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 神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

昭和生まれの戦いは?

2025年04月30日 09時27分06秒 | 昭和という時代
 華道を教えている中姐さんが先月に脳梗塞で倒れた
77歳なので心配していたがどうやら軽症だったらしい、杖をついて歩ける、言語障害もないと彼女の友人から聞いて一安心
今年になってから同級生が亡くなったり、従兄ががん再発したりしたので、こうしたことには敏感になりつつある。

 一方で近所の80代の人たちの元気な姿を見るとなんだか自分も励みになる
今月は相次いで80代後半の友人、知人と会食の約束
父の従兄も今年102歳を迎えるが元気、今年は昭和100年だという、そのうちの75年を私も生きてきた
少年時代に「明治は遠くなりにけり」という言葉が流行った、私が生まれた手話25年は明治84年か85年だった
そう考えると「昭和は遠くなりにけり」だ、ただ当時の明治生まれの人より、今の昭和生まれの平均寿命は大きく伸びている
明治は1868年からだから、日清戦争(1894~)日露戦争(1904~)に従軍した人はいたが昭和の戦争のような犠牲者数ではなかった
昭和の戦争(1941~)や日中戦争(1937~)には明治生まれは参戦していないだろう
昭和生まれは(1925~)昭和の戦争(1941~1945)に参戦した人は昭和5年うまれくらいまでだから、それ以後に生まれた人は兵隊には行っていない
但し昭和20年生まれまでの人は空襲を体験した人が多いだろう
戦場で亡くなった人より沖縄や北方領土も含めた国内で一般市民のまま戦災に遭われて亡くなった人は多い
私を含む昭和21年以後に生まれた人間は運よく戦争を体験していない
同世代のアメリカ青年はベトナム戦争で地獄を見てきた、朝鮮戦争でも日本でいう昭和世代が北朝鮮と韓国に分かれて同民族同士で殺しあって国は未だに分裂して敵対している
その北朝鮮はロシアに味方して日本でいうところの平成生まれがウクライナでウクライナ人と殺し合いをしている。

 日本人は病気とだけが戦いだ、平和な国がいかに恵まれているか実感している。


シューベルト「野ばら」リタ・シュトライヒ/ヴェルバ




2.26事件

2025年02月26日 20時09分58秒 | 昭和という時代
 今朝は久しぶりに雨らしい雨が降った
この冬は快晴と良い雨降りの日がほとんどなく、曇りか雪ばかりだった
雨が降ると良いこともある、温かいから雪でなく雨が降る
積もった雪は太陽で溶けるが、それは表面だけ、でも雨は表面を溶かして雪の中に流れ込んで、内側からも溶かしてスカスカにするから雪解けが早い
今日一日でだいぶ積雪が減った。

1936年2月26日は昭和11年、青年将校によるクーデター2.26事件が起きた日だった。
昭和11年の日本は、今の日本とは全く違う国であった
徳川幕府が滅んで明治時代となってから70年ほど、日本史上最大のクーデター明治維新を成功させた薩長の英雄たちはすべていなくなり
維新の第三世代が国家を運営する時代
東洋の「眠れる獅子」と言われた清国と1894年に戦争をして一方的な勝利をおさめ、これが元で満州族の清国は10年後には滅び、漢民族の中華民国が再生する
まさに今日の大国中国を、異民族の支配下から解放して生き返らせたのは日清戦争であった
10年後1904年には、日本の10倍の軍事力と経済力の世界の大国ロシアを相手に互角の戦いを行って勝利をおさめ
国家はボロボロになったが、満州権益、北方領土、千島列島、樺太の半分を得た
またまた10年後の1914年には第一次世界大戦で、日本は連合国に加わってドイツに宣戦布告
中国のドイツ占領地、青島要塞を攻撃して勝利した、連合国も勝利して日本は南太平洋一帯の統治を世界から任された
すでに1910年には朝鮮国を併合して日本国に組み入れ、それは台湾も同様であった

こうした破竹の勢いの日本であったが1910年ころの世界恐慌で、日本ももろに影響を受けて大不況となった
東北地方などがとっくに悲惨で飢えの苦しみを味わっていたが、政府は薩長財閥と組んで苦しむ国民を顧みず、わが世の春に浸っていたという。

このころ軍も相次ぐ勝ち戦で絶頂期にあったが、軍部は皇道派と統制派に割れて勢力争いをしていた
軍はこのころには政治にも関与する大きな力をもって圧力さえかけることができる立場になっていた、海軍、陸軍それぞれに大臣ポストを得ていた
その中の皇道派に属する青年将校が2.26事件を指導した
皇道派は政治家を排除して天皇陛下を中心に仰ぎ、軍部による政権をもって日本を動かそうという考えであったと言われる
一方の統制派は軍部と政財界が組んで日本を動かそうという考え方だったといわれる
第一仮想敵国をソ連か中国かという点でも意見の相違があった
これとは別に朝鮮半島から中国満州地方に進出して、すでに中国軍と戦争を行っていた強大な満州軍もまた、この地で本国の軍から独立するという噂もあった。
すでに昭和16年からの戦争へのルートはできつつあったのだ。

