神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)

風吹くままに 流れるままに
(yottin blog)

焦る夢

2021年10月30日 18時57分59秒 | yottin日記
今朝は4時ちょうどに目が覚めた、なんだかわからないうちに4時半になっていた、4時というのは面倒な時間
起きるには早すぎるし、寝ようと思ってもある程度寝たあとなので寝付けない
それでテレビをつけて録画しておいた昭和初めから池田勇人までの首相のあれこれ「映像で見る20世紀」だったかそれを
そうしたら10分も経たぬうちに寝たのだろうか?音は寝ながらでも聞こえていたが、時々意識が戻って少しみるがまたまどろむ
そんな繰り返しのうちに本格的に寝てしまった、目が覚めたら6時半だった
いつもならもう魚問屋にいる時間だ、二度寝の罠だ

夢を見ていた、いくつか見たのだが覚えていたのは目覚めの前の最後の夢
旅行トランクと手提げカバンを持って、多分上野駅の玄関口あたりにいた
人が多くて賑やか、中を見ればすぐに階段がある
私は2人のともだちと台湾旅行をするらしい、ともだちはまだ来ていない
だけど重大なことに気づいた、パスポートとお金を持ってきていなかった
時間はどれくらい残っているのか?一時間あるかないかの感じ
家に戻ってとってくるしかないが間に合うのか(上野駅にいるのに自宅は近くらしい)
だが大きな荷物をもって行けない、置いていけば盗まれそうだし、行かなければ飛行機に間に合わないし、焦った! 大ピンチ
友達が来たので荷物を見ていてもらおうと思ったら、「トイレに行ってくる」と言って逆に荷物の番を頼まれてしまった
時間はどんどん過ぎていく、これで台湾旅行はおじゃんだ!そして10数万円のキャンセル料をみすみす取られてしまう
目が覚めてホッとした

でもこれはトラウマになっている失敗談が夢に現れただけなのだ
前にも書いたが私は2度こんな失敗をしている
一度は私がHISで飛行機の座席確保と予約をまかされてとれた台湾旅行、夢と同じく3人の旅、
ところが新幹線に乗る直前に予約票の入った袋と別の袋を持ってきたことに気づいた、それで私は一列車遅らせて取りに戻った
他の二人は先の新幹線で羽田に向かった、なんとか見つけて一時間遅れで羽田に着いた、あの時は青ざめた

もう一度は芦原温泉の旅行で友達と自分の特急券と乗車券を買った時のこと
旅行の数日前に買って友達には渡しておいた
当日、金庫にしまった自分の特急乗車券をだそうとしたら開ける金庫のカギをどこに隠したか忘れてしまった
探しているうちに時間が無くなり、仕方なく当日また同じ券を買い直した
帰ってきたら単純なところに鍵はあった
特急乗車券数千円が無駄になった、あとから駅員に聞いたら一定の期間内なら払い戻しが出来るとのことだった
やはり無知は損をする

台北の屋台で食べたスィーツ



体と保険の話

2021年10月28日 17時18分01秒 | 病気と健康
高校生ごろまでは死ぬことが怖くて仕方なかった
そのあとはとにかく長生きしたいとずっと思っていた
だけど50年間の間に友達、同級生、知人、家族親族の死をとどまることなく見続けるうちに死を受け入れるようになった
私の周りでは「長生きしたくない」という女性が一定数いて、それは(どうしてだろう)といつも思った
感覚的に死を受け入れても90前に死にたいなどと考えたことがない、それ以前にそうなれば仕方ないが

親戚を見渡していたら女房殿の父親が98歳、父の仲人をした父の従兄も98歳で健在だった、どちらも体力的には衰えているが一人で暮らしている
勿論子供たちが近くにいてかわるがわる顔を出している
寝たきりでないのがいい、でも本人たちはどんな思いで生きているかはわからない、二人とも耳が遠くなった

