神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

「昭和は良かったね」⑦ 小学生の遊び

2016年09月29日 08時52分30秒 | 昭和という時代

今、日曜日の通りには子供の姿は無い、元気な子供の声も聞こえない

いったいどうなってしまったのだろうか、たしかに子供の数はわれわれ団塊+1に比べて

40%以下になってしまったが、それでもまったくいないわけじゃない

最近、子供サッカーの大会を見に行ってわかった

日曜日の子供はサッカー場や野球場、体育館、プールに家族ぐるみでいたのだ

そこには相変わらず元気な子供の声が聞こえている

遊び方がかわった、家族のライフスタイルが代わった、ただそれだけのことだった

私たち世代昭和の遊びは、子供だけで遊ぶ昔ながらの伝統的なものであった

今の子供たちは家族が応援して、その前で子供たちがスポーツ競技を行っている

家族ぐるみで組織に入って組織で遊ぶ(遊ぶ・・・? プロ選手を目指す?

上級生になると監督が子供を叱咤しているのを見ると、我々の頃の遊びとは明らかに違う

やはり今の子供にはスポーツはあっても遊びはないのだろうか、スポーツで無く、遊びにしている子は

監督から見たら、教え甲斐の無い落ちこぼれ?)

遊びの質もずいぶん代わってしまった

 

小学校入学前後の遊びは「ちゃんばら」「いっちょ(めんこ)」「ビー玉の三角だし」が御三家だった

「チャンバラ」はそこらの木の枝を拾ってきて振り回し、当時「鞍馬天狗」が流行だったので

手ぬぐいを2枚持ってきて覆面を作ってかぶり、天狗を真似たものだ

腰にも手ぬぐいやヒモを巻いて大小の2本の棒を差し込んで侍気分に浸った

ビー玉は綠の小さな物と同じく大きな玉があって、三角の中に入れていくつはじき出すかの遊び

たまに黄色などの色が入った色ビーがあると欲しくてたまらなかった

いっちょは「1ば」から「5ば」まで大きさによって種類があった,

形は完全な円形で最大は直径20cmくらいの「5ば」

地面に置いてある、相手のいっちょの横に自分のいっちょを叩き付けて、風で裏返ったらもらえる

「あおり」という技術があって、これは投げる小さないっちょと、一番大きい「5ば」を一緒にもって

「5ば」を団扇のように使って風をおこし、より簡単に相手のものを裏返す技術だ

「てっかん」というのもあった、これは卑怯な手で、いっちょの裏側を缶詰の蓋で覆ってしまう

重くてほとんど裏返ることは無い禁じ手であった

それよりましなのは「ろうかん」、これはいっちょの裏に蝋を塗った物だった

 

5円あると、駄菓子屋で「1ば」から「5ば」まで1セット20枚くらい買えた

5ばには隠し絵というのが武者絵などの中に書かれていて、いろんなものが隠れているのを探す遊び

ができた、1枚で2度おいしい遊びだった

いっちょの傍流に「豆いっちょ」というのがあった、直径2cm程の小さな物で淵に蝋がついていて

親指と人差し指ではさんで遠くまで飛ばした方が勝ちだった

 

運動的な遊びでは「じゅんどろ(巡査と泥棒)」「かんけり」「人馬」「いっきょにきょ」「丸増やし」「六段」

「野球」「相撲」がよく行われていた

近所に300坪の空き地があって、そこは全て砂が敷き詰められていたから、学校から家に戻ると

玄関でカバンを放り投げてそのまま遊びに出た

ここでは幼稚園児から中学生まで集まってくる、最大で30名以上が常時遊んでいた

砂場に行くと、数人遊んでいて最初は丸増やしをして遊ぶ

丸は互いの陣地で、条件で何歩敵陣に入って良いというルールが有り、タッチされたら負け

勝った方は自分の陣地の丸を増やすことができる、強い奴はどんどん増やしていき

それをつなげて大きな部屋を作って「相撲場」にして入ってきた敵をそこで投げつける

 