青年将校らは約1500~1600名の兵を率いて東京の中心部永田町界隈に分散して、首相官邸、国会、警視庁など襲い、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣らが殺され、鈴木侍従長も重傷を負た
青年将校は、東北出身者もいて、多くの国民が娘を身売りしてその日の食料を得るという窮状を訴えるべく立ち上がり、政商と政治家がつながって国益を独占していると怒り、これを誅罰して天皇陛下の親政国家をつくり軍がそれを支えるという考えだったという。
しかし鈴木侍従長が襲われたことに天皇陛下が激怒してクーデター軍の討伐を命じた
天皇陛下を中心にいただくという理想を掲げていた青年将校は、まさかの天皇陛下の激怒に朝敵とされて落胆して投降した
そして彼ら責任者は銃殺刑となった。

父は、この事件の時に神田で働いていた、12歳
飛行機からビラを撒いているのを見たと言っていました
有名な「兵に告ぐ」のビラなのでしょう。











単純に生きるのが一番のしあわせなんだが

2025年02月10日 17時15分45秒 | 昭和という時代
 こんな雪は昭和の時代なら大した量ではなかったんですが
機械化した文明社会になってからはなかなかの厄介者
昭和40年前までは車なんて一般サラリーマンはもっていなくて、会社の社長だとか重役、あとは営業車くらいのもの
我が家も魚屋でしたが、父がダットサンのオート三輪、ダイハツミゼットを運搬用に買ったのは昭和35年ころでした
オートバイを大きくして三輪にして覆いと屋根と荷台をつけたようなもの
それでも近所ではとても珍しかった
近所には乗用車なんて持っている人はいなかったですからね
そのおかげで汽車(電車ではない。 D58など蒸気機関車)や路線バスはお客が満員でしたからね
バスだってワンマンではなく、車掌さんが乗ってましたから。

今の時代は車だらけで、当然ながら運転未熟な人も多いし、雪がない地方の人は雪道に慣れていないし
今季も降り始めの初日から高速道路で事故多発、北陸道、関越道などで交通止めに
雪道で道路が埋まったって、歩いていれば何とかなる
車を持ち出すから渋滞だ事故だ交通止めだとなる
とにかく昭和の人は歩いた、機関車だってラッセル車が力強く雪を割って線路の雪を取り除いた
架線が故障なんてこともなかった、今は電気に頼っているからもろい
デジタル放送も雪が降るとノイズで映らなくなるし

昭和時代は平地でも1~2m積もったけれど、今みたいな騒ぎにならなかった
子供たちは集団で登下校したし、大雪、暴風雪になると授業を切り上げて集団下校というのが時々あった
物の運搬には木そりも結構活躍した。 魚屋は売り台(ショーケース)の下に雪を敷いて氷の代わりにした
昭和も30年から40年ごろまでは、のんびりした良い時代だった
食糧不足、物不足の20年代、好景気になった40年代後半から60年と違って、一番人間が人間らしく生きていた時代
雪が降れば仕事をやめてスコップをもって雪かき、だれもあくせくしていなかった、雪が降らない地方のことは知らないけれど
それが原因で都会と田舎の経済格差が広がったともいえるが

どんな人生が正しい人生なんだろうかね
成功者にしてみれば今が全盛なんだろうが、成功できなかった人間から見たら今の時代は窮屈か、あるいは絶望と我慢の時代なんだろう
自由と平等の時代は、やっぱり昭和30年から60年までの30年間だろう
誰もが夢をもって一生懸命働いたからね
あんな時代はもう来ない気がする、欲にまみれた世界が戦争をしているわけで
あれは単純に究極の経済活動なんだろう
不景気になると戦争が起こるのはそういうことだ
戦争の時代は、人間が人間らしく生きられない時代だということです。






手紙のこと

2024年11月21日 15時30分35秒 | 昭和という時代
 急に寒さが増して、新潟市では初雪が観測されたとのこと
今朝は寒さのせいかどうか知らないが、4時15分に目が覚めてパッチリだ
もう眠れないから、ネコの世話をした、それから手紙を書いた。

 信州安曇野の親戚からいつもの通り、大きく新鮮なリンゴが送られてきた
いつもは電話でお礼を言うのだが、先方は高校の校長を務めた人だが、いつも互いにぎこちなく終わるので、今回は手紙を書いた、因みに先方様はいつも達筆の手紙で来る。

手紙を書いていると、あれこれ互いの亡父母との事まで思い出して、思ったより長い手紙になった
言葉は一瞬で消え去るが、文章はいつまでも残り、何度でも繰り返し読むことができる。

封をしたが、新しい切手の金額がわからずネットで調べる始末
自分の高齢化のせいか、相次ぐ値上げブームのせいかわからぬが・・

時代、私の若いころは何につけても手紙だった
新年は年賀状、夏は暑中見舞い状、誕生日にはバースディカード
そのほか文通が流行して、子供向けの雑誌には「文通コーナー」があって、全国の子供たちが「・・・が趣味です、同じ趣味の人と文通したい」などと書いて出す
中学生の時、私の同級生で友達のT(市の課長60歳で急逝)とR(フーテン40代で行方不明)が文通希望に投稿したら、手に余るほどの文通希望の手紙が届いた
いずれも、「ダメならお友達を紹介してください」ということで、私に二人からお鉢が回って来た
*この話は前にも書いた気がするが再掲