昨日私は勘違いして後ろ向きのまま階段を2段踏み外して下に落ちた
でも左足一本で体を支えることができた、最近暇があればその場でスクワットをするようになった
場所も回数も考えずにやりたいときにやりたいだけやっている、例えば魚のセリの前だとか、起きた時のベッドサイドとかで
そんなことで体幹年齢がまた下がって48歳相当になった、それで階段バック踏み外しもこらえることができたのだろう
あれで膝が砕ければ背中からもう一段低い玄関のコンクリートに尻から落ちて大けがするところだった

体幹バランスは良くなったけれど、足の置き場を勘違いする頭の劣化は大問題だ、二段目を一段目と勘違いして一気に廊下までおちたのだから
これからは頭の体操も力を入れなければいけないな、体が元気なまま認知症などになっては家族がたまらない
この夏、生命保険の介護保険と言うのに入ってしまった、例のノリがいい保険のセールスレディに入れさせられてしまったのだ
テレビでその商品を最近PRするようになった、要介護一の認定で満期金を家族に渡す、そして保険金はそこで支払い打ち切りになるという商品だ
両親が80代半ばから要介護1を超えたから、私も可能性があると思って入った
国の介護保険料を支払っているから、この保険に入っている意味があるのか無いのかわからない、無駄かもしれないがその時にならなければわからない

若い頃、将来国の年金はあてにならないから」と言って保険会社が個人年金保険と言うのを競争で売り出したことがある
国も奨励したのか年末調整などでその保険金を控除対象にした
だがバブル崩壊で日産生命だとか損保会社が3社ほど相次いで倒産、この保険は銀行も乗っかって被保険者に一括払いの保険料を融資した
私も百万単位の融資を受けて加入したが、その保険会社が倒産して借りたお金の70%しか戻らなかった
結局銀行の利息も入れれば掛け金の半分を損したことになった
だが保険は万一のために入るものだ、今のコロナ騒動と同様で「もしかしたら」という不安を煽る
並の人間と言うものはこんな風に形の無いものに煽られて右往左往する「考える葦」「考えなくてもいいことまで考えてしまう葦」なのだろう







戦争あれこれ

2021年10月26日 20時49分20秒 | 時代検証
ロシアと中国の軍艦が5隻ずつ計10隻で艦隊運航をしながら、津軽海峡と鹿児島県の海峡を示威行動しながら通過したという
国際法ではこれらの海峡の中央部は公海なのだという、本当は領海は沿岸から20kmだとかでそれだと海峡すべてが日本の領海となる
すると同盟国のアメリカ海軍が、核を積んだ艦船で同じ場所を通過すると非核三原則の日本国内に核を持ち込んだことになる
そうなると大問題になるから、領海の幅を4分の一ほどに狭めて航海を広くしたのだと昼のワイドショーで解説していた
ゆえに中国やロシアの海軍が通過してもアメリカ海軍同様問題が無くなる

明治時代の1904.1905年は日露戦争でロシアの軍艦が津軽海峡を自由に航行して日本及びイギリスの貨物船などを拿捕したり撃沈したりしていた
日本艦隊の主力は旅順港のロシア艦隊やバルチック艦隊に備えてこれらのゲリラ艦を捕らえることができなかった
ロシア軍艦はたった二隻で毎日のように日本沿岸で暴れまくった、それを日本軍は捕えることができなかったため商船、貨物船が多く犠牲になった

もとえ 日本もアメリカや韓国、欧州や豪州の海軍と共同訓練をするから、中露がこうした行動に出てくるのは計算済みなのだろう
だが自国の領海をこうした艦隊がわがもの顔で通過していくのは不愉快である
これが明治時代や敗戦前だったら許すことはなかっただろうし、そもそも敵対国の軍艦は寄り付かなかっただろう
我が国の世界の中の地位が見えた出来事だった

北朝鮮はミサイルを飛ばすのに夢中になっているし、中国機は台湾を脅かせているし、どうも東アジアがきな臭くなってきた
強い武器を持つと試したくなるのが戦人の気持ちだ、新刀の試し切りのようなものだ、かろうじて止めているのは核のバランス
これが崩れた時、第三次世界大戦が起こる可能性が出てくる、先に手を出した方が負けだから挑発して先に手を出させて叩くのも作戦だ
真珠湾攻撃の罠にはまったのはアメリカではなく日本だったという話も時々聞く、あれでアメリカ国民の団結と戦意高揚が一気に高まったというのだ