10人くらいになると野球をしたり、鬼ごっこである巡泥や缶蹴りをして遊んだ

巡泥なんかではどんどんどんどん逃げていって、そのうち巡泥をやっていることを忘れて他の

遊びになってしまったりもした

いっきょにきょは、足や手の平、肩、頭などに石を乗っけて、ラインの向こうにある大きな石に当てる遊び

難易度によって進む歩数が決まっている

六段はゴムを使った遊びで、簡単に言えば走り高跳びである

 

相撲と人馬は学校での遊び、体育館にはバスケの丸があって、それを土俵に見立てて遊ぶ

下は板張りだから、投げつけられると痛いし、しょっちゅう擦り傷をしていた

赤チンとオキシフルは必需品だった

人馬は荒っぽい、馬役は5人ほどで先頭は壁を背に立っている、その股ぐらに頭を突っ込んで尻を突き出す

そこに次のが頭を突っ込む、そうして5~6人の長い馬ができる

乗馬組は走ってこの馬に飛び乗って揺らし、馬を潰そうとする、馬の数と乗馬組の運は同じで

乗馬組は潰そうとするし、馬組は乗馬組を振り落とそうとするが、潰される方がはるかに多い

これは足腰が強くなり、バランス感覚も鍛えられたと思う、もちろん体力勝負である

 

こうして毎日、砂場で遊んだから足腰が強くなり肺活量も大きくなった

中学校の時校内のマラソン大会や1500m走、3000m走ではクラスでいつも2番だったし

跳躍では1~2位だった

100mも12秒半ばで走ることができた

水泳はダメだったが、陸上は大好きだった

 

あきらかにスポーツですね

 

 

 

 

 

 

 


「昭和は良かったね」⑥ おら東京さいぐだ

2016年09月29日 08時03分30秒 | 昭和という時代

我が町から東京へ行くには日本列島の一番幅広な場所を横断しなければならない

だから東京へ初めて行ったのは昭和38年、中学1年の時だった

石炭を焚いて走る蒸気機関車、クーラーなどなかった時代だから暑いと窓を開ける

トンネルに入る前にあわてて窓を下ろす、開けっ放しでトンネルに入ろうものなら

車内は石炭の煙で充満して顔はすすけるし、目には石炭の粉が入って痛いどころではない

信越線碓氷峠ごえでは横川駅の釜飯販売で汽車はちょっと長めに停車する

窓を開けてホームを歩く弁当売りから買う人もいるし、ホームへ買いに出る人もいる

みんな乗るまで発車しない、のどかな風景だった

東京までは10時間くらい半日がかりの行程だった

 

夜行列車というのが走っていて、別に特別な列車では無く、たんに夜走るだけの普通の列車だ

最近廃止された高級なナイトトレインとは違う

東京へ行くとなるとほぼ一晩車中にいるわけで、大概は寝ている

新聞紙を足下にひいて裸足になるのは当たり前で、通路に新聞をひいて寝る人もけっこう居た

トイレへ行く人も「じゃまだ」なんて言わず、寝ている人をそっと避けてトイレに通う

 

初めて東京へ行った日は、カントリーボーイにとって衝撃的な一日だった

父は10数年年前まで暮らしていた東京だから蛍の尻尾で、交通はおてのもの

東京タワー、皇居に行ったことは覚えている

東京タワー333m、現代のスカイツリーと同じ人気、球界大スター長嶋茂雄の背番号3とダブって

3のイメージが強かった

 