Rの方は東京の西日暮里からで(ああ、たいていは男子には女子から、女子には男子からが相場、思春期の始まりですからね)
親のどちらかが私の町の隣町出身だそうで、Tの方は岐阜県の平田町(現海津市)の人だった
Rの方は2年くらいで終わったが、Tの方は20代前半、社会人になっても続いていた
60歳になったら会いに行こうなんて思ったこともあったが、結局行かずに74歳になった(友達が名古屋に居るので、何度も名古屋は行ったのだが、岐阜も長良川温泉に何度か行っているが)
今さら会うことも無いが、輪中の町を一度は訪れてみたい
そんなに遠いわけではないのだから。

この歳になるとなんでも懐かしく感じる
二人からの手紙は今も本棚の引き出しのどこかにある、ラブレターではないから見られてもかまわないが、たぶん息子がゴミとして処分してくれるだろう
断捨離べたな私はいつまでも思い出の品を捨てることができない
困ったことだ。

今年もまた年賀状書きの季節になった
同級生たちの大部分から年賀状じまいの手紙が相次ぐこの頃
私も仕事関係の年賀状は数年前にやめた、友達の8割が年賀状終い
一時は200通以上の年賀状が来ていたが、友達の多くはLINEで一瞬で挨拶が終わる
それでも親戚やお世話になった方々には年賀状は欠かせない、それも年々減っていくから出せる限りは出そうと思う
今年は20通くらいかな。




Yさんの思い出

2024年10月30日 08時43分14秒 | 昭和という時代
Yさんの奥さんが亡くなったと新聞の広報で知った
それで夕方、家族だけの通夜式前の一般弔問に行って来た
私は一番乗りだったので、妹と高校で同級生だった喪主さんが一人でいたから声をかけて、焼香のあとで少し話した
彼は富山市で精密機器の町工場を経営しているので、こちらの自宅はもう空き家になっている、だがそれは豪邸で空き家にしておくのが惜しいほどだ

Yさんの奥さんは99歳10か月だったそうだ、ずいぶんと長生きされたものだ
ただ10年くらい前から認知症になって施設に入っていた
Yさんは15年前に89歳でガンで亡くなられた
私の父より4歳年上で地元で魚の卸業を営んでいた、戦後まもなく東京からやって来た父が魚の行商を始めた時にYさんと出会ったのだった
それは険悪な出会いだったのだった
Yさんは27歳、父が23歳の時だ、どちらも負けん気の強い男同士で事あるごとにぶつかったらしい
父は当時、父より6歳ほど年上の魚市場の販売部長に商売のあれこれを助けてもらった恩義があった、一方Yさんは魚市場で販売部長と次期専務争いで対立する人から慕われていたので、アドバイザー的な存在であった

それがある時、たまたま兵隊時代の話になって、父は調布の陸軍航空隊の周囲に展開する高射砲隊所属、Yさんは隣の厚木の航空隊で戦闘機の整備兵だったことを知ってから急展開で仲良くなった
魚市場の義理人情より生死を分かち合った戦友の絆の方が強かったようだ
数十年後に父が戦友会で調布に行った時にはYさんも「おれも連れて行ってくれ」と一緒に戦友会に参加したほどだ。

Yさんは魚屋では結構大きな商売をしていて、土地の親分的な存在だった
地元選出の国会議員や、大病で東京の大病院へ入院した時も本で学んだ知識で大学病院の名医を相手に一理屈も二理屈も言って困らせたような人で、なかなか弁も立つ
見栄を張る、大風呂敷を広げる、人の上でなければ気に入らない人だった
寺の総代を引き受けたりとにかく地元では名物男であった
だから市会議員程度なら説教するくらい朝飯前だ
そんなYさんだが、父には若い時から一目置いていた
「不思議なんだよなあ、なぜか**くんには負けてしまう、いったい何が違うのかなあ」などと時々言っていた

若いころYさんと父と魚屋仲間2人で長野県にドライブしたそうだ
狭い山道で対向車とにらめっこになって、どちらかが下がらなければ動けない状態だった、相手は生意気そうな連中で「下がれ」とクラクションをやかましく鳴らしていたそうだ、Yさんもどうしたものかと躊躇していたら、父がいきなり降りて、対向車に向かって歩いて行って、窓から相手に何か言ったら、すぐに相手が下がったそうだ
それでYさんが驚いて「**くん、何を言ったんだ」と聞いたら、父は「別になにも・・・『クラクション鳴らしてましたが・・なにか?』と聞いただけだよ」と答えたそうだ
Yさんは「おまえの親父は穏やかな人間なんだが、急に薄気味悪い顔をすることがあるんだよなあ」と高校生の私に話したことがあった