さすがに核保有国も本格的に核戦争がおこれば人類の滅亡だということはわかるようで、限定核という言葉が使われる
広島、長崎並なのか、それより大きいのか小さいのかは知らないが都市規模の核を使う戦争は起こるかもしれないし、わからない

中国が宇宙からの核攻撃の実験を行っているという、それはアメリカやロシアも行っていて、また戦争の仕方がレベルアップした
そんな核衛星を破壊する人工衛星もまた実用化に向けて進歩しているらしい
我が国も人工衛星や宇宙ロケットなどの開発レベルは一級品だ

第二次大戦が終わって76年間我が国は戦争をしたことがない、世界でも珍しい平和国家だ、もう戦争の仕方は忘れただろうか?
そもそも戦争に行った人間がほんのわずかになってしまった、95歳以上の人だろう
第二次大戦が終わって5年後には朝鮮戦争が始まった、ベトナム戦争がヒートアップしたのは15年後くらいからだろうか
日本ではベトナムでズタズタに破壊されたアメリカ兵の遺体のクリーニングの学生アルバイトがあったと聞いたことがある、破格のバイト代だったとか
日本は直接戦争はしなかったけれど後方支援はいろいろな面でやっていたのかもしれない、朝鮮戦争に参加した日本兵のドキュメンタリーもやっていた
傭兵の一種かもしれない、まだ日米戦争が終わって5年だから現役並みの元日本兵は大勢いただろう

15世紀前半、東南アジアで大暴れした山田長政などの傭兵はオランダ軍に属して、敵対するスペイン軍を追い払った
彼らは徳川家康の日本統一の過程で職を失った戦国武士だった、ある番組ではこうした武士団は家康の輸出品の一つだったと言っていた
勇猛果敢な日本の職業武士団は強くてスペインの要塞を次々と落としていったという
家康はこの見返りにオランダから強力な長距離大砲を輸入して大坂城を落城させたのだという
因みに、スペインは家康に対してキリスト教の日本での布教と貿易をセットにしたが、オランダは貿易のみを求めたという、それが家康に気に入られたのだ






 



観光復活か

2021年10月25日 17時44分19秒 | 地理
女房殿が結婚前にバイトをしていた長野県白馬村の民宿が閉店するとのこと
それで女房殿は今日、その民宿へ行きました
民宿を切り盛りしていた、おかあさんが高齢になったので決断したとのこと
結婚して8年目くらいに私も
この宿へ家族で行って一晩お邪魔しました
静かすぎて逆に近くの小川の音が気になって寝付けなかったほどです

女房殿は老犬が心配で午後には帰ってきましたが、野菜をいろいろおみやげにもらってきました
大きな白菜(つーくんのものよりは小さいけれど結構大きい
、それから特大のキャベツ、からいも、青梗菜、唐辛子




白馬岩岳は月曜にもかかわらず観光バスやマイカー、人でいっぱいだったそうです
いよいよ観光は動き出したのでしょうか
経理事務所の社長さんが言っていましたが、富山県の秘境の一軒宿も年内予約満室だそうです
一方、宴会となると大手企業8174社アンケートで忘年会.新年会を再開するかどうか
70%が許可しない、その他29%、許可する1%だそうです
大口宴会は来年の春以降まで望みは無いようです、わがやも個人客から復活が始まっていますが大口は皆無です。