東京の帰りも夜行列車で、なんと寝過ごしてしまったのだ

目が覚めたら、降車駅を2つ通り過ぎていた、急行列車だったので大きな駅しか停まらず

最初の停車駅で降りた、漁場の町だった、戻る列車が来るのに2時間以上またされた

時間は深夜の3時だった、ようやく5時頃各駅停車の鈍行列車がやってきた

行商のおばちゃんたちが何人も乗り込んだ

私はこれで帰れると喜んでいたが、降車駅までは1時間半くらいかかる

そのうち腹が減ってきて血圧が下がり気分が悪くなり、青ざめてきた

脂汗が出てぐったりしてきたら、前の席に座っていた行商のおばちゃんが

「坊、どうしたね?」と聞いてきた

「腹が減ったようで」と父が言った

するとおばちゃんは大きな荷物の中からリンゴを一ヶ取り出して

「食え」と言って渡してくれた

皮つきのままかじりついた、リンゴの酸味と甘さがのどから胃に流れ込んでいく

これほどのおいしい食べ物は過去にどれだけもなかったろう

私は生き返った、元気が出た

おばちゃん、あのときは本当にありがとう

 

 


「昭和は良かったね」⑤ わが家にテレビが来た日

2016年09月28日 16時04分00秒 | 昭和という時代

夢にまで見たテレビだった、昭和36年

とうとうわが家にもテレビが入ったのだ、妹はテレビが理解できず裏に回って中をのぞき込んだ

よくある話だが中に人が入っていると思ったんだろう、ネコに鏡を見せるのと同じだ

それまでは長いテレビ遍歴があった

最初は大概の家にはテレビは無くて、電気店の店頭に宣伝のためテレビを見せていた

夕方からは大人も子供も2店ある電気屋へ見に行く、どちらの店も数十人の見物人で溢れた

特に相撲が人気で、それがメインだったようでのべつ幕なしに見せていたわけでは無い

栃錦、若乃花、琴ヶ浜、朝汐の時代だ

野球のナイターも見せていたような気がするが子供はそんな遅い時間まで見ているわけにはいかない

そのうち、ぽつりぽつりと近所にもテレビが入り始めると、テレビの無い家の子供たちのテレビ徘徊がはじまった

「ごめんください、テレビ見せて下さい」と言って5人くらいで訪ねていく

それぞれの家では何曜日の何時と時間を決めて見せてくれる

「ハリマオ」だとか「少年ジェット」とか「ポパイ」とか3軒くらいの家を見て回った

そのうちに父と懇意にしていた建設屋の人が「プロレスが見られるから見に来ていいよ」

と誘ってくれた

当時、プロレスが大好きで、雑誌を見ては胸を躍らせていた

ヘイスタックカルホーン、鉄人ルーテーズ、デストロイヤー、キラーコワルスキー、クラッシャーリソワスキー

ゼブラキッド、カールゴッチ、人間発電所ブルーノサンマルチノ、ジェフオルテガ、フレッドブラッシー,

ミイラ男ザ・マミー  七色仮面ミルマスカラス  鉄の爪フリッツフォンエリック

どれもこれも人間離れした化け物だと思っていた

コワルスキーがニードロップで耳をそいだとか聞くと震え上がった

日本は当然力道山が花形で、吉村道明、グレート東郷、豊登、遠藤幸吉

ジャイアント馬場やアントニオ猪木はまだ若手であった、小学校に彼らが来て技を見せてくれた

それがテレビで見られる、当時地元県のテレビではプロレス中継は無く、隣の県ではやっていた

両腕を大きく降って胸元でクロスさせると、脇の下で「カポン!!!」と音がする、豊登のパフォーマンスを

子供たちは面白がってよくまねをしたモノだ。

グレート東郷の首を上下にひょこひょこ動かす真似もしたし、力道山の空手チョップは遊びの定番だった

それがテレビに映るというので楽しみに見に行った

さあ始まる、ザーザーと凄いノイズの中で影が動いている、微かに音声も聞こえる気がする

大人たちの目にはプロレスが見えるらしいが、私にはノイズと影しか見えなかった

その一度で見に行くのはやめた

 