ともあれ、そんな父とYさんは、Yさんが89歳亡くなるまで夫婦共々で仲良しで、一緒に旅行や日帰りドライブに行っていた、Yさんの奥さんと母は同い年だった
父が新店舗を開店した時には2m×1mほどの大きな油絵を寄贈してくれたり、村上堆朱の彫り物を贈ってくれたりと人を驚かすのが好きな人だった
父も負けずにYさんが魚屋を辞めると大晦日には氷見の寒ブリをお歳暮に贈っていた、どちらも負けず嫌いの見栄っ張りは一生ものだった
そしてYさんは地域の共同墓地の会長を務めたが、父も影響されて、こちらの地域の共同墓地の発起人になって会長になった

父は生涯、人に心を許さない人であったがYさん夫婦とだけは気が合ったようだ、Yさんの天衣無縫の性格に警戒心が強い父も心をわずかに許していたのだろう、この土地で唯一無二の友だった
これでまた四人があの世で揃った、また大きな声のYさんと冷めた顔の父が楽しく語り合うだろう。





「虎に翼」花岡判事の餓死

2024年06月16日 06時24分31秒 | 昭和という時代
 一時、寅に恋慕の情を持っていた真面目で清廉潔白な花岡判事が「食管法」を守って飢え死にした。
一年間、米汁だけの食事を続けた挙句だという。
花岡判事のモデルは大分出身の山口良忠判事である、亡くなった時は34歳だったそうだ。

昭和20年8月、日本はアメリカ、中国、英、仏、蘭、豪などとの戦争に負け、アメリカに国土を占領されて食糧難の時代を迎えた。
アメリカ支配下の日本政府は「食糧管理法」を制定して、米や主力食材を国がいったん吸い上げて、それを国民に平等に(眉唾?)配給した(配給制)
そうはいっても農家だって、苦労して作った米、野菜を「はいはい」と100%政府に出すわけがない、当然我が家が不自由しないだけの米は隠しただろう
政府も。そこらあたりは目をつぶったに違いあるまい。

ともあれ、配給された米や食糧だけでは空腹を満たすことが出来なかったのは間違いなく、それを実践して餓死したのが法を執行する立場の山口判事だったのだ。
逆に言えば、政治家も法律家も警官も闇米を食っていたということだ。
農業の非生産的な都市部の住民は宝石や高価な着物などを持って、田舎の農家を訪ねて米と交換してもらったという
そうして、やっと手に入れた米、野菜は駅で待ち構えている警察の摘発で多くが没収された、泣きの涙である。
こんな状況下で小平事件のような連続性犯罪まで起きた時代である。

父は昭和23年、23歳であったが、当時東京調布で軍隊時代の上官に誘われて、終戦後から倒産すれすれの農機具店から農機具を安く買い取り、農家に売る農機具販売(と言えば聞こえは良いが、詐欺まがいの商法であり、目的は米を得る手段であった)
その後、これを批判した湯たんぽ製造会社の社長に気に入られて、湯たんぽを新宿の闇市で売る仕事に転職した
だが当時の東京は金はあっても、若い男一人では暮らせない事情があったらしく、北陸に僅かな伝手を頼りにやって来た。

有力者の手づるも、信用も無い東京育ちの若者が簡単に職を得ることはできず、たまたま知り合った魚市場の番頭さんの情けで、山間部の農業地帯に魚売りに行くことになった。
闇市経験で、ちょっと斜にかかった言葉遣い、都会的な父は山奥の農家のおんな衆にたちまち人気となって、商売も順調であった。
もっとも背中に缶一つ担いでいくだけの魚だから売り上げは知れているが、戦後のインフレでお金の価値など一日ごとに下がっていく時代だった
何といっても米がお金の何倍も価値あるものだった。
父は魚と米の物々交換というスタイルを築いた、田舎で得た米を町場で売る
しかも家でも食べられるから一石二鳥、25年に生まれた私も生活は貧しかったが、食べ物に不自由した経験はない。

但し、父はたいへんだった。
都会同様に警官が闇米取引に目を光らせていた、わが家と山奥の村の中間に谷筋で一番賑やかな集落があって、そこに駐在が居た。
これまた若いのだが頑固で職責に忠実な警官、父は余裕があれば山の中の道を通って、警官に会わずに済むが、なんせ道が悪い上に遠回りだ
だから米が多い時などは、駐在所の村を急いで通る、それを見つけて警官は自転車で追いかけてきて没収される

父は三回目の没収の時、ついに牙をむいた
開き直って「全部持って行け、俺も今日で闇米商売は辞める、辞めたら閑になるから、おまえの家を毎日監視する、おまえや、おまえの家族が一粒でも闇米を手にしたら、ただでおかないからな」と啖呵を切った
戦後の闇市で生き抜いた父だからこそ言えたセリフだった
警官はだまって缶に蓋をして「行け」と言ったそうだ
それ以来、二度と捕まることは無かったそうだ
父の頭の中にも昭和22年の山口判事の飢え死にがデーターとしてあったのだろう、そんな時代だった。