人口減少問題

2021年10月24日 18時25分49秒 | 病気と健康
コロナ感染者の減少と規制の緩和で人流が一気に増えた感じがします
昨日までは冷たく強い雨や強風で人出もなかったけど、今日は快晴の日曜と言うことで先週までの日曜の4倍くらい食事のお客様が来ました
4倍と言ってもコロナ前に比べたら半分程度ですが、それでもデリバリーや小人数の会席なども増えてきて内臓脂肪が一気にダウンしたくらい動いています
体重もついに先週の63.0から62.9に減って、理想の62.0に近づきました
高校生の時は50.0だったので、これでもずいぶん太った、というかっ高校時代が痩せぽちだったのです。
それにしても最高72kg台まで行ったのですから9kgは減りました、早寝早起きのおかげだと思っています

おさらいですが、肝臓は働き者で24時間休まず働きます、起きているときは様々な負担が胃腸にかかり、血液が汚れたり異物が入ったりで
肝臓は血液浄化などのための通常業務に忙しい
人間が寝ると、ようやく肝臓の仕事も減っていき、ついにはやる仕事がなくなる、すると働き者の肝臓は仕事を探す
そして一番身近な内臓脂肪の掃除を始めます、すなわち内臓脂肪を分解させて消化していくので内臓脂肪率が下がる
こうしたことで早寝早起きは脂肪を減らすのに効果的、しかも時間帯が決まっていて深夜11時頃が重要な時間帯、いくら寝てもこの時間に起きていると効果ないらしい

日曜日でも朝になると魚市場に行く、魚があるわけでもないが昨日買った魚の買い掛け伝票を取りに行って自販機の飲物を飲む、そして店に行く
今朝は飲物を飲みながら好天のもと2000坪はありそうな広い市場の駐車場を見ていた
私が50歳くらいまでは、この駐車場は8割がた仕入れに来た魚屋の車でびっしり埋まっていました
それが今ではどこでも自由に止められるガラ空き状態になった、セリが始まる時間でも10数台だけなのです
荷捌き場内の魚だって注文品しかなく、契約地元漁師が水揚げした魚箱が10個20個セリにかかるだけで、セリ時間は10分程度
昔のように30分1時間なんて言うのは夢の夢です

今年生まれた子供数が最低の85万人とか言っていた、我々が330万人、一ヶ上からの団塊世代は400万人いたのだからずいぶん減ったものです
人が減るということは口数が減る、だから食べ物も衣類も子供用品も売れ行きが悪くなって当たり前です
逆にこれから20年、高齢者サービスの業種は繁盛するでしょうね
医療関係、高齢者施設関係、薬品製造、介護そして葬祭場など

私が生まれてまもなく市町村合併がおこって近隣の10数か町村が一つになって人口55000ほどの市になった
それがどんどん減って平成の大合併前には3万人そこそこだった、それが平成大合併で再び5万人に返り咲いたが、令和の今すでに4万人を切ろうとしている
田舎の人口減は早い、結婚数が激減、結婚しても生まれてくる子供数も少ない
高齢者はどんどん亡くなっていく
高校を卒業すると8割がた町を去って都会に行く、町に大学や専門学校がないのも原因だ、仕事も選ぶほどないし、戻ってくるのは行ったうちの1~2割
だから高齢夫婦の二人暮らしばかりになる、普通なら男が先に逝く、だが女性の一人暮らしは案外元気が良い、
わが家の近くにも90前後の女一人暮らしが何人もいる、立ち話をして、花いじりを楽しみ、畑仕事に毎日通う
みなさん杖もつかずシャンシャンと歩いているのには驚きます

それでも100まではなかなかむつかしいから、空き家が増えていく
我が家の隣も空き家、そのあとは空き家が無くなって空き地になる、店の周りはこの10年の間に10数軒分も空き地が増えた
田舎は日本の縮図、都会と言えども減少傾向にある、恐ろしいことだ