わが家にテレビが入ったとき、わが家にテレビを見に来た子供は一人だけだった

 


「昭和は良かったね」④ 子供たちの海水浴

2016年09月28日 09時14分03秒 | 昭和という時代

今は侵食が進んで国道の縁まで日本海が来ている

国道の下の砂が流されて自動車がはまるほどの陥没が起きたこともあった

だが昭和も40年以前にはこの海岸は50m以上の長い砂浜が続いていたのだ

夏休みになると小学生は6年生を親分にして地域ごとに10数人のグループで浜へ

泳ぎに行く、時間と泳ぐ場所は学校から指定されているので混乱も無い

海岸一帯が小学生数百名で埋め尽くされる

砂は焼けていて、サンダルが脱げたりすると「あちち!」で必死に海辺まで転がるように走った

波が上がるような場所の砂は乾燥してせんべいのようになっていて、それを形に切り抜いて遊んだ

焼けた大きな石の上に、浮いている直径25cmほどのミズクラゲを砕いて乗せて、水だけに溶けていくのを

喜んで見たりして遊んだ

 

あるとき、私と一学年下のCの二人は泳ぎが得意で無いので、6年生が二人でトラックのタイヤのゴムチューブに

二人を捕まらせて、どんどん沖に連れて行った

そしてかなり遠くに来たところで「帰ってこい」と言って、チュ-ブに捕まっている2人を置いていった

実際はせいぜい数十mなんだろうが泳げない二人には1kmも遠くに来た気がした

仕方なく片手は捕まって片手で水をかいて戻ろうとしたが、泳げない者同士で気が合わない

ただバタバタするだけで、あまり進まない、なんとか前進はしたけれどまだまだ

もう「これじゃだめだ」と思って、思い切って手を離しやみくもに手を振り回して泳いだ

目をつぶって泳いでいるからどれくらい来たのかわからない

もう良いかと思って休んだら、ぶくぶくと沈んでいく

足が底に着いた、目が開いた、上を見たら1~2m程だろうか上に水面が見えた

これはたいへんと、また目をつぶって必死に手をかいた、膝が砂利の底に当たるまでかき続けた

必死になればできるもので帰ってこれたのだ

だが今考えればずいぶんひどい話ではないか、6年生と言ったって子供だ、もし溺れたらどうするんだろう

だが浮き輪に捕まっていたCはどうにも戻れなかったらしくて6年生が再び泳いでいって引っ張ってきたらしい

それなりに責任感は持っていたようだ、これだけやっても泳ぎはその後も苦手だ

海岸線に平行に泳いでばかりいた

 

 


「昭和は良かったね」③  初めての紅茶とコーヒー

2016年09月27日 16時03分42秒 | 昭和という時代

昭和30年代は甘い物に飢えていた

砂糖は貴重品だったのかもしれない、甘い物の思いでは駄菓子屋の甘納豆

お年玉袋くらいの甘納豆を5円だかで買って、くじをひくと1等は20cm×12cm位の

大袋の甘納豆がもらえた

紙芝居のおじさんが売っている水飴も日常的に食べられる数少ない甘味だった

あとは、祝い事があると砂糖の塊である「らくがん」を食べることができた

風邪をひくと「ミカンの缶詰」や「葛湯」が食べられたので風邪引きは楽しみでもあった

とにかく甘味と言えばそんなもので、とても上品な甘味では無く、庶民の甘味ばかり味わっていた

 

上品な砂糖「グラニュー糖」に出会う事になったのは小学校6年生の時である

同級生Aの家は、江戸時代から続く我が町では名物に数えられる医者でそこの次男坊

ほんの一時だけ友達だったのだが、ある日、Aにつれられてその家に遊びに行った

石畳の奥まったところに医院があり、右手の長屋が住まいである、すなわち鍵の手の曲がり家

そこに上がってAが出てくるのを待っていたが、おばあちゃんがいて

「今、御紅茶をいれますからね」と言って、急須(だと思った)に茶葉を入れて湯を入れた

私はお茶しか知らないから、お茶だと思った、ところがそこにさらさらと塩みたいな物を入れた

これがグラニュー糖との初対面だった

飲んでみて、そのおいしいことったらなかった、初めて飲む「紅茶」

ティパックではなかった(当時はもちろん無かっただろう)