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人も歩けば友に当たる

2024年01月03日 19時34分25秒 | 昭和という時代
 昨日の夜もインターネット接続はできず退屈な夜になった
お風呂に入った後で退屈しのぎにPC将棋をやって見たが、精神的にまいっていたので、全く勝負にならず途中でギブアップして辞めた。
それから買い置きしておいた風船を2つ膨らませてみたが目的もないのでやめた
次にスライムを作ってしばらく遊んでいたが飽きたので寝た。



朝は5時半に目が覚めてベッドでボーっとしていたら、ブログネタが浮かんできたので忘れないうちにと思い、PCを開いたらインターネットがONになっていた
それで送信して、ブログを見ていたが6時半にはまたOFFになってしまったので
あきらめて朝食作り。
次男は今日帰るので、スペシャルチャーハンを作った、これは自画自賛だがプロ並みの出来栄えだ、隠し味が自慢なのだ。
私の朝食はシンプルに明太子と、みそ汁は大根の千六本と、わらびとキャベツ

それからずっと箱根駅伝をゆったりと・・・
(アッ! また揺れた 5秒くらいだが震度2くらいかな、今日も5回くらい地震があった)

箱根駅伝を最後まで見た
それから年賀状を10枚書いて、郵便局まで歩いて出しに行ったがついでに散歩に切り替えた
前の会社近くへ行ったら同級生のAに会った、彼からは今日年賀状が届いたばかりだったが、改めて新年のあいさつ
Aはまじめな男で、市民吹奏楽でトロンボーンを吹いたり、ボランティアグループで介護老人の送迎バス運転をしたりしていた、元職は消防士
彼の家は海のそばだから、とうぜん地震では高台に避難したが、私とは違い線路を越えないと高台に行けないので渋滞してかなり大変だったらしい。

駅前へ出たら、親同士が魚屋仲間だった関係で子供の時から知っている6歳下のBの息子に呼び止められた。
「親父いるよ」「ああ、それなら顔を見ていくか」
ということで、Bが経営している蕎麦屋の中に入った、三が日は休業らしい。
「コーヒー出すから少し待ってて、yottinさんとこみたいな本格的な奴じゃないけどさ、我慢して」ここのコーヒーは蕎麦湯で作る
きょうは営業していないのでヤカンの湯だろう。

Bは去年の秋にステージ3の大腸がんの手術をしたが、若い時には胃潰瘍で胃も一部切っている。
だが悪く言えば無神経、良く言えばケセラセラな性格なのでガン闘病中には少しも見えない。
手術は開腹ではなく皮膚に穴をあけてそこから器具だかを入れて行うらしいが、腸を切り取って縫合するのではなく、患部を針金だかクリップだかで閉じて、それでおしまいだとか・・・「へえ~~」だ。

Bは(今もか知らないが)商店会長もやっているのだが
「地震の被害を見て行かない」と言って案内してくれた、隣の店のアーケードの歩道の路肩がたしかに段差が出来て数メートル剥げていた
そんな場所が何か所かあった。



各地の被害が明らかになってきて、石川県の死者数は今日では64名に増えていた、まだ下敷きになっている人、行方不明かどうかもわからない人もまだかなりいるらしい。
報道によれば、かなり地殻変動があったらしく輪島市で4m、珠洲市で1mの隆起があった。
また水平移動では輪島市が1.24m、珠洲市で95cm、能登島で65cm動いた
富山県、新潟県でも10~15cmの水平移動があった。
わが町でもブロック塀の倒壊があったが、全体的には目立った被害はなく家の中の小物が割れたとか散らばった程度で治まっている。
インフラもガス水道、電気などはまったく不自由がないのは幸い。
唯一、電波障害だけが問題だったが、それも今は解決したようだ。

弟が住む新潟市西区は断水、水の濁り、停電、道路の亀裂、液状化、国道バイパスの通行止めなどが起っていて、新潟県内ではもっとも被害が大きい。
ただ弟の家については問題なしとラインが来たので、少しは安心。

それにしても輪島、珠洲、七尾などの被害は日増しに大きくなっていく
なんといっても200戸以上の大火災、他の町でも大きな火事があったようだ
明日からは雨も降り、寒さが厳しくなっていくらしい、冬の災害はこうしたWパンチが来るので悲惨だ
総理や閣僚は温かい部屋でも良いから早急に被災者の身になって対策を講じてもらいたい、水不足、食糧不足、家屋被害の後片付け、防寒対策を優先して講じてもらいたい
まずは選出国会議員が現場視察をして、被災者の声を反映してもらいたいものだ。
通信がONになったとたん気にしていた船長からのメールが届いた
やはり地震の影響で本来4日からの初セリを最低6日までは船は出ない取り決めになったそうだ。
速くても7日、天候次第ではさらに遅れるかもしれない。
新潟県、富山県の県境の漁港では漁船6隻ほどが津波で破損したと言う
新潟県上越市でも国道8号が大規模な土砂崩れで交通止め、回復は未定
直江津海水浴場では物置や施設が破壊、流出で全滅、近くの関川を逆流した津波が堤防を越えて家屋が被害を受けたらしい。