戦国 身内の争乱物語

2021年10月07日 12時04分44秒 | 戦国時代
黒澤明監督の「影武者」を見て思った
このドラマでは主線は影武者の生き様とハプニング、そして心の変化だ
そして伏線は戦国最強と言われた武田信玄が死んでのち10年足らずでなぜ武田が滅んだのかが伏線として描かれている
それは信玄が滅ぼした諏訪氏の娘に産ませた子が諏訪四郎勝頼で、本当なら信玄の後継者になる立場だった
信玄は若いとき、今川の娘を娶った長男と今川攻めで対立して自害させていた、次男三男は後継者となり得ず、4男勝頼は自分が後継者と思って居た
しかし信玄はいまわの際で家督は孫に譲り、孫の父である勝頼には後見するようにと命じて死んだ
勝頼はそれを聞いて信玄の股肱の重臣たちが自分を下に見ていると思い、実力を見せてやると憤り、家康方の高天神城を攻め落とした
これは信玄さえ落とせなかった城だったから勝頼は得意満面だった
自信を持った勝頼は重臣たちが止めるのも聞かず家康領への攻撃を繰り返し、ついに運命の長篠の役へと突入して大敗、古老の重臣たち山県、馬場、真田など名だたる武将は全員討ち死にした 
映画では「われらの命もここまでじゃ、あの世へ行ってまた御館さま(信玄)のもとに集まろう」と言って決死の突撃をするのだった
(われらが倒した敵の、娘の子である若造などに従えるものか。われらの大将は信玄公以外あるものか)という誇り高き武田武士の憤りが聞こえる場面だ

真田家の長男、次男もここで討ち死にして他家に養子に行っていた真田昌幸が真田家を継ぎ、勝頼を支える武将となった
信玄の誤算は長男を殺してしまったことと勝頼に負い目を負わせたことだった
信玄は若いとき乱暴者だった父信虎を図って今川家に追放した、そして長男を殺した、戦国の常と言えこれは失敗例だ

信玄のライバル上杉謙信はまだ20歳前に実兄と争って家督を奪ったという説もある、海音寺潮五郎の小説「天と地」には米山峠の戦が描かれる
一方、兄は病弱で謙信(景虎)が代行したという説もある

熟年となった信玄の敵の一人、徳川家康は信長に命じられて謀反の容疑で泣く泣く妻と長男を殺害した、妻は敵との密通容疑があったというのが小説の通説
その家康が天下を取ったあとで孫同士の対立があって三代将軍家光は春日局の後押しで両親(2代将軍秀忠)が跡継ぎにしたかった弟を切腹自害させた

信玄のもう一人の敵、織田信長も謀反を企てた実弟を殺害している
二人の母は信長を嫌い、弟信行を可愛がっていたという
奥州の後れてきた英雄伊達政宗も弟を殺した、こちらも母が気性が荒い政宗を嫌い、弟を可愛がっていたという
父は戦に明け暮れ、母は弟を愛し兄を疎んだという例はよくあるようだ

豊臣秀吉は、弟小一郎を死ぬまでもっとも信頼して重用した、妻の一族も優遇した
姉の息子は豊臣秀次と名付け関白にまで取り立てて自分の後継者に指名した、
ここまでは立派だったが息子秀頼が生まれると秀次に難癖をつけて切腹させた、さらに秀次の妻妾、その子供達まで全員の首をはねて殺した

こうしてみると戦国時代は兄弟がもっとも危険な存在ということがわかる
そんな中で薩摩島津氏、中国毛利氏は兄弟の結束固く困難を切り抜け明治まで家を存続させた、維新の立役者薩摩藩と長州藩である、偶然だろうか




黒澤映画に思う

2021年10月06日 17時41分45秒 | 映画/ドラマ/アニメ
たったいま鹿児島で震度4の地震が起きた、先日は青森で、その前は能登で震度4程度の地震があった
端から端、最近はモグラ叩きのように地震が思いがけぬところで起こる

昨日は鬼平犯科帳と黒澤明監督の映画「8月の狂想曲」を見た
子供と大人の中間の吉岡秀隆も出ている
長崎と原爆がテーマのちょっと重い映画だった、「影武者」の重苦しさにも共通している、そういえば「羅生門」もそうだし黒澤映画にはそれがある
その土地の呪縛(主に田舎)風土、無念の念、地神との共存、運命を受け入れる諦め、ある映画の「狐の嫁入り」の不気味さは
スピルバーグの「トワイライトゾーン」の悪魔のバニーが突然現れた恐怖に似ている
それなのに運命を受け入れた老人たちは今日をごく自然に生きている
そして不運にも原爆に消されてしまった故人を縁者が集まって「般若心経」を詠んで慰める
老婆と老婆の1時間も続く無言の会話、それはわかる気がする
言葉など無かった大昔、そして野生の動物たち、あるいは蟻の集団、これらは言葉を介さずに意思疎通を行っている
言葉よりテレパシー的な通信の方が真実そのままですんなり心の内に入っていくだろう
人は言葉を失ってこそ誠の心に触れあえる、この世には無駄なものがずいぶんとある、過分な財産、過分な欲望
それがこのごろようやくわかるようになってきた




お城巡り(2)

2021年10月03日 19時20分25秒 | 日本の城
朝夕肌寒く、日中は蒸し暑いこの頃の気候、汗が出たりくしゃみが出たり
いよいよわが町でも中学生の接種が始まりましたよ、最近は子供とその親年代の感染が多いので本気モードになったんですかね?

昨日は大都市の解除が始まって初の週末、我が家の食堂にも先週の2倍くらい見えました、今日も若干多めだった
わが店で法事を20人くらいで行う予約が入りだしてきました、これに勢いがつけば少しはやる気も出てきますけどね
宴会はどうなんでしょう? まだまだ年内は大口は無理だと思います

全国のお城を巡るほど今日まで余裕がなかった私は関東甲信越、北陸近畿、南東北をまわったくらいです
先日は初めて新発田城へ行きましたが、もう少し北には村上城がある
、でも新潟県は長すぎて遠くて秋田にでも行ったついででないと無理でしょう
そのわりには会津若松城は何度か行きました、前回は新装なった若松城でびっくりしました
戊辰戦争ではもっとも悲惨な戦争が行われた会津、余力がない日本に原爆が落とされたと同様に会津も最初降参したが政府軍は許さず多くの会津士や市民を殺害した
戦争の終結にはこうした勝者によって非情な見せしめがなされる「俺に逆らえばこうなるぞ」と言いたいのでしょう
会津の支城だった米沢城は秀吉が直江兼続に与えたけれど関が原で敗れた上杉家が4分の一に削られてここに押し込められた
今は天守もなく上杉神社になっていて広い堀と石垣が当時をしのばせている?のかな?

北陸では丸岡城が国宝だったが壊れて補修したために1ランク下がったとか、行ってみたけど小さな天守でした、でも古くて味わい深い
加賀百万石の前田家金沢城は観光名所として100間大廊下などを作った、なんといっても兼六園が素晴らしい、前田家のお庭なのでしょう
100万石なんだから姫路城みたいな天守をど~んと建てたらどうでしょうか
金沢の皆さん頑張ってください
富山城は旧8号沿いにあって天守はなく隅櫓が建っている、でもなんとなく城の雰囲気があって近いから何度も行った
前田家の分家だから辛いこともあったのでしょうね

近くと言えば夜桜の名所100万人の夜桜高田城、石垣と堀だけが大きな規模で残っていて自衛隊も同居するが、三層の櫓を作って観光の目玉になった
夜桜と堀に映る三層櫓は小さいがインスタ映えする

信州だと松本城の他には高島城、そして上田城、小諸の小諸城址と懐古園、天守台しかないが急な崖が落ちている西側には千曲川を望む
都市にある城と違っ小諸城はワイルド感がある、たしか檻に入った小動物園があったと思う
あとは中野だったろうか高梨館も見たことがある、上杉家と親戚だったとか聞いた覚えがあるが?どうだろうか
このごろ記憶力が次第に薄れていく気がする、これはやばい!コロナボケかもしれぬ
東海では家康が生まれた岡崎城に行った、趣があった、ちょっとおせっかいなガイドさんがついて時間が無くなった思い出
これは小田原城でもそんなことがあった

東海道には浜松城など名城がいくつかあるが、静岡県は我らの真裏なので遠くてめったに行くことができない

これから絶対行きたい城は熊本城(新婚旅行で熊本で泊ったのに行かなかった!悔しい)、首里城は壊れる前に行っておいてよかった
四国は高知城、松山城、今治城などいくつもあるし、中国の広島城、松江城も行きたい、岡山城は行った、後楽園も楽しめた、高松の栗林公園もすごく良かった
伊賀上野城も行きたい、浜松城、青森弘前城 伊達政宗の仙台城は行ったことがある
これからこれから お楽しみ  まとまりのないブログになってしまった




それとは逆の名城が松本城です、三度天守まで登りましたが一度は鉄砲や大筒の展示がされていて為になった
日本には江戸時代までのままの天守が残っている城は10だけだとか明治維新までは全国で数百の城があったのでしょうがほとんど破壊された
だから残っている城は現代風に改造したり天守内部が博物館みたいになったりでちょっとがっかりします
名古屋城、大阪城、会津若松城もそんな感じになっていましたね、和歌山城はまだよかったと思います
彦根城は関西に行くと時々立ち寄ります、あの城はいいですね、城下にある殿さまの御殿もとても松などがきれいで天守閣も望めるし規模も大きい
だから天守だけでなく二の丸、三の丸の御殿やお庭、〇〇園とかがあると楽しいですね
姫路城も広くて二の丸の庭園などにも行きましたが途中からゲリラ豪雨にあって大変な目にあいました、初めてだったのに残念
大坂城は内部はともかく規模としてはとても大きくて駐車場から歩いて天守に向かったがなかなか着かない、あれでも戦国時代の規模よりずっと小さいから
(豊臣の大坂城ではないが)攻める側が苦労したのもわかります
岐阜城はケーブルで上がっていくくらい急で高い山の上にある、ケーブル駅からも山道を歩くし険しい山城です、二度行きました
近くの犬山城も二回行ったけど規模は小さいけれど長良川だったか川の景色がとても印象に残っています

お城巡り 越後、越中、信濃の山城中心

2021年10月02日 19時36分39秒 | 日本の城
戦国時代の戦記小説に夢中になったのはいつごろからだろう?
中学、高校までは日米戦争のドキュメンタリーに夢中だった、父が旧日本軍の戦記雑誌「丸」をずっと購読していた影響だ
20代中ごろには日本海軍の艦船プラモデルをずいぶんとたくさん作った、30cm以上の空母、戦艦、そして凡ての艦船200数十隻の500分の一だかのシリーズ
駆逐艦などは10cm程度の大きさであった、それがそろっていくと艦隊を組んだりして楽しんだ、だが結婚してからそれは終わった

だから、そのあたりから戦国時代の国内戦争にシフトした気がする
「歴史読本」という本を購読しだした、早乙女貢「会津士魂」と新田次郎「風林火山」だったろうか?夢中になって呼んだ
武田信玄の北征、村上義清との激闘、川中島で初めて見たまだ20歳そこそこの天才、越後長尾景虎(上杉謙信)の不気味な軍団との初顔合わせ
信濃の武将と違った強敵のオーラを感じただろう、それは長尾景虎も同じで侵略者武田信玄の出現に闘志を燃やしたはずだ
その場面が一番ワクワクするが、そこの心理描写を書いた小説に未だ出会っていない

上杉謙信の居城、春日山城には2度登った、山城は見学ではなくハイキングだ
平城が普通になる前はたいがい山城で、山の尾根や山頂を整備して守りを固め
上越市の北東部頸城郡には上杉家臣の山城がたくさんある、だが山深く熊が怖くて行けない
それで上越の南西、糸魚川西頸城にある山城は海から近いのが多い、上杉一門の山本寺氏の不動山城2回登った
国境親不知の勝山城も2回登った、上杉景勝と豊臣秀吉が会見した城という伝説がある
越中側の最前線宮崎城には3回登った、海が真下に見える本丸跡は最高の眺めだ 能登の七尾城入り口は何度も通ったがやはり熊が怖くて行けない

武田信玄の躑躅崎館は一度行った、宝物館も見てきた、ここは守りが緩そうな平城というより館だ、だが後方に守りの固い山城があったと聞いた
武田氏は常に国外へ攻め込んだので甲府を守る戦争は、織田信長に攻め滅ぼされた最後の戦い以外なかったのだ。

信玄に信濃の大名は領土を奪われ、臣従するか殺されるか逃亡するかだった
松本城の小笠原氏は逃亡し、諏訪氏は臣従したが謀殺されて娘を妾にされた、その子が信玄の4男武田勝頼だ
諏訪湖に面した高島城にも行った

木曽氏は臣従して縁戚となり、上田の剛将村上義清は2度までも武田晴信(信玄)を大敗させたが力尽きて謙信のもとに身を寄せた
糸魚川で山城、根小屋城を与えられた
松本の南、高遠城は武田氏が滅ぶときもっとも華々しく戦い散った城である
武田勝頼の弟、仁科五郎盛信が10万の織田軍と戦い散った
木曽氏や武田の一族、重臣が相次いで裏切った中での忠臣が際立つ
今は桜の名所として観光地になっている、ここも花見で三度行ったが規模の大きな城だ

上田城は3回行った、これは真田氏の城で、ライバル村上氏は葛尾城など複数の城を持っていたが、上田インターの近くの坂城Pからそれらが見える
真田氏の出身地は上田の北東の真田の庄、ここに真田本城跡がある2回行った
山城の姿が見えて面白い
真田というと岩櫃城が面白い、険しい断崖の山に築かれた難攻不落の城、武田の家臣だった真田昌幸が武田勝頼を匿うと言った城である
国道から何度か見たが登った事は無い、テレビで見たような気がする





ドライブを思うとワクワクする

2021年10月01日 17時54分46秒 | ドライブ
今までは時間の制約が多くて遠出はほとんど高速道を使っていた
たしかに信号はないし、はやい速度で直線を走るのは気持ちがいい
だが味気なさを感じるようになった、直線が多いからトンネルが多い、山間部では両サイドが切通の山肌
ほとんど景色らしい景色を楽しめない、そもそも90km100kmで走るからよそ見なんかしていられない

最近はちょっとした暇が多くなってきたので100kmくらいまでなら一般道を走るようになった
国道の市街地の渋滞が嫌で高速ばかり走ったが、国道が混む場所は県道などの迂回路も多いので気にならなくなった
どうしても渋滞路を避けられない時だけ高速道を1区間利用する
一般道は古い街並みや、田園風景、古道、自然の森の中など見どころ満載だ
それに峠を越えればずいぶんとショートカット出来てお得だ

北陸道を走り、長岡ジャンクションから関越道に入り六日町インターまで行くのに上越インターから約120kmある
ところが上越インターで下りて国道8号から国道253号を行くと十日町経由で六日町インターに出る、これが約65kmしかない
国道経由の方が僅かに時間がかかるが距離は60%くらいだし高速代もいらない
だから群馬などに行くときは上越から国道経由で行く

イケリンさんのブログを見ていたら急に濃尾平野を見たくなった
今年中に行きたい気持ちが起きてきた、もし行くなら国道や県道などを通て行きたい
12時間かかっても一泊で行けば楽勝だろう、昔は高速道など無かったからそんな風に旅行をした
あちらこちらでファンベルトが切れたり伸びたりでオーバーヒートした車がボンネットを開けている景色に出会ったものだ
今は、そんな風景は全く見なくなった、パンクしている車もあまり見ない、でも最近私の車がパンクした、スペアタイヤも車に装備されていない時代になった

岐阜までどんなコースで行こうか?考えただけでワクワクする、そのためには岐阜県には感染者数10人台まで下げてもらいたい
一般道経由と言うのがとても楽しそうに感じる、また大好きな地図を見てルートを決めよう、走ること自体が楽しい
この頃の車は燃費もいいから法定速度を守ればリッター20kmは行ける、片道20Lあれば十分だ。ガソリンも高いから倹約ドライブが一番
実現させたいなあ