今朝は放射冷却の地表の寒さに対し、昼には20度を超えた空気の
暖かさが作用して、8時過ぎに市内一円に濃霧が発生
早春ならではの景色になった
北陸新幹線もかすんで見える
春を待つ野尻湖
北信濃はようやく雪が解け始めてきた、ナウマンゾウ発見の野尻湖
沿岸部の湖底は露出してジメジメとしていた
夏になれば、この桟橋から遊覧船が出る
今はまだ静かで寂しい ようやく冬が終わりかけている野尻湖
今朝は放射冷却の地表の寒さに対し、昼には20度を超えた空気の
暖かさが作用して、8時過ぎに市内一円に濃霧が発生
早春ならではの景色になった
北陸新幹線もかすんで見える
春を待つ野尻湖
北信濃はようやく雪が解け始めてきた、ナウマンゾウ発見の野尻湖
沿岸部の湖底は露出してジメジメとしていた
夏になれば、この桟橋から遊覧船が出る
今はまだ静かで寂しい ようやく冬が終わりかけている野尻湖
わが町にも新幹線が走っている
脱兎のごとく駆け抜ける新幹線には、スマートさはあっても
風情がないと思っていたが
夜の鉄橋を走っていく新幹線の窓の明かりは風情がある
何事も便利と弊害が背中合わせだが、新幹線にも騒音、振動、落氷雪、電波障害
といった弊害が表面化してきた
一方、乗り換えなしで2時間で東京に行けることは、田舎と地方の落差を緩やかにする
静かな田舎で暮らし、余暇に東京の文化芸能やレジャー施設、有名店での食事、ライブを楽しむ
そんなことも可能になった
私が子供のころ描いた21世紀は、一人乗り二人乗りの小型円盤が普通に空中を飛び
会社やレジャーに活躍している世界
だが21世紀を15年過ぎても、それは実現していない
世界が豊かで平和になって戦争が消え去っていると思ったが、100年間たっても憎しみは
少しも減らず、貧困と戦争は100年前と同じように続いている
人間のレベルは未だ餌を奪い合う獣のレベルを脱せない
それでも金持ちと会社重役の特権だった乗用車は、今では20歳の女性でも普通に乗っているし
商店にしかなかった有線電話は、無線コンピューター付になって誰のポケットの中にも入っている
高嶺の花、魔法の箱、夢にまで出てきた白黒テレビは、大型のカラーになって一家に2~3台はある
思えば、できるはずがないと思われていたものが、ほとんど完成している
われわれは、その感動を忘れているのだ
川へ行って、角の大きな石鹸を使い洗濯板で洗濯をしていた母、やがてタライで洗濯するように
そして洗濯機の登場、手回しの脱水に驚いたものだ
共同井戸からつるべで水をくむ、それにポンプがつき、やがて家に水道がひかれた
今はコンビニで水を買ってくる時代
我が家にはランプがあった、それを使った時代があった、電気が普及して裸電球とラジオ1台
これが我が家の電化製品のすべてだった
火曜日は電球日で電気がつかない日
今やコンセントが足りないほど電化製品で一杯だ、うちわも、湯たんぽも、かまども、ストーブも
蚊取り線香も、ガリ版も、年賀状、手紙も、みんな電化製品になった
50年前のトイレで用を足せる30歳以下の現代女性は皆無だろう
やはり21世紀は20世紀半ばからみれば、未来の世界なのだ
タイムスリップして今の時代に来れば、きっと驚くだろう
長野市街の南部を流れる犀川、これより西は小諸、上田方面からの千曲川に合し
新潟県に入って信濃川と名を変える。
犀川と千曲川が合流するあたり、川中島と称する場所で450年ほど前に、越後春日山の上杉謙信(長尾政虎)軍と
甲州、信濃を治める武田信玄軍が激戦を行った
いずれも、後に天下をほぼ手中にする魔王織田信長が一目も二目も置いた戦国時代最強の
龍虎、大鵬/柏戸戦、栃錦/若乃花戦に匹敵する名勝負。
今日は武田方の最前線、海津城跡の本丸跡に立ち、思いをはせる。
北側右奥には、謙信と信玄が切り合った八幡原、左手奥には信玄が最初陣取った茶臼山
西には「鞭声粛粛夜河を渡る」の雨宮の渡し、後方南には敵中深く謙信が陣取った妻女山
中世の犀川はこの広い平地を気ままに流れていたのでしょう、今よりはるかに広い川幅
海津城というくらいだから、城のすぐ近くまで天然堀のように川が流れていたのでは?
沼地もあったりで兵が3000も詰めれば1万くらいの攻城軍では容易に落ちまい。
謙信は、茶臼山の信玄はいつもの如く戦意なしと見て、海津城を横目に見て、敵方の陣地深く入り込み妻女山に上がった、これで謙信は自ら退路を無くし、信玄も甲州への退路が謙信に塞がれそうな状況になる、これでは一戦交えるしかあるまい。
だが信玄は数的に優位だから少しもあわてない、一方神憑りの謙信は数より気魄で戦う武将だからいっこうに数の差を不利などと考えていない。
いつも巧みにかわす信玄と今日こそ決着をつけてやると思っての深入りだ
妻女山に登ってみた、今は車で簡単に行ける
謙信がいたあたりには御堂があった。山は行動が不便だと思ったが、意外と道が縦横に張り巡らされている、今のように車などないから人さえ通れば、けもの道でもいざというときは
抜け道になる、しかも行動は平地から見えず、隠密裏に事は運ぶ。
それは信玄も謙信も知っているから、互いに行動を起こした、だが謙信の方が一歩先に行動を起こした、情報スピードの差だったのか、これで信玄は未曽有の危機に陥る。
甲越軍記、烈戦功記などでは通説になっている前半は越後勢勝利、後半は甲州勢勝利で川中島から越後勢を追い払った甲州勢の総合勝利ということで、越後勢の混乱敗走をこれでもかと書きまくっている。
・・・が、上杉家御年譜では越後勢が息をもつかせず一気加勢に信玄を追いたて、御幣川で
越後の武将、荒川伊豆守が信玄に三太刀あびせて浅傷を負わせ、信玄は雨宮の渡しから蔵品谷というところまで逃げ延びていったとある。
甲州勢は僅かを残し、打ち取られ、捕縛され、あるいは溺死したということで、こちらは越後勢がほぼ99対1くらいの勝利を収めている。
海津城本丸よりアルプス展望
捨てることが出来ない性格なので
ずいぶんと古いものを未だに持っている
リスト
父が行商したときの巾着1948年頃のもの
*巾着は若い人にはわからないかも
1963年父の東京土産にもらった口径4Cm屈折望遠鏡の
十字ファインダー(だけが残っている)
1961年のガリ版刷りの卒業文集
同級生300数十名全員の作文と版画が載っている2種類
1963年から集めたレコード、約100枚とそれ以前のソノシート
1970年頃のマリリン.モンロー特集の、アメリカ版「プレイボーイ」誌
1970年頃の法政大学の学生たちの「詩集FUJIMI]三冊
1960年代に買った「亀井勝一郎{愛の無常にについて}武者小路実篤編」
1969年卒業の時、親友にもらった「出家とその弟子」メッセージ入り
1969年愛用のスケッチブック コンテ絵数枚
他人から見れば(女房、兄弟も含めて)くだらないがらくただが、私の思い出だ
まだまだ押し入れを探せば1970年代のものはいろいろ出てくるだろう。
数十年後整理する人間は困るんだろうな?
秋に我が家の庭に発生した緑の虫、アゲハチョウの幼虫はおよそ15匹以上
それが2~3日うちに葉を食い尽くすとすべて姿を消した
どうしたのか、鳥に食べられたのかと心配していたら
数日後、周辺の様々な場所でサナギになっているのを発見
その数は7匹で、約半数に減っていた
木から一番遠いところで5mくらい
それから厳しい冬になり、12月の大雪、1月の暴風雪、着雪
2月中旬から雪が消えた時には・・・
現在、確認できたのは3匹だけ、あとは暴風や雪に耐えられず死んでしまったのか
4月には孵化すると書いてあったが
超になった途端、鳥が飛んできてパクッということも十分考えられる
家の周りには腹を減らした鳥たちが山ほど飛び回っている
はたして3匹のうち無事産卵できるのは何匹だろうか?
春分が過ぎ、夕暮れの西の中空に輝く一つ星
半年の朝の世界から、夕暮れの世界に戻ってきた「宵の明星」
金星、またの名をビーナス、黄金の輝きを放つビーナスは
太陽系の中にあって、唯一地球とうり二つの兄弟星
隣同士の周回軌道を走り、大きさも僅かに地球が大きいだけ
ご存じの通り太陽を中心に水星、金星が地球の内側をまわり
火星、木星、土星、天王星、海王星が外をまわる
外をまわる惑星は天空の中を自由自在に位置を変えていく
しかし、水星と金星は規則正しく半年ごとに朝焼けの空、夕暮れの空に
姿を見せる
金星は地球に似ているというものの、太陽に近いぶん高熱の世界だ
とても人間など住める環境では無い
金星は地球から見てこそ美しい 月のように満ちかけもする
衛星を持たぬ孤高の星ではあるが、まばゆい輝きは心を打つ
夕暮れのひととき西天をゆっくりと仰いでみよう
ゆったりとしたひとときを味わうことが出来る
いよいよ疲れが溜まってきたのか
肩から上がどっしりと重い
12月に筋肉痛で10日間痛めた腰にもハリが
それで整体に行ってきた
「行くぞ」と思っただけで少し体が軽くなる
いつも通り固い関節、開かない股関節
パンパンに張った首と肩
それをもみほぐす 血流がよくなっていき
背筋が伸びる
夜、ちょっとした区の懇親会があって軽く一杯
そのあと夜の街に、悪友とどれだけ飲んだのだろうか
帰宅したら午前様 久しぶりの午前様
パソコンのメールを開いたら、外国人名の添付メールが一通あった
毎日のように、中国系の外国人名(マイケル.チャン風)の添付メールが来ている
それを開封せずにゴミ箱送りが日課、今日のそれもゴミ箱へ?・・・!
見覚えがある名前、なんと一年ぶりのメールは、青森のジャマイカ人夫婦からのもの
捨てなくてよかった
2年前に生まれたばかりの赤ん坊だった娘が、もうしっかりした顔立ちになっていた
いつもメールは英語で来る、でも私の英語力を知っているから、小学校か中学校低学年
程度の単語が並んでいる、だから読むのは比較的簡単
問題は返事を書くこと、だいたい簡単な内容でも辞書引きで30分はかかる
なにしろ、あちらさんは日本に住んでいながら日本語がからっきしダメ
二日後に、今度は中国人留学生から手紙が届いた、赤い封筒に赤いペンで書いてある
中国人の赤色好きは本当だ
便箋3枚びっしり中文で書いてある、すべて漢字だから(日本にない漢字が20%くらい)
さらさらと読み流す、大雑把な感じはつかめる、漢字だから本格的英文よりはわかりやすい
それからがたいへん、これをすべて読み解くには1か月はかかる、辞書を引き、
「わたしのこれは です ~と比較して 昨日まで いました 中国に 友達 わたしの紹介」
みたいに意味不明の直訳 これを前後の分と比べて意味を考えていく
どこにテーマがあるのだろうか考える
解釈でどうにも変わる、かって解釈違いで戦争が回避できなかったなんて実例はいくつもある
「日本人が責めるから嫌いになる」とも「日本人と話す事が少ないから、疎遠になる」
どちらにも訳せるし、どちらも間違えているかもしれない
考え方も違うから、そちらの頭の中も見ながら、想像しながらやらないといけない」
結局最後は、別の中国人にそれとなく訳してもらうしかない部分が結構ある
時代は国際化だ! 否が応でも国際化の波が 田舎にも黒船がやってくる
まずは物おじせずに向かっていけるようにならなければ外国語は上達しない
2015年でいえば、東京スカイツリーを中心円に、浅草、上野、深川、砂町、亀戸、両国、千住
アメリカ軍の巨大爆撃機B-29数百機が数時間にわたり、この一円に油をまき散らし
焼夷弾をばらまき、人も家も骨になるまで焼き尽くした
無残に焼き殺された東京市民は10数万人
私の当時50歳のおじいさん、45歳のおばあさんも犠牲者だ
亀戸3丁目北十間川の近く、福神橋交番、香取神社で近所の人が姿を見たのが最後
おじいさんの妹も浅草で犠牲になった、まだ40歳に満たぬ若さだった
私の父は調布の高射砲大隊に勤務、三式戦飛燕の航空隊と同居し、B-29撃滅の
任務に就いていたが、むなしく東京は焼き尽くされた
私のおじいさんとおばあさんは、本当は8日ごろに疎開する予定だったのだ
ところが父の休暇が10日ということになり、「2日くらい伸ばしても息子と過ごそう」
と、疎開を伸ばしたのが悲惨な結末になってしまった
10日の朝、父は休暇をもらい亀戸を訪ねた、上野駅に下り立つと一面瓦礫と焼け野原で
茨城の筑波山まで見通せたという
おばさんが住んでいた浅草寺裏も仲見世も瓦礫の山、おばさんと隣の娘の「ユクエシレズ」
の木札が焼け跡に立っていたという
亀戸の自宅後はまだプスプスとほのかに煙がたなびいていたという
浅草寺の「ご本尊ご無事」の標柱がむなしかった
3月中に本所被服廠跡(横網公園)の慰霊堂にお参りに行く
関東大震災と東京大空襲の犠牲者20数万人の御霊の慰霊堂
今年は70回忌ということで今日盛大に慰霊式典が行われているのではないだろうか