昭和20年(1941年)12月8日 黒船来航からの日本100年史

2023年12月08日 11時22分37秒 | 昭和という時代
 「ブギウギ」で主人公の弟、六郎が兵隊として出征まもなく戦死してしまった
その後まもなく、日本はアメリカ、イギリスに対して宣戦布告、ハワイの真珠湾を空母からの攻撃機、戦闘機で急襲して大戦果を挙げた。

またマレー方面でも同時にイギリス海軍の超巨大戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを攻撃機で襲って、これを沈没させマレー方面の制海権を得て続々と陸軍はマレー半島へ上陸してオランダ軍を駆逐した。

六郎が戦死したのは、この戦争ではない、米英との開戦前に死んでいるのでこれより数年前からあったソ連や中国と戦争、その方面での戦死と思われる。

1853年、ペリー提督が率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航した。
翌年、日米和親条約を締結、欧米の砲艦外交が成功した
日本は未だ徳川の武家政治で軍事力の差は歴然、下手に出れば人口100万人の世界でもトップクラスの首都「江戸」は火の海になる。
既に隣国中国(当時は満州族が漢民族を支配する『清国』)は欧米の強国によって理不尽なアヘン戦争で敗れて、不平等条約を結ばされ半植民地化となっていることを徳川幕府の閣僚も承知している。

それから日本中が騒然として憂国の士が異国嫌いの孝明天皇の意をくんで、各地で立ち上がり、幕府の弱腰外交に対して行動を起こした。
個人だけでなく、長州(山口県)毛利氏、薩摩(鹿児島県)島津氏、土佐(高知)山内氏など藩を上げて富国強兵を急ぎ、弱体化する徳川幕府に圧力を与える。

1867年、徳川幕府15代将軍、徳川慶喜は天皇に政権を返上して約250年の江戸幕府を閉じた。
1868年、薩長と過激派の公家らによって鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争となり、旧幕府の残党を追い詰めていった。
江戸は東京と改め、年号を明治として2年には、京から東京に遷都、明治天皇は東京へ御移りになられた。

明治新政府は欧米列強に侵略されぬよう日本の欧米化、近代化を急ぎ、特に工業化と軍備の飛躍的強化、徴兵制を取り入れて兵制の充実に力を入れた。

1875年隣の大国、ロシアとの北海道以北の樺太、千島列島の領有権は曖昧だったので、二か国間で「千島樺太交換条約」を平和裏に締結した。
樺太全島をロシアが領有、千島列島(現在の北方領土全域)を日本が領有すると言う条約である。
1877年(明治10年)鹿児島県で新政府の立役者だった西郷隆盛と不平士族が反乱、熊本城を攻撃して東京に向かう動き、新政府は軍を派遣してこれを鎮圧した(西南戦争)、これによって武家社会は完全に消滅した。
1879年には琉球王国を日本に組み込み沖縄県とする。

1894年(明治27年)軍事大国となりつつある日本は朝鮮半島に影響力を持ち、ついに「眠れる獅子」と言われた大国「清国」と戦争が始まる
日本は優勢に戦争を進め、翌年には「清国」が降伏した
日本は莫大な賠償金を「清国」から受け取り、清国国内に権益疎開地も得た
また事実上、清国は朝鮮国の宗主国として朝鮮を従えていたが、今後一切、清国は朝鮮から手を引くことも呑ませた。
これによって朝鮮に直接影響力を持つ国は日本だけで、周囲から隙あらばと狙うのはロシア、この2国のみが朝鮮に影響を持つ国である。

この1895年には親ロシア派の朝鮮王妃「閔妃(ミンピ)」を親日本派の「大院君(テウオングン)」一派と日本の一部軍人が襲って殺害する事件が起きた
大院君は閔妃の夫であった国王の父であるが、力のない王に代わって権力を行使していた閔妃と対立していたのである。
これによって朝鮮は一気に日本の支配下におかれるようになった。

日本に負けて国力と権力が大いに低下した「清国」は欧米の強国と日本帝国に食い荒らされてしまった。
そんな満州族王朝「清」の弱体化でいままで従っていた漢民族の中から政治家や軍人の芽が伸びだしていた。
1899~1900年にかけて義和団事件がおき、その影響で清国は欧米日8か国に宣戦布告して惨敗、政府としての力を失い、国は分割統治されてしまう。
日本も勝利国の一員として中国大陸に権益を得た。

朝鮮を巡る対立は、ついにロシア帝国と日本帝国の戦争を引き起こした
日清戦争から10年後の1904年「日露戦争」が起きた
日本は国力の全てを投入して戦いに挑んで、ついにロシアに勝った。
ロシアにはまだ戦争継続の余力は十分にあり、日本は破産寸前だった
しかしロシアにも階級革命の兆しがあり、極東の小国家との戦争ばかりに力を入れられない事情があった
日本と同盟を結んでいたイギリスの仲介で、日本勝利となったが薄氷の勝利だった。 
そのため清国からとったような莫大な賠償金はゼロ、樺太の半分を得たのと、朝鮮の日本支配、満州の権益の譲渡程度しかロシアから得ることができなかった、国民は大いに不満を口にして、弱腰政権と非難した。

1910年(明治43年)には政治能力を失った朝鮮(当時は大韓帝国)を日本が保護名目で日本帝国に併合、朝鮮国(大韓帝国)は正式に世界地図から消えた、これは日本がアメリカに敗れた1945年まで続いた。
(あるいは朝鮮半島の韓民族国家<または朝鮮民族>が英米および中ソの保護から完全独立を果たして朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国となって国連に加盟した時まで)

1912年(大正元年)清国もついにラストエンペラー、幼帝 愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)をもって終わった。
中国大陸は約270年を経て、再び漢民族の国家になった。(中国の誕生)

1914年、セルビアとオーストリアの間で戦争が勃発、第一次世界大戦の引き金となる。
日本も同盟国のイギリスとの関係上、ドイツに宣戦布告して連合軍に加わった。
1917年にはロシアで革命が起きて、赤色民衆の国家ソビエトが政権を奪取。
ロシア帝国は滅ぶ。
1918年、ロシア革命のどさくさの中、日本軍がシベリアに出兵、失敗に終わる。
同じ年に第一次世界大戦が連合軍の勝利で終わり、日本も戦勝国の一員としてグアム、サイパン、テニアンや南太平洋の統治委託、台湾、朝鮮の完全支配、中国での遼東半島、大連、青島などの権益、北方領土から千島列島、小笠原列島、極東アジア、西太平洋に広い領土を得る。(日本史上最大の版図獲得)

1919年には朝鮮で独立運動がおこるが鎮圧
1923年(大正12年)関東大震災で約10万人が死亡
1928年(昭和3年)朝鮮の北、中国領の満州獲得を狙い関東軍(日本の大陸での軍団)が進出、中国軍と小競り合いが続く。
そんな中、中国国民党(蒋介石)や中国共産党(毛沢東)と戦う親日軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を日本軍が暗殺。
張作霖の息子は逃走して日本軍に抵抗、関東軍は全ての中国軍隊を敵に回す。
1931年、満州の戦争は、この年から本格化する(満州事変)、翌年には関東軍は諸外国の認証を得ぬまま満州帝国を作り、清国最後の皇帝だった溥儀を満州国皇帝に据えた。 実質は日本の傀儡国家であった。

1933年、日本の満州進出などを咎める国際連盟を脱退した。(孤立化)
1936年、2.26事件 
1937年(昭和12年)、中国で盧溝橋事件(ろこうきょう)が起り、日本と中国の正式な戦争が始まる。(日中戦争)
1938年、国家総動員法公布、国民の自由及び権利は国家によって束縛される。
1939年、ドイツがポーランドに攻め込み第二次世界大戦がはじまる
ポーランドに続き、オランダ、ベルギー、フランスもドイツに占領される
1940年、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結び、米英など連合国と対立
1941年夏、ドイツに占領されて混乱する仏印(フランス領インドシナ=ベトナム、カンボジア地域)を日本軍が占拠。

1941年12月8日 日本がアメリカ、イギリスなどに宣戦布告
空母を中心にした機動部隊から発進した数百機の攻撃機によってハワイ真珠湾を攻撃、アメリカ戦艦に大打撃を与える。

1945年3月10日 アメリカ空軍の東京夜間大空襲で東京の半分が焼け、約10万人が死亡
その後、全国の大都市、中都市60か所以上が爆撃で焼失、多大な民間人犠牲者が出た。
1945年8月 広島、長崎に相次いで原子爆弾が投下されて、それぞれ約10万人死亡、現代になっても後遺症に苦しむ被ばく二世、三世がいる。

1945年8月15日 日本、無条件降伏 アメリカが作った新・日本国憲法発布 、大日本帝国は消滅、天皇は国民の象徴と明記される。
アメリカ軍の占領統治下での日本は独立国家でも主権国家でもない非占領国の状況。

1950年 朝鮮戦争勃発
1952年4月28日 サンフランシスコ条約調印 主権国家としての日本の独立が果たされた。
因みに東西に分割されたドイツは、西ドイツが1954年に米英仏との間で主権回復された、NATOの一員として再軍備も認証された。
我が国は、現在もアメリカが作った平和憲法のもと、再軍備は認められていない。
但し、1950年の朝鮮戦争に介入したアメリカは後方基地の日本の維持に困り、軍隊ではなく日本人による警察予備隊を組織した、これが自衛隊として発展して現在に至る。













ゴジラー1.0 機雷掃討作戦

2023年12月07日 07時23分38秒 | 昭和という時代
 先月「ゴジラー1.0」を見た記事を掲載した
見る側では、ほとんどの人がゴジラへの恐怖のスリルを楽しみに行くのだろう、かくいう私もその一人だが。

今回の映画の特異な部分は、日米戦争の終盤から、敗戦後間もない日本が舞台であること。
神風特攻隊の航空兵でありながら(当時は)卑怯にも逃げ延びた男が主人公であること。
その男を救う数名の人間の中の一人は、戦後の機雷掃海艇の乗組員で掃海作業が描かれていること、である。

若い世代は、船に乗って機関銃を撃って何をしているのだろうくらいの関心度だと思うが、あれは敗色濃い昭和20年にアメリカ軍は日本が既に食糧難、軍用機や艦船、武器や銃弾が乏しく国内生産力も低下している点をついて、それらを日本領の満州から朝鮮経由で日本に運ぶのを阻止して干し殺しにしようと言う作戦を行った(豊臣秀吉の鳥取城干し殺しと同じだ)

海上ルート(瀬戸内海や九州周辺および日本海)封鎖の為、日本近海の港湾周辺に1万個以上も水中機雷をB29から投下しまくったのだ。
富山県の伏木港にも撒かれたことは先般ブログに書いた。
戦後4年目の1949年、新潟県名立町の海岸に流れ着いた機雷が爆発、見物に来ていた子供たちが、見分の警官もろとも吹き飛ばされて63名が亡くなっている。

機雷とは、大型船の船底に比較的近い数十mの海中に浮かせて置き、船が通過すると爆発して船底を破り沈没させる爆発兵器の一つである
日本の軍艦や輸送船はこれによって数百隻も沈没したと言う
沖縄に大挙して押し寄せたアメリカの軍艦数百隻、しかし日本沿岸には攻め寄せてこなかった、それは空からの攻撃や兵糧作戦もあっただろうが危険水域との認識があったのでは?

戦後の海外からの兵員や移住者の引き揚げ船や経済復興の為、安全航路の確保を目指してこうした機雷駆逐の為の部隊が編成されて日本各地で掃討作業をしていたのだ
それは一口では言えぬ難しい仕事で、アメリカ軍も簡単には始末されないように国際法を無視した装置を開発して取り付けていたからだと言う。

戦後間もない、そんな危険物を排除するために働いていた人々に目をつけて描いた脚本家はなかなかマニアックだと感心して見ていた。
こんな仕事をしていた作業員の給料は当時の一般サラリーマンの3~4倍の危険手当給料をもらっていたと言う。

蛇足だが、日本に海からやって来たゴジラも多くの機雷に触れてやってきたことは大いにあり得る、かれもまた一種の機雷掃討作戦の功労者ではないだろうか。



シトシトと寒い日は昔のニュースを見て

2023年12月01日 23時38分24秒 | 昭和という時代
 月曜日にはカニ漁があったけれど、火曜日から今日まで、そして明日も連日、降水確率90%、気温は最高9度、最低3度
寒い上に冷たい雨なので気力は失せて、外に出るのは最低必要事項のみで、家にいても何もする気にならず、コタツにもぐりこんでビデオばかり見ている。
それも、とうとうドラマは全て見終えてWBCの一次リーグから準決勝までジャパンの試合全て見た、残るのはアメリカとの決勝だけ

そのあとは5枚(30時間分)のDVDに録画しておいた東日本大震災の各局の報道(ライブ)を改めて見た、録画したが見ていない部分が多い
もう12年たつのだ、3枚目のDVDを見ているが災害発生から1日半後の報道だが死者不明1700人超えとのテロップ。
「福島原発で建屋爆発したが格納容器は問題なし、爆発で放射能の危険性がかえって少なくなった」と枝野官房長官が発表している。
そうか、民主党政権だったんだなあ、総理は菅さんだったんだ。
この時点ではまだ現地に中央からの救助隊やマスコミが入れず、犠牲者数や被害数、原発問題も、比較的楽観していたことがわかる。

そんな中で南三陸町で1万人の安否が不明、町は壊滅的とのニュースが飛び込んできた。
宮城県の死者は400人余り、行方不明者多数とのニュースも。
海上保安庁が海上で30人の遺体を発見したとの
気仙沼で車で300m流された男性が「何が何だかわからないよ、生きているだけしあわせだが、家族は誰もわからないよ、生きていてけろ」
と泣きながら話した。

自衛隊ヘリが病院に着陸して救出作業をしている映像、南三陸町の悲惨なライブ映像
このあと続々と悲惨なニュースが入ってくることは我々は知っている通り。



グランドに「SOS]とヘリポートマークがかかれて救出を待っている(志津川中学)


結局、福島原発爆発が引き起こした大被害は今もなお続いているのだから原子力の利点と危険性はよく考えなければならない。
東電の柏崎刈羽原発がある新潟県柏崎市周辺では原発事故に備えて、迅速な避難路確保のための北陸高速道の新インターチェンジや、バイパス的な新・新幹線計画などが検討中である。
しかし積雪時であれば、これらの設備も有効かどうか疑問視されている。
佐渡島では東電福島での海への放水の影響で、中国へ80%輸出している「なまこ」の出荷がとまって関係業者が途方に暮れている。
ようやく金銭保証が実行されそうだが、各地にこのような副産物的被害が連鎖しているようだ。

人は過ぎたことは忘れ去る習性がある、ウクライナの災難もそろそろ話題に上がらなくなってきた
こうして過去の出来事を忘れないよう、あらためて見直すことも大事だと思った。