名家の上品なおばあちゃんからいただいたのは初体験としては上出来だったと思う

 

コーヒーの初飲みはその翌年、中学一年の時だ

数十年のつきあいがあったBは小学校4年生頃からの友達で、彼の父親は流れ板前でほとんど家にいなかったから

母子家庭に準ずるものだった(彼の父親が家にいたのを見たのはたった1度だけだ)

おかあさんはいつも着物を着ていて綺麗できりっとして上品そうだった、でも雰囲気はこぎれいなクラブの、

良い感じのママ風

毎日魚まみれで働く自分の母と比較してはうらやましく思った

(いつも母と家に一緒にいられるBをうらやましく思ったのかもしれない)

杉木立の中にあるBの家は静かで趣がある、母屋はBのおかあさんの妹夫婦の家で、その一画を借りて

住んでいたらしい

その母屋は50坪ほどの南向きの苔むした庭を持ち、石畳が延びている(どうも石畳の庭に縁がある)

一万石の小大名の家臣の子孫ではないかと今も思っている

Bの家に行くようになったのは中学一年で初めて同じクラスになってからだ

母屋は平屋だが、Bの家には二階があって3部屋あった、一階には3畳の勉強部屋も有りすべて一人っ子の

彼の部屋、兄弟3人で6畳間で暮らす私とは大違いだ、これもうらやましかった

土曜の午後、石膏で人形を作って遊んでいたが、おかあさんが下から上がってきて

「3時のおやつ、召し上がれ」とニコニコしてお菓子と一緒に持ってきてくれたのがコーヒーだった

飲み方も知らない私はBが砂糖(これもグラニュー糖、我が家には無い)を入れてスプーンでかき回すのを見て

真似て飲んだ、紅茶とは違うおいしい甘さが口の中に広がった

今は缶コーヒーまで含めて一日5杯以上飲んでいるコーヒーだが、これがコーヒーの初体験だった

コーヒーの初体験も、綺麗で上品なBのおかあさんに入れてもらったのは、これまた上出来な初体験と言えよう。


「昭和は良かったね」② さかなやのおじさん

2016年09月27日 15時53分32秒 | 昭和という時代

父は東京空襲で家と家族の全てを失って、昭和23年にこの地に流れ住んだ

翌年結婚して闇屋で生計をたてながら3人の子も育てた

9年後には33歳で6畳二間の小さな魚屋を開業できた

この頃、地元の化学工場は好景気で、近所の大人の3人に一人はこの工場に勤めていた

母も私の妹が生まれるまでその工場で働いていた

そんな近所の事情で、この地域の成年男子で日中からこの地域にいるのは父くらいだった

店の休日は元日だけで、364日は店にいるので交番のおまわりさんのようなものだ

親が留守でも、子供たちは学校から帰ってくる、当時はそんな言葉は無かったが「団塊世代」の子供たちだ

どの家にも2人から5人くらい子供がいる、しかもみんな活発に外で遊ぶから外は子供の声でとても賑やかだった

親は無くとも子は育つ、子供が子供の面倒を見るから親も安心して働いた

だけど時には事故も起きる、そうなると日中滞在型の父の出番だ

向かいの家には男ばかり3人兄弟で、元気いっぱい

長男は柿の木に登って落ちて「おじさん頭が割れた」と言って、血だらけの頭を押さえてやってくる

父は子供の頭をタオルでぎゅっと縛って三輪トラックで病院へ運ぶ、幸いたいしたケガではなかった

今度は次男が指を押さえてやってくる「おじさん、指がもげた」と泣いてきた

ナタで薪割りをしていて指を叩いたらしい、見てみたら骨まで達するようなケガでは無く

薬と包帯を巻いて返した。

三男坊は温厚な子でケガはしなかった、後にキャプテンとして甲子園の土を踏むことになる

まあこんなわけで、近所の子供たちには「魚屋のおじさん」と頼りにされていた

だけど外面は良いけれど、家の中では気むずかしい短気な父で、私は毎日のように殴られた

兵隊を経験した上に、家族を失い、戦後の上野、新宿、調布と渡り歩いた人だけに

気の荒さも半端でなかった、だが妹と弟には怒ることも手を上げることも一度も無かった

長男の私だけがみんなを代表してやられたわけだが、子供の頃の私も「疳の虫」が指から出るくらい

疳の強い子だったらしい、近所の女の子に石をぶつけてケガをさせたとか、風呂へ行くと赤ちゃんに

かみついたとか、家の中の仏壇や障子はバタバタに壊したりしたらしい、私は記憶ありません

戦後というのは、そんな時代だったんですね。

 


「昭和は良かったね」① 山本富士子

2016年09月26日 15時05分17秒 | 昭和という時代

このまえ、魚屋仲間と話していた中で「山本富士子」という名前を出した

「山本富士子なんて言っても、今時の人は知らないぞ」

たしかにそれはそうだ(*注 昭和20年代~30年代のトップ美人女優)

 

山本富士子と言えば思い出がある

昭和35年頃、我が家の向かえに隠居した大工のおじいさんがいた

父はそのおじいさんに、小さな修理仕事があると頼んでいた

仕事が終わって日当を払う段になると、おじいさんは

「お金なんかいらん、さしみ一皿とこれ一つでいい」と言って、酒を飲む仕草をする

それでいつも焼酎の二合瓶1本と刺身一人前が日当だった

その頃、我が家には雌の三毛猫(三毛猫はみんなメスという言う説があるが本当?)

がいて、これが毛並み良くすらりとしたネコで、ネコの世界でもそうとうモテたようで

生涯に100匹ほど子を産んだが、その子猫もみんな器量よしで全てもらわれていった

おじいさんが小上がりに腰掛けて焼酎を飲んでいると寄ってきて愛嬌を振りまくネコ

おじいさんも目を細めて「おまえは器量よしだなあ、人間なら山本富士子だ」というのが

口癖だった

そのネコ「みー」も、おじいさんも何十年も前に死んでしまった

だけど、この光景は今も心に残っているのです


もう出た 豪栄道綱取り 可哀想な稀勢の里

2016年09月25日 09時14分45秒 | 大相撲

今年は日本人大関の綱取り予報が三回出ましたね

琴奨菊の優勝から綱取り予報が始まり 毎場所稀勢の里は綱取り場所 そして昨日は豪栄道が来場所綱取りだって

いかに日本人横綱誕生をせつに願っているかと言うことです

因みに豪栄道の大関での勝率は(①.休場を負けとする ②.休場は無視) ①. 0.551  ②.0.554  ほとんど半分は負け

じゃあ後の二人はというと  琴奨菊 ① 0.547  ② 0.589   稀勢の里 ① 0.702  ② 0.702

稀勢の里がダントツ! しかも休場無しですから(相撲界に入ってから1日不戦敗あっただけでずっと無欠勤みたいです、これは立派)

琴奨菊と豪栄道が②場所連続優勝して横綱になっても、大関勝率5割そこそこではどうなんでしょうか?

準優勝ばかり10回くらいやってるのに優勝が3人の中で唯一ない稀勢の里にこそ優勝をしてもらいたかったのに

今場所は10勝くらいで綱取りは振り出しに戻ったみたいで気の毒です

因みに白鵬と鶴竜、日馬富士の大関時代の勝率は

白鵬 ① 0.695  ② 0.811   日馬富士 ① 0.648  ② 0.670  鶴竜 ① 0.611  ② .611

稀勢の里は休場を負けとした場合なら、白鵬を上回っているし  休場を数に入れない場合でも白鵬には及ばないものの

日馬富士や鶴竜を上回った勝率です、とくに鶴竜は問題になりませんね

まさに白鵬がいるために優勝できない悲劇の大関です

 *数字に多少間違いがあるかもしれませんがご勘弁ねがいます

 


ファイター同級生 マスターズ陸上

2016年09月23日 09時02分02秒 | ゴルフ・スキー・スケートなどスポーツ

秋分の日ぐずついた天候だったが、小学生のサッカー大会を見に行ってきた

運動公園の一帯では少年野球、高校野球、それからこのサッカー大会

他にも体育館では球技、競技場の内外では陸上の練習が数カ所で行われていた

食事を終えて競技場に戻ったところで高校時代の同級生に会った

中学生の陸上の指導をしているそうだ

高校時代から棒高跳びの選手だったが65歳の今も続けているのかと聞いたら

先日の全日本マスターズでM65(65歳以上)で優勝したと言うことだ

と言うことは「日本一か」と言ったら「そうだ」という

「それなら世界大会とかにもでるのか」と聞いたら「・・・」だったが

「アジア大会が韓国の大邱(テグ)であるが・・・」と言った

「近いんだから出場したらどうだ」と無責任なことを言ってしまったが、せっかくの日本一

ぜひ挑戦してみてほしいものだ

昨年は年齢別の日本新記録も樹立しました

 

 

 


新説次々 宇宙.恐竜

2016年09月21日 16時14分55秒 | 宇宙.神秘

最近のサイエンス番組を見ると驚きの連続だ、先日もNHKで見た

 

かなりの年齢になるまで太陽系の惑星は「水金地火木土天海冥」と言ったものだが

冥王星並みの小天体が何個か見つかったことで、惑星が一気に増えるかと思ったら

逆に冥王星は小さすぎるという理由で惑星から外されてしまった

第10惑星を発見と思って喜んだ学者は一転がくり、しかも冥王星を道ズレにしてしまった事で

罪悪感まで感じたようだ

その後の研究で、冥王星なきあと8個になった惑星にあらたに「新第9惑星」の存在が数学的に

かなりの確率で実証されようとしている

今までの太陽系惑星に比べて途方もない遠距離を周回し、その公転角度も地球や木星などとは

全く異なるものであるらしい。

軌道は計算上発見された、あとはその軌道上を望遠鏡でくまなく探すという方法らしい

地球の数倍の質量を持つ惑星だという、早くそれを見つけることができれば太陽系の果ては

著しく膨張することになる

 

夜中に目が覚めて時間を見ようとテレビをつけたら、先日見逃した「ティラノサウルス」の新説番組をやっていた

こりゃあ寝ているどころではない

中国新疆自治区付近にすんでいた体長3m、体重75kgほどの肉食恐竜が歴史上最強の肉食恐竜

「ティラノサウルス」の祖先だという

それが8000万年から1億年くらいかけて進化を続け、最強最大の恐竜になったのだそうだ

まだ弱小恐竜のまま陸続きの時に中国から北米大陸にわたりアラスカに定住したものや

カナダ、アメリカの各地に点在した

その後、潮位の上昇で北米大陸が分断したとき西部の山岳地帯に取り残された恐竜たちの中で

必要のために巨大化して全長13m、体重6トンにも及ぶティラノサウルスになったと言われている

しかも全身羽毛があったという新説も(羽毛付きの化石が発見されたらしい)

遥か超古代の時点で鳥とティラノサウルスは同一の祖先から別れたのだという

恐竜は滅びたが鳥は今も繁栄している

鳥に恐竜を連想してみるのも面白い