄養不良を補うための脱脂粉乳の冷たいミルクと一緒に胃に流し込んだ
まれに「小倉ミルク」と言って、甘い小豆入りの脱脂ミルクが出て、それはうまかった。(脱脂ミルクは、アメリカでは家畜の飼料との噂があった)
おかずはだいたいがうまくなかったが、「クジラの竜田揚げ」と「春雨サラダ」だけは数少ないうまいおかずの記憶がある、それ以外は記憶にない
パンの話が中学校の給食に脱線したが、そんな冷たく固い、まずいパンを食べていたのでパン嫌いになった。
それが滅多にパンを食べない理由である。
そもそも「こっぺぱん」が大きすぎる、たいてい半分食べて残りは紙にくるんでカバンに入れて持ち帰り、家でスライスして素揚げして、砂糖をかけておやつ代わりに食べたが、やはり毎日だと飽きる。
人それぞれで中には私のように残す者からもらって2人分食べる奴もいた。

これは中学校の給食の話だが、小学校の時はうまいパンを食べていたのだ
弁当を持って行くのは自由だったが、昭和30年代の事だから、朝から色とりどりの弁当を作ってくれるのは町場の豊かな家の奥様位なもので、私たちのような下町のかあちゃんは忙しいから、たまに作ってくれるのは「のり弁」
運が良ければ、小さな卵焼きが入っていることがあったが、卵も貴重な時代。
さすがにのり弁は味気ないから、のりを二段にしてくれと頼んで「二段弁当」
これで昼飯は終わったが、弁当が無い日はパン食
朝、パンの注文当番が点呼をとる「こっぺぱん」「ぶどうぱん」「ジャムパン」「クリームパン」「栄養パン」など何種類かを読み上げ、挙手で数を書いていき、それを先生に提出すると、昼に廊下でパン屋から受け取る仕組みだった
牛乳も注文出来て、ビンに入った牛乳と、コーヒー牛乳があった、断然コーヒー牛乳が甘くて好きだった
甘いものが不足の時代だった、支払いはどうしたか覚えていない。

高学年になると、少し利口になって情報を活かすことができるようになった
学校の正門の前に食料品店があって、そこの奥でこっぺぱんを買うと、ジャムなどを選んで塗ってもらうのだが、中に「バターピー(バターピーナッツ)」があって、これが抜群の旨さだった
もう学校の注文パンなんか食べていられない、少数の情報を得た子供だけが、特別美味しいパンを食べられる
私も、その一人であって、密かに優越感を持ちながら食べていた。
それが中学校に行って、あのまずい「こっぺぱん」に戻されたのだから、パンを嫌いになって当然だった。

今は女房殿がパンやケーキを焼く文明の利器で、毎週一回は焼いてくれるので温かくて柔らかいパンを週二回は食べている。

女房殿が実家の畑で作ったジャガイモを持って来た、ざっと200個以上はありそう。 でもほとんど女房殿の叔父さんが作ってくれたのだ。
ベーコンとで「チーズポテトグラタン」でも作ろうかな。


橋幸夫 雨の中の二人

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (120) 長尾家 33

2024年06月23日 08時11分59秒 | 甲越軍記
 三人は「いや儂らは何もしてはおらんが」と言ってから、夕べの不思議な怪女の事を主に話した。
すると主は顔色を変えて「これは・・・心に覚えがある」と言い
「恨みの報いとは逃れがたいものだ、あなた方には、隠し立ては致さずすべてを話しましょう
某の妻は気性激しくて少しの事でも頭に血が上り、見境がつかなくなり下女奉公の娘たちの些細な過ちにも腹を立てて、むごい折檻を繰り返していました
そんなおり、一人の下女がまたしても犠牲になり、激しい折檻に耐えられず首をくくって死んでしまったのです
世間に漏れることを恐れて、あの榎の木の下に埋めたのです
されども無念の死を遂げた娘の執念は妻の業となって、夜な夜な妻に復讐していたのでありましょう」と話し
その日のうちに、無念の娘の供養を丁重に行い霊を祀った。
そして「我とても遊侠の暮らし気ままに行い、あらぬ悪事も度々行ってきた
人の恨みとは恐ろしきものである、これからは心を入れ替えて生きよう」
そう言うと、髪を剃って益翁と名も改めて出家した。

それからは諸国行脚の旅に出て歩くこと数年を経て、栃尾にやって来たのであった。
景虎は益翁の事を風の便りに聞き知って、ぜひ会いたいものだと思い、招いた
益翁の諸国の地理に詳しいことは一日では語り尽せず、何度も景虎は益翁を招いて話を聞いた。
益翁も景虎が若年ながら、虎をも呑む志あることを悟り、戦国諸将の強弱を話して聞かせると、ある夜、益翁に囁いた
「わが兄、晴景に申したき談あるが、周りは敵ばかりで動くこともままならない、貴僧は我を伴い府内に連れて行ってはくれぬか」と言うと、益翁はこれを快諾承知した。
「但し、その姿では行けませぬ故、髪を剃り愚僧の弟子の体で行かねばなりません、それであれば心安く行くことが出来ましょう」と言うと景虎は喜び勇み、早速に美作守に話した。
美作守は驚き、果たして敵ばかりの道中を無事に府内まで行けるだろうかといぶかしがり「長尾平六は雄略他の大将を遥かに超えております、いまだ年若い景虎さまの、照田父子討伐の志には涙溢れるばかりに感動していますが、敵勢の強い今は時期尚早と思われます、いましばし時節が到来するまで、待たれるのが宜しいかと思います」と言い
「その廻国の僧も果たしていかがなものであるかわかりません、もし道中で心翻せば、御身はたちまち危うく成るでありましょう、大切な御身でありますれば軽々しい行動は慎むべきでは」とも言った。

景虎は、心は違えども、その場は美作守に従うかの体に見せかけて退出した
そして(益翁が裏切れば、某の運の極みなり、それも仕方あるまい、ただただ手をこまねいて月日の経つのを待つことこそ悔しけれ)
益翁と心合わせて早々に髪を剃り、僧形に姿を変え、従う戸倉、秋山、曽根、鬼小島もまた髪を剃って僧形に姿を変えて、栃尾を旅立